番外編 おばあちゃんになっても sideアリス
最後の鳥居をくぐり抜けたときも、まだレリアとサラは言い合いを続けていた。二人とも、まるで鳥居の朱塗りが染み込んだかのように顔を真っ赤にしている。アナはどう止めればいいのかわからずにおろおろとし、ウィンディーネはうんざりした表情で何度も舌打ちをしていた。私はレリアとサラの姉貴分として、二人を温かい目で見守っている。
「も~! レリアのバカ! どうしてあたちの気持ちがわからないの!」
「それはこっちのセリフですわ! わたくしがどれほどサラを想っているか、一度でも考えたことがありますの!?」
「そんなの知らないよ! も~! レリアなんてお尻にホクロが五つもあるくせに!」
「なっ……なんでそんなことをここで持ち出すの!? なら言わせてもらうけれど、サラなんてでべそじゃない!」
なんて可愛らしいケンカなのだろう、と私は思う。ちなみに、レリアのお尻の小さなホクロは左右で3:2に分かれている。私はそれをお風呂で目にして、お尻の割れ目をセンターラインに見立ててドッジボールを想像したことがある。左がやや優勢なのだ。
話が胸のサイズに及んだころ、私たちは本殿の前まで辿り着く。サラは十歳程度の見た目にしては胸が大きいので、そこを起点にしてレリアを言い負かそうとしている。そしてこれはとても悲しいことだが、レリアの胸はもう十二歳なのにほとんど膨らんでいないのだ。私も今は似たようなものだけれど、裸になって鏡の前に立つたびに萌芽の兆候が感じられる。うふふ、きっと十八歳になるころにはたわわに実っているわね。
「胸の大きさになんの関係がありますの!? サラ、あなたわたくしたちがどれだけ大切な話をしているかわかってる?」
「もう大切な話なんか終わってるもん! あたちが覚醒してほかの誰かになっても、レリアはどうだっていいんでしょ!」
「だからそうじゃないと何度言えばわかりますの!? 少しは冷静になって、わたくしが話したことを一つひとつ思い返してみなさい!」
そこでウィンディーネの雷が落ちた。テメェらいい加減にしやがれ! とドスの利いた声でどなり散らした。あまりの怒声の響きに、拝殿の鈴緒が振り子のようになって揺れたぐらいだ。ふと目に入った小さな賽銭箱は、桟板に落ち葉がぎっしりと挟まっていた。とてもじゃないが、ご利益のようなものは期待できそうにない。
「テメェらもう最後になるかもしれねぇのに、いつまで言い争ってやがんだ! おいレリア、テメェはこのままサラマンダーが覚醒しても構わねぇのか!? ケンカしたことすら忘れちまったとしても、絶対に後悔しねぇって胸を張って言えるか!?」
レリアは右手で左腕の肘の辺りをさすりながら口を開く。「言えませんわ……」
「サラマンダーはどうだ!?」とウィンディーネは続けてサラを見やる。「今のテメェは今だけかもしれねぇんだぞ! レリアと仲違いしたままでいいのか!? もしあの嫌味な性悪女になっちまったら、一生素直に心を開くことなんてできねぇぞ!」
「あ、あたちは……」とサラは言う。大きな目に涙を浮かべている。「そんなのヤダ! あたちレリアとケンカしたままいなくなりたくない!」
ウィンディーネは私が言おうと思ってたことを全部代弁してくれた。さすがは私が見込んだだけのことはある。レリアとサラはこれまで不満や鬱憤をぶつけ合い、思いきりケンカをした。だからあとは仲直りをするだけだ。きっと、そうやって少しずつ絆を深めていくのも、姉妹のひとつの形なのだろう。やっぱり私は二人を羨ましく思ってしまう。私も産まれることのなかった妹と、こうやってケンカをしてみたかった。
「二人で手を繋ぐのよ!」と私は言う。そして最初はおそるおそるだが、指先が触れ合うと磁石のように強い力で結びつくレリアとサラの手を見守る。「いいわ、それじゃあお互いの良いところを一つずつ言い合うのよ! まずはレリアから発表してあげてちょうだい!」
すぐに唇が動き言葉が形作られようとしたが、レリアは思い直すように口に一本線を引いてしまった。きっと食い気味に発言しそうになったことを恥ずかしく思ったのだろう。レリアはそれからしばらくのあいだ、いかにも悩ましげに思考に耽るふりをした。
「も~! なんでパッと出てこないの! あたちにはイイところが一個もないの!?」
「そ、そうではありませんわ! け、けれどこういうことをいざ本人を前にして話すとなると、なんだか照れ臭くなってしまいますわ!」
すると、どういうわけかそこで私の両肩がアナに掴まれ、強引に回れ右をさせられてしまう。少し離れたところまで押し込まれると、二人の好きなようにさせてやろう、と小さな声でアナは言う。
たしかにそのほうがいいかもしれない。私はアナやウィンディーネと木陰に並んで立ちながら、拝殿に上がる短い階段に腰を下ろしたレリアとサラを見つめる。先に口を開いたのはレリアだった。何時間かかってもいいわ、二人で納得できるまで話し合いなさい! と私は心のなかでメッセージを送った。
*
レリアはサラと一緒に初めて食べたコロッケの話をした。寒い夜に屋台に並び、二人でオパルツァー帝国の街を歩きながら食べた。サクサクな衣、ホクホクのじゃがいも。かける分量がわからず指にまで垂らしてしまったソース。慌てて舐め取ったその甘味。食べ歩きなんて姉に見つかったらすごく怒られてしまう。それもあってか、ちょっぴりいけないことをしているみたいですごく楽しかった。
また二人で食べたいですわね、とレリアは言った。そうだね、とサラは少し押し黙ってから静かな声で言った。
それからも思い出話は続いた。サラが初めて経験する飛空艇での空の旅。ガササラ火山の大冒険。猫の国での休息。遠い東の国で、みんなで浸かった温かい露天風呂。サラが優勝して、一日王様権を獲得したトランプ大会……。どこに行っても、何をしてても、サラはわたくしの隣で笑っていたわね、とレリアは言った。そのおかげで、わたくしは常に前を向いていられましたのよ。家出中なのも忘れてね。
サラは初めは一緒になっていろいろと感想を漏らしていたが、次第に溢れてくる涙が少しずつ言葉を詰まらせた。二人の思い出が一巡りすると、むせび泣く声だけが狭い境内に残されてしまった。
あら、どうして泣くのかしら? レリアはハンカチをポケットから取り出し、サラの目元をそっと拭った。本当にもう、サラはいつまで経っても泣き虫ですわね。
だって……、と小さく肩をすぼめてサラは言った。だって、レリアが最後のお別れみたいなお話をするんだもん……。
小さな身体をそっと引き寄せ、レリアはサラを抱きしめた。最後じゃありませんわ、これは確認よ。わたくしたちはまだほんのちょっとしか思い出の絵本を埋めていないわ。終わりになるには早すぎる、サラはそう思わない? だから今は、栞を挟んでおくだけ。またすぐにページを開いて、わたくしたちはわたくしたちの物語を二人で紡いでいくのよ。ウキキ様とアリスの冒険手帳に負けないくらい、うんざりするほど長い物語をね。
も~! と大きな叫び声を上げ、サラはレリアの(平らな)胸から顔を離した。
「レリアなに言ってるかわかんない! ねえ、ホントにいいの、レリア! あたちセンダイの記憶を引き継いじゃうよ! そしたらレリアのこと、ぜ~んぶ忘れちゃうかもしれないよ!」
レリアは手を伸ばしてサラの短い角に触れた。慈しむように、優しくそっと。
「忘れませんわ、サラはわたくしのことを絶対に忘れない。もし覚えていなかったとしたら、それはちょっと思い出せないだけよ。誰にでもあることですわ。だからそうなったら、こうやってサラの可愛らしい二本の角に訴えかけますわ。栞を挟んだページを、早くおひらきになって、とね。だから大丈夫、わたくしたちはこれからもずっと一緒ですわ」
「でも、あたち大人のおねえさんになっちゃうかもよ! そしたら、あたちはあたちじゃなくなっちゃうでしょ!?」
サラの瞳のなかでレリアは微笑み、小さな手に自分の手を重ねた。
「そんなことはありませんわ。どうなってもサラはサラよ。わたくしがおばあさんになってもわたくしなのと同じことですわ。それとも、サラはわたくしが皺くちゃの顔になったら、もうレリアと呼んではくれませんの?」
サラはぶんぶんと顔を何度も横に振った。おばあちゃんになってもレリアはレリアだよ! と慰めるように彼女は言った。それから落ち着きを見せて一度は笑顔になりかけたが、その途中で表情が石像のように固まった。大袈裟に頭を抱え、新たに発見された問題点を口にした。
「でも、でも! おねえさんになったら、あたちレリアよりおっきくなっちゃうよ! あたちがレリアのお姉ちゃんになっちゃってもいいの!?」
「それはたしかに、困りますわね……」と言って、本当に困ったような表情でレリアはしばらく考え込んだ。「そうね、ならこうしましょう。わたくしたちのあいだでは、姿かたちは外見以上の意味をもたらさない。どんなに大人になっても、サラはわたくしの妹。これでどうかしら?」
今度は何回も頸椎が心配になるほどぶんぶん頷き、サラは明るく笑ってレリアに抱き着いた。素敵な考え方だと私は思う。なにもレリアとサラに限った話ではなく、どんな異質な姉妹だって絆で結ばれてさえいれば、姉と妹という形は歪むことなく保持されつづける。たとえば種族が違っていても。たとえばそれが、少女と醜い老婆であったとしても。
レリアとサラはそれからしばらくまた語り合い、太陽が西の空に傾くころにゆっくり立ち上がった。もうそこに不安はない。たとえサラの姿がどのような変貌を遂げようと、たとえレリアのことを覚えていなくても、もうこの姉妹はそんな未来に怯えない。望まない明日だとしても、それが望みのない未来ではないとちゃんと二人ともわかっている。
「もういいのか?」とウィンディーネは静かだけれどどこまでも透る声で尋ねる。
ええ、と姉は言った。追いかけるように、うん! と妹は元気よく口にした。




