419 彼の人生にエールを
翌日は朝七時に山小屋を出た。お昼前にはハバキ村に到着し、その足で俺たちはウヅキ家の屋敷に向かった。なんとなく村のあちこちに目を配りながら歩いたが、とくに死ビトに荒らされた様子は確認できなかった。妖しの雲が少しのあいだ解除され、少なくない数の死ビトが村に雪崩れ込んだはずだが、アナやレリアやグスターブ皇国の戦士たちで上手く対処してくれたみたいだ。
アリスは村人たちの平穏な暮らしを目にすると、満足そうにうんうんと頷いた。そして自分の仲間たちの活躍ぶりに、監督目線で称賛を口にした。それから「クラットのところの軍団もなかなかやるようね!」と大袈裟に頭を振って、隣を歩く皇子に声をかけた。クラット皇子は微笑みの成りかけを口許に薄っすらと浮かべ、喉の奥でくぐもった小さな音を鳴らした。
「まあ、なんと言っても、オレ様がビシバシしごいて鍛え上げた奴らだからな」とグスターブ皇国の大男がクラット皇子に代わってアリスに答えた。「全員が無傷とはいかねぇだろうが、たぶん誰も死んじゃいねえだろう。まずは何より自分の命を優先しろと、口を酸っぱくして(と、あとはまあこのコブシで)教えてきたからな。それがひいては仲間を守ることに繋がるんだ」
霊峰サヤからここまで、俺たちの会話はずっとこんな感じだった。俺やアリスがクラット皇子に水を向けても、ちゃんとした返事が返ってくることはなかった。砂嵐のなかを歩く孤独な旅人のように寡黙で、そして奥行きを欠いた表情のない目をしていた。龍域での出来事やラウドゥルのとった行動が、彼の心を深い霧のなかに置き去りにしてしまったのだ。
ラウドゥルは書置きを残して消えてしまった。俺たちが小屋で目を覚ましたとき、すでに彼の姿はなかった。『しばらくのあいだ皇子を頼む』、これがラウドゥルからのメッセージだった。定規を引いたようにまっすぐな文章からは、彼の几帳面さが窺えた。
ナルシードはすぐに後を追った。彼としても、ラウドゥルが皇子を置いて消えたことが気に入らないようだった。もちろん何か考えがあっての失踪だとナルシードは推測する。ただかつて憧れを抱いた男から、なんらかの説明が欲しかっただけだ。
だがクラット皇子は穏やかではいられない。『龍を宿せし者』でないと明らかになった自分は、捨てられたのだと考える。それから目はますます虚ろになり、口数が極端に少なくなる。アリスや大男が元気づけようとしても、かすかに顎を引いて頷くだけだ。「余はもう必要とされていないのじゃな……」、これがラウドゥルの短い書置きを前にして、皇子が漏らした最後の言葉だった。
ウヅキ家に着くと、門番の男から来客の存在が告げられた。アナとレリアのことだった。二人は昨夜ウヅキと協力して村の防衛にあたったらしい。その流れで屋敷に宿泊させてもらったみたいだ。
アナとレリアはちょうど昼食をとるところだった。二人にクラット皇子と大男をなんとなく紹介していると、女中のおばあさんが新たに俺たちの分までとろろ蕎麦を用意してくれた。
おばあさんはゆっくりした動きで配膳しながら、家主は朝からムツキ家に出向いていると教えてくれた。死ビトの襲撃による被害確認のための十二家会議があるらしい。ウヅキがそんな集まりに素直に参加するなんて、すごく珍しいというのがおばあさんの意見だった。あの坊ちゃまが、やっと家長になった自覚をお持ちになって……、と割烹着の裾で涙を拭いながらおばあさんは嬉しそうに言った。どうせ、会議にかこつけてイヅナに会いに行っただけだろうが、俺は何も言わず曖昧に笑っておくことにした。あいつの名誉はどうでもいいが、この健気な老婦人を悲しませたくはない。
俺がそんな話をしているあいだ、アリスはアナとレリアに霊峰サヤでの出来事を語っていた。まるで講談師のように声に大袈裟な抑揚をつけ、ところどころでテーブルをどこからか持ち出した扇子で叩いた。
崩龍との邂逅。交渉の決裂。そして始まる熾烈な戦い。どうやらアリスのなかでは、覚醒し新たに編み出したアイス・アロー・トゥエルブ(敵を中心に十二本の巨大な氷の矢を時計の文字盤のように配列させ、一斉に撃つ奥義みたいだ)で崩龍を退けたことになっているらしい。クラット皇子に気を取られていたので、そんな大層な魔法を放つところは目撃していないが、たしかに崩龍が退陣したというのは事実だ。しかしそれはその名を冠する崩龍の月・陰が終わって別の世界に――あるいは別の次元に――変位しただけに過ぎない。だけど、俺はここでも黙っておくことにした。こいつの名誉もどうでもいいが、反論してもさらなる反論とチョップが落ちてきて面倒なだけだ。
とろろ蕎麦は絶品だった。旅籠屋のとろろ麦飯にはあまり手をつけなかったレリアも、今回は美味しいですわとぺろりと平らげてしまった。アナは緑茶を啜りながら、そんな弟子のことを前の席から眺めていた。口許にとろろが付いているぞと口にし、しなやかに手を伸ばしてハンカチで拭き取った。
「さてウキキ殿、これからどうする?」とアナはハンカチをまた綺麗に折りたたんで俺に言った。「とりあえずタマハガネに戻るか? それなら、飛空艇を飛ばす準備をしておくよう伝えてくるが」
「ああ、そうだな。今日中には帰って、みんなと合流しておきたいな」と俺は言った。それからふと大事なことに気付いた。ここにいるべき男の姿が見当たらない。
「あれ、そういえばザイルはどこにいるんだ?」と俺はアリスに問いかけた。
「来ていないわよ?」とアリスは扇子でピシピシとテーブルの縁を打ちながら言った。
「いや、来ていないわよ、じゃねえよ……。あれだけザイルを連れてくるように言っただろ?」
「断られたのだから仕方がないじゃない!」(ピシピシ)「城下町を見物しておくから!」(ピシピシ)「戻ったら連絡しろと!」(ピシピシ)「言っていたわ!」
俺は無言でアリスから扇子を取り上げ、大蝦蟇を使役して呑み込ませた。今後もこの調子でやられたら鬱陶しくて仕方がない。チョップをされ腕に噛みつかれたが、静穏のためならそれぐらいは安いものだ。
しかし成り行き上ではあるがクラット皇子を預かることになったので、べつにザイルがここにいなくても問題ないだろう。タマハガネに戻ってから、ゆっくり彼に皇子を見極めさせればいい。この少年が、ザイルを精霊王にするための認印を与え得る召喚士かどうかを。
昼食後にアリスとアナとレリアはウヅキ家の食堂を後にした。飛空艇に寄ってから、少し村を見学するつもりらしい。アリスは玄関から出ると、すぐに空を見上げて妖しの雲についてレリアに訊ねた。遠ざかっていくにつれて説明するレリアの声は小さくなっていったが、アリスの間の悪い相槌は門を過ぎて見えなくなっても聞こえていた。
やがてアリスの声すら響かなくなると、俺は寂れた庭池の鯉になんとなく餌をやった。何匹かはすぐに反応して餌に食いついたが、何匹かは興味なさげに水の中を泳いでいた。雲の切れ間から射す太陽の光が水面で屈折し、そこからは意を決したように池の底まで潜り込んでいる。本当は腹を空かしていた何匹かが、俺の目を盗んで素早く餌にぱくついた。
「こいつは食用か?」と後方から大男が俺に声をかけた。その少し前から、足音の重みでこいつが近づいていることがわかっていた。
「……え?」
「この鯉は食うために育ててんのか? って訊いてんだよ」
「いや、どう考えても観賞用だろ……」
大男は顔をしかめた。「へえ、豊かな村だこって」
彼は外出の恰好をしていた。ぼろぼろの外套を纏い、腰に剣を下げ、何が入っているかわからない汚れた麻袋を肩に引っかけ携えていた。
「あんたもどっか行くのか?」
「ああ、腹も膨れたし、そろそろ行かせてもらうぜ」
「行かせてもらうって、どこにだ? 飛空艇の準備が済むまでに帰ってこれるのか?」
彼はまた顔を大きくしかめた。いかつい顔が余計にいかつくなる。
「なんでオレがお前らの飛空艇に乗ることになってんだ。お前の世話にはならねえよ、ちゃんと旅の手筈は整ってんだ」
「旅? どこに行くっていうんだ? ちゃんとあとで落ち合える場所か?」
いかつい顔がわははと笑った。それでも強面であることに変わりはなかった。
「落ち合うつもりなんざねぇよ。つい昨日言ったばかりだろ? これからは南の国で、酒と女に酔いしれて暮らすってよ」
鯉が水面を跳ねてぽちゃりと音を鳴らした。どの鯉かまではわからなかった。
「……あんたのこと、ちょっと見直してたんだけどな。つまり、あんたもクラット皇子を見捨てるってわけだ」
「おおいいねぇ、タフ・ボーイ。すっかりオレのことを格下として見てるってわけか」
俺は何も言わなかった。黙ってグスターブ皇国の大男の目を見ていた。
やがて彼は溜まった空気を抜くように息を吐き、坊主頭を手のひらで何度か叩いた。スプーンで額をペシペシとやられた、こいつとの最初の出会いを思い出してしまう。
「オレはともかく、ラウドゥル団長様にそんなつもりはねえよ」と彼は言った。「お前だってわかってんだろ? あのクソ真面目な堅物がそんな半端な真似をするはずがねえって。まっ……しばらく一人で考え事に耽りたいって気持ちも、少しはあるかもしれねえがな……。だがいずれにしろ、近いうちに必ず皇子を迎えに来るだろうよ。自分の死に場所は皇子のそばだって、最初から決めちまってんだよあの男は」
少々の間が置かれた。自分の胸のなかでトスしたコインの表裏を密かに確かめるような、そんな沈黙の数秒間だった。
「悪いがオレはそんな気にはなれねえ。崩龍の攻撃から皇子を庇っただけで、もう一生分の忠誠心を使っちまった。ようするに、そろそろ本当の頃合いってわけだ。これ以上一緒にいたら、マジで命がいくつあっても足りゃあしねえ」
そっか……、と俺は言った。意図せず漏れ出た相槌からは、驚いたことに哀愁のような響きが聞き取れてしまった。
「オレのモットーはよ、タフボーイ。何より自分の命を優先するってことなんだよ」
「ああ、知ってるよ」と俺は言った。「それがひいては仲間を守ることに繋がるんだろ?」
大男は手を何度か横に振った。まるで目に見えない蠅を追い払おうとするみたいに。「よせよ、もうそんなつもりはねえ」
彼を責める気にはなれない。誰もそんな権利を有していない。むしろ、これからの彼の人生にエールを送りたいとさえ思う。中年に迫りつつある男の、新たな門出に。本当に、人との仲なんてどうなるかわからないものだ。だって死ぬほど嫌いな相手だったのに、今では友人の一人に数えたいほどになっている。
俺たちは握手を交わして、そこで別れた。どっちが先に手を差し出したのかは憶えていない。去っていく分厚く大きな背中を眺めながら、たぶんまったくの同時だったと俺は結論づけた。
「なあ、ちょっと待てよ! 南の国ガイサ・ラマンダには、キケロっていう元老院議員の友達がいるんだ! 俺のことを話せば、もしかしたらブドウ酒とチーズぐらい振舞ってくれるかもな!」
振り返ることはなかった。大男は手を挙げて拳を握り、俺に見えるように親指を立てた。




