番外編 秘密の特訓 sideアリス
朝の六時に私は起床する。とくに目覚ましをセットしなくても、いつもこのぐらいの時間にぱっと目が覚める。お爺さまの影響で、早起きが習慣づいているのだ。元の世界ではジェームズやステファニーと庭の散歩をして過ごしていたこの朝のひと時を、私は転移してからずっと秘密の特訓に費やすことにしている。あの人は寝坊助だから、きっと私の影の努力なんて露ほども知らないことだろう。
飛空艇はまだ空の上を運行している。私はそれを部屋の窓からの景色で見知る。遠くのほうで霧のような雲が生まれたての陽光を浴び、黄金色に輝いている。今朝見たあの人の夢が、都会の儚い雪化粧のようにだんだん溶けていくのを感じる。でも温もりはずっと胸の奥に残っている。
音を立てずにパジャマから着替えたつもりだったが、ジャージーのファスナーを首元まで上げたところでアナを起こしてしまったことに気がつく。目が合うとアナはおはようと私に言い、私も同じ朝の挨拶をアナに返す。
「ずいぶんと早いな、アリス殿」とアナは起き上がりながら言う。「それに、そんな格好になってどこに出掛けるつもりだ? まだ離れ小島には着いていないようだが?」
「甲板で秘密の特訓よ!」と私は言う。「今日は召喚しながらでも精霊術が100パーセント命中するよう、グリフィンちゃんに乗ってアイス・アローを百本撃つメニューよ!」
アナは関心するように、ほうと相槌を打つ。「なら、わたしもその秘密の特訓に加えさせてもらおう。たまには初心に帰り、素振りをして汗を流すのもわるくない」
アナが着替えを済ませると、私たちは部屋を出て廊下を並んで歩く。レリアとサラが眠る隣室を通り過ぎ、その斜向かいのウィンディーネとクラウディオの部屋の前を板床が軋まないよう静かに進んで行く。短い階段を上がり、甲板に出る。冷たく新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、身体を冬の世界に馴染ませる。
まずは持参したCDプレイヤーで音楽を流し、一緒にラジオ体操をする。アナはもちろんやり方を知らないので、私を真似てもらう。ラジオ体操第三が終わるころには全身がじんわりと温かくなり、体も十分ほぐれてくる。準備体操が済むと、アナは船縁に立てかけておいた剣を鞘からすっと抜く。そして真剣な顔つきで力強い素振りを無心に繰り返す。
私はおもわず稽古を続けるアナと、彼女の意思を汲んで淀みなく大気に様々な切り込みを入れるヴァングレイト鋼の剣――オウス・キーパに見惚れてしまう。今は天国にいる元領主のおじいちゃんから貰った、アナの大切な剣だ。細身の刀身が一切の曇りなく朝日に煌めき、反射光がちらちらと甲板のなかを踊っている。
彼女は特別な能力には恵まれていない。精霊術は使えないし、幻獣をその身に宿すこともできない。けれどそれをハンデと捉えず、幼いころから一心に剣の腕を磨き続けてきた。そしておそらくは私もあの人も知らないところで、多くのウィザードやグラディエーターを捻じ伏せてきたのだろう。たゆまぬ努力の結果アナが手にした、言わば純然たる無能力の剣で。
アナに憧れるのは、彼女に師事する騎士見習いのレリアだけではない。私だってアナを理想の一人として見ている。私の目指す場所の限りなく近いところに、間違いなく彼女はすでにいる。だからこそこうして眺めてばかりではいられない。
私はグリフィンちゃんを召喚し、その背に跨る。そして飛空艇から飛び立ち、雲の上を駆けまわりながら上空にソフトボール大のアイス・キューブを創造する。それから手を下ろして落下させ、その的に目をすがめて狙いをつける。しかし撃ち出したアイス・アローは左に大きく外れてしまう。
「なかなか興味深いことをやっているな」とアナは甲板から私に言う。「グリフィンを呼び出しながら、同時に精霊術を二種繰り出しているのか。膨大なマナを有するアリス殿にしかできない芸当と見える」
「コツは集中と、ヘソの下に力を入れることよ!」と私は言う。「けれど当てられなくちゃなんの意味もないわ!」
その瞬間、グリフィンちゃんの頭上に浮かぶ輪っかの光が弱まる。それにあわせて高度が目に見えて下がっていく。喋ってしまったことで注意が逸れ、私と召喚獣を繋ぐマナの通り道が細まってしまったのだ。私は鬣にしがみつきながらマナのトンネルを再構築し、何本もの糸を編むように意識を再接続させる。それでようやくグリフィンちゃんの光の輪が輝きを取り戻す(見えないけれど、私の頭にある輪っかも同じだろう)。飛空艇と同じ高さまで飛んでいき、縁から身を乗り出して心配しているアナに大丈夫よとジェスチャーを送る。
それからも同じメニューを続ける。けれど百本どころか、五十も数えないうちに私の限界が近づいてくる。10メートルしか離れていないのに、命中だってほとんどしなかった。標的のアイス・キューブをバスケットボールほどの大きさにしてやっと何発かだ。まだ私には色んなことが足りていない。
きっと私の一挙一動を見守ってくれていたのだろう、そのあたりでアナに特訓を止められる。私は手を挙げて戻ると合図し、慎重にゆっくりとグリフィンちゃんに羽ばたいてもらう。
しかし、飛空艇まであと少しというところで、私は衝動に駆られる。この世界のどこかにいるかもしれない妹を探すという、どうしようもなく強大な衝動だ。今すぐ踵を返し、この空の下を隈なく探し回りたい。ここにいなければ、違う空の下をどこまでも探し回りたい。妹はきっとどこかで泣いている。妹の頬に触れ、同じ血が流れる姉がいるのだと、一刻も早く教えてあげたい。
けれど、あの人の声が私に言う。お前が妹を見つけるのではなく、妹がお前を見つけるんだ。どうしてかしら? 彼の声を聞くと不思議と落ち着いた気持ちになる。いつからかしら? 悔しいけれど、あの人の声は私の心になによりも強く優しく響くようになっている。『だからお前は下手に動かないほうがいい』。
私は私の意思を汲み、空中で立ち止まってくれているグリフィンちゃんの頭を撫でる。もう平気よ、飛空艇までまっすぐ飛んでちょうだい! アナの隣に着地すると、私はグリフィンちゃんを神獣界に還し、ペットボトルのオレンジジュースを半分ほど一気に飲む。そうして一息つくと、どこからかあの人の匂いが漂ってくる。
気のせいかもしれない。けれど私はそれを心ゆくまで吸い込む。一生この匂いを嗅いでいたい。私がおばあちゃんになっても、あの人のすぐ近くで。
*
秘密の特訓が終わり、私たちは部屋のシャワーを一緒に浴びて念入りに汗を流す。部屋着になって二人で紅茶を飲んでいると、どこからか自然とレリアの話になる。というのは最近あまり元気がなく、ぼーっと遠くを眺めてばかりなのだ。ここ何日かはため息をつく回数も極端に多くなったように感じられる。
「やはり、サラのことを憂慮せずにはいられないのだろう」とアナは言う。「サラマンダーとして覚醒したら、今のサラから別の存在になってしまうのではないかと……」
サラは先代の記憶を引きつかずに代替えを果たしてしまった。それを完全に取り戻すのが今回の私たちの旅の目的だ。そうすることでしか、この惑星に私たちの強さの可能性を示せない。示せなければ、惑星は最後の飛来種への対抗策として自浄作用を働かせてしまう。そして地表が跡形もなく焼かれる。
私は二人の出会いを詳しくは知らない。暗い洞窟の奥で色々あったのだと、同行していたあの人から簡単に聞かされたぐらいだ。けれどその場面に居合わせずとも、レリアとサラを見ているとなんとなくわかる。きっとレリアがその身を犠牲にしてまでサラの孤独の闇を払ったのだろう。だからこそ、二人は本当の姉妹のように仲が良いのだ。
私たちはレリアの心の機微を見ている。みんなレリアの気持ちを察しながらも、口には出さずにそれぞれの距離から見守っている。だって誰にもわからないのだから。どうなってしまうかも、もし本当にサラがサラでなくなってしまったときに、どうやってレリアを慰めればいいのかも。
私は腕を組んでう~んと唸る。紅茶のカップはまだ白い湯気を立てている。どうすれば誰も悲しまずに済むのかしら? 椅子に深くもたれてなんとなくドアに目をやると、それが急に開かれる。もちろん私が念動力に突然目覚めたのではなく、誰かがドアを開けて入ってきたのだ。
それは血相を変え、焦燥感に駆られるレリアだった。「サラは、サラはどこ!? いなくなってしまいましたの! アナ様、アリス、見ていない!?」
レリアは賞状のように巻いた画用紙を手にしている。サラがお絵かき用に使っていたものだ。そこにはクレヨンでメッセージが記されている。レリアから教わって練習中の、大きさが不揃いな拙い文字で。
『レリア かなちい なら あたち キオク いらない』
一番レリアをよく見ていたのは、ほかの誰でもないサラだったのだ。




