418 二人の手のなかに
幽宮を通って霊峰サヤの火口まで戻ると、ラウドゥルがそこまで降りて俺たちのことを待ち構えていた。彼は俺とアリスのあいだに立つクラット皇子の顔色を見定め、心の機微を捉えようと努めていた。やがて皇子の内奥にあるものを見て取り、駄目だったか……とぽつりと呟いた。
「すまぬ、ラウドゥル……」とクラット皇子は下を向いたまま言った。「余に崩龍と契約する資格は具わっていなかった……。余は『龍を宿せし者』ではなかったのじゃ……」
ラウドゥルの変わらない冷静な顔つきは、ある程度の覚悟を持っていたことを物語っていた。俺がさんざん言ってやったのをあれだけ否定しながらも、どこかの時点でその可能性を受け容れ始めていたのかもしれない。寒い冬の民家が、完全には隙間風を防げないのと同じように。
「そういうわけだから、龍の力でオパルツァー帝国に戦争を仕掛ける線はなくなったな」と俺はラウドゥルに言った。それから彼の目の焦点が俺に合うまでに、それなりの時間が必要だった。
「別の方法を取るまでのことだ」とラウドゥルは俺に言った。あるいは自分自身に向けて。「もう今日は遅い。少し離れたところに小屋がある。そこで休み、明け方に山を下るぞ」
誰の返事も待つつもりはないようだった。ラウドゥルは俺たちに背を向け、高い火口壁を助走もつけずに一足飛びで越えていった。アリスも負けじと風の加護でふわりと飛び跳ねて彼を追った。俺は木霊を使役して即席の階段をこしらえ、クラット皇子が登るのを手伝ってやった。最後に残ったグスターブ皇国の大男は、一人ばつが悪そうに空に浮かぶ紅い四の月を眺めていた。
「お前も一緒に来るんだろ?」と俺は火口壁の縁に立って振り返り、大男に言った。
「ああ……オレがラウドゥル団長に斬り伏せられず、同じ屋根の下で寒さを凌ぐことを幸運にも許されればな」
アリスとクラット皇子をさらった手前、俺たちと行動を共にするのは気が引けるみたいだ。そんなことしないだろ、と俺は言ってやった。こいつはクラット皇子を身を挺して護った男のなかの男だ。それはほかの誰でもなく、俺が絶対的な自信を持って保証してやることができる。
「もしそんなことになったら、俺があんたと一緒にあの化物と戦ってやるよ」と俺は言った。「だから、ほら早く行こうぜ」
彼は顔をしかめ、唇をいびつに曲げてから微笑した。「なるほど、それも悪くないな」と大男は言った。
*
山小屋は意外としっかりした造りで、丸太で組まれた趣のあるものだった。内部は十畳ほどの広さで、中央の囲炉裏では火が赤々と熾されていた。天井から吊るされた火鉢がその上で温かい湯気をあげている。ナルシードは白い湯けむりの向こうで、胡坐をかいてコーヒーを淹れる準備をしていた。
「やあウキキ君、それにアリスちゃん」とナルシードはコーヒーカップから目を上げてにこやかに言った。それからクラット皇子に恭しく挨拶を述べ、最後に入ってきた大男には軽蔑の混じった一瞥を投げた。
「きみも飲むかい?」とナルシードは作為的な笑みを浮かべて大男に言った。
無言で頷くと堂々と肩をいからせて歩き、大男はナルシードの隣に座った。「ああ、もちろん貰おう」
アリスはナルシードをじっと見ていた。それからそそくさと囲炉裏の前に腰を下ろすと、目を鋭く光らせて声を上げた。
「ナルシードとラウドゥルは、一騎打ちをしたと聞いたわ! どっちが勝ったのかしら!? 和の鉄人アリスは王者として、勝者の挑戦をいつでも受けて立つわよ!」
それは俺もかなり気になっていたが、ここまでのあいだにラウドゥルに訊くことができなかった。しかし彼らの身体を包帯が覆う面積は(前に俺が渡した、どんな傷でも快癒する包帯だ)、その戦いの勝者がラウドゥルであることを暗に示していた。手首や腕だけのラウドゥルに対して、ナルシードは額や首や外套の隙間から見える胸までミイラ男のようになっていた。
それに、ナルシードの晴れやかな顔にも勝負の行方が表れているように感じられた。彼は生きる意味や目標と定めたラウドゥルに戦いを挑み、まだ追いつけない強さをじかに肌で感じた。だからこそ、あんなにも表情を輝かせているのだと思う。俺の知ってるナルシードはそういう奴だ。
もしかしたら、ラウドゥルに対する認識にも変化が生じたのかもしれない。盗賊紛いの行動や暗殺を糧として生きる下卑た元皇国騎士としてではなく、すべては亡国の復興の夢のために身を捧げる不器用な男だと理解できたのかもしれない。ラウドゥルに直接コーヒーカップを手渡す素振りには(以前はそんなことは絶対にしなかっただろう)、そんな感情の上書きみたいなものが見受けられる。敢えて何も言わないところにも、復興への道筋に暗雲が垂れ込めたことを慮る気持ちが込められているように感じられる。
俺がかつて師弟関係にあった二人をそんなふうに見ているあいだも、クラット皇子はどこにも座ろうとしなかった。軽く背中を叩いてから何気なく座席を手で示してやると、重たい足取りで彼はそこまで歩を進めた。それから腰を下ろすのにまた手助けが必要とされた。まるで龍を宿せない自分には、みんなと輪を作って座ることさえ許されないとでも思っているかのようだった。
アリスは赤いリュックからビスケットの箱を取り出し、開封して何枚かずつ全員に配った。お菓子はほかにもポテトチップスやチョコレートやクッキーやキャンディーがあり、アリスはまるで高級料亭のシェフのように彩りを考えながら、人数分のティッシュの上にそれらを盛りつけていった。それからとくに考えがあったようではなかったが、一枚余ったクッキーを「おまけよ!」と言って、隣のクラット皇子の手に握らせた。
クラット皇子は顔を少し赤らめ、今にも消え入りそうな微笑みを顔にたたえた。しかし正面から黙って見つめるラウドゥルの視線に気づくと、ビスケットを配膳されたお菓子の上に載せて、また沈んだ目を自分の足元に落とした。
二人のあいだに会話はなかった。霊峰サヤの頂上から、この小屋に着くまでずっとだ。目を見合わせることもなかったと思う。ラウドゥルの沈黙はクラット皇子にとって、暗喩的な叱責となっていた。あるいは明示された落胆となっていた。もう自分が龍の力を宿して、グスターブ皇国復興のために戦うことはできない。期待を裏切る形となってしまった相手の視線に相対するだけの強さを、この少年は持ち合わせていなかった。ラウドゥルが黙って席を立ち、戸口まで歩いても、少年の一対の瞳がその背中を追うことはなかった。
「どこに行くんだい?」と代わりを担うように、ナルシードが問いかけた。「まさか皇子と部下を置いて、自分ひとりでどこかに消えるつもりじゃないだろうね?」
「そんなわけがあるか……」とラウドゥルは重たい扉を開けながら言った。しかし振り向くことはなかった。「朝まで薪が持たんだろう、それを取ってくるだけのことだ。……そうだな、ならウキキも一緒に来い。少々聞いておきたいことがある」
「ここで訊けないことなのかい?」とナルシードは追うように言葉を継いだ。だが返事はなかった。
仕方がないので同行しようと腰を上げると、アリスが俺に目配せしてから偉そうに深く頷いた。高校野球の監督が、打席に向かう球児に思いっきり振ってこいと激励するような顔をしていた。フルスイング? ちょっと意味がわからない。もしかしたら、クラットは私に任せてちょうだい! だからあなたはラウドゥルを頼むわ! ということだろうか? 俺が思っているよりも、こいつなりに色々と考えているのかもしれない。
薪木は崖に面した小屋の裏側に束になって積まれていたが、しばらくのあいだラウドゥルの手がそこに伸びることはなかった。聞いておきたいことって? と質問すると、やっと無精ひげを生やした精悍な顔がこちらに向けられた。
「龍域では、皇子はどうだったんだ?」とラウドゥルは言った。「つまり、危険な目や辛い目に遭わなかったか訊いている。『龍を宿せし者』でなかったなら、崩龍の襲撃に見舞われたはずだろう?」
俺はなかば呆れ気味に言った。「自分で皇子に訊けばいいだろ……」
ラウドゥルはその場で片膝をつき、雑草の葉に降りた霜を丁寧に指先で払った。まるでそうすることによって、問題の多くが解決されるとでも思っているかのように。
「情けない話だが、どんな態度で接すればいいのかわからんのだ」と彼は言った。「皇子が崩龍を宿せないと知り、オレは正直これまでにないほど気落ちしてしまった。この小屋までどうやって歩いてきたか覚えてないぐらいにな。こんなことばかり考えていた――皇国が甦る未来が閉ざされてしまった、オレたちの夢に陰りが見え始めてしまった……とな。もちろん、皇子が悪いわけではないのはわかっている。『龍を宿せし者』でなくとも、大事な国の宝であることに変わりはない。オレたちが色々と背負わせてしまっていただけのことだ。龍との契約、帝国との戦争の切り札、勝利への最短ルートの鍵、復興後の治世……。そんな、重たく余計な荷物をな……」
霜は薪の表面にも覆いかぶさるように降りていた。なんとなく触ってみると、俺が思っていたよりずっと冷気を帯びていた。
「ちゃんと理解できているつもりだ……」とラウドゥルは続けた。「だが、皇子に冷たい態度を取ってしまいそうになる自分がいる。あまつさえ怒鳴り散らし、突き放ってしまいかねない自分がな……。皇子がいわれのない責任を感じ、委縮しているのはわかっている。だがウキキ、オレはそんな皇子にかける言葉がどうしても見つけられない……。オレの夢が奪われたと嘆く言葉は、今も喉の奥から突き上げてくるのだがな……」
それも仕方のないことだと思う。きっと今は、互いの胸の内にあるものを向かい合わせにすることが難しいのだろう。俺だって程度の違いこそあれ、そんな覚えがまったくないわけじゃない。今はなにより気持ちをあるべくところに落ち着けるだけの時間が必要なのだ。
不意に、小屋の扉が開く音が聞こえた。俺とラウドゥルは同時にその静かな響きを耳にし、同時に後方をかえりみた。しばらくすると、クラット皇子が俺たちの目線の先に現れた。少年はじっと地面を凝視していたが、やがて思い切ったように勢いよく顔を上げた。
「ラウドゥル……。お主の夢に、もう余はいらぬか?」
たぶんアリスがけしかけたのだろう。静観に徹する俺と違って、あいつは常に何事も前進させなきゃ気が済まないのだ。それでかえって後退させることになったとしても。だけど、もしかしたら今はアリスが正しいのかもしれない。たとえどんなものであっても、ふたりのあいだで言葉が交わされるべき時なのかもしれない。
しかしラウドゥルは黙っていた。あるいは黙ることしかできずにいた。山の冷たい風だけが、唯一少年の耳に何かを語りかけていた。それから彼の黒く長い前髪を無造作に散らし、小屋と崖の合間を気忙しく吹き抜けていった。
それでもラウドゥルは返事をできずにいた。ただクラット皇子に歩み寄り、彼の頭を何度かそっと優しく撫でただけだった。
「もう夜も遅い。明日も早いのだ、そろそろ中に入って体を休めるぞ」
ラウドゥルは薪の束を手に小屋まで戻っていった。残された少年はふたたび目を伏せ、そこに立ち尽くした。俺はそんな彼の背中に手をあて、逆の手で後頭部に強めのチョップを入れてやった。アリスのように反撃に転じることも、レリアのように可愛い声が上がることもなかったが、その代わりに少しだけ気の強い眼差しが甦った。
「大丈夫、ラウドゥルの夢にお前がいらないなんてことはあり得ないよ」と俺は言った。「ただ、もうちょっとだけ、冷却期間をあげてやってくれないか? 大丈夫、あいつはちゃんとわかってるよ。だから必ず元通りになる。お前らの夢は、いつだってお前らが取り合う手のなかにあるんだ」
クラット皇子は俺の目を見て頷いた。そうじゃな……、と彼は言った。だが翌朝目を覚ますと、ラウドゥルの姿はどこにもなかった。




