413 明瞭に囁く
そこは霧がかった真っ白の空間だった。幽宮と呼ばれる霊峰サヤの火口から降りていった先だ。いや、降りていったというのはあまりに正確さに欠けている。幽宮に触れたら、気づいたときにはもうここにいたのだ。感覚的にはワープのようなものに近かった気がする。夢の残り香のように聞こえていたラウドゥルの叫びは、もう俺の耳には届いていなかった。
ここが龍域だ、と俺は息を吞みながら思う。このどこかにアリスとクラット皇子がいて、そして崩龍と相対している。自然と足が前に運ばれ、俺は歩を進める。それからすぐに前のめりになって走り出す。
「アリス! どこにいるんだ!?」
四方八方で声が反響し、やまびこのようになって戻ってくる。それは自分の声であるはずなのに、自分のものには聴こえない。闇雲に駆けながら何度呼びかけてみても、アリスやクラット皇子からの返事はまるで返ってこない。霧がだんだんと濃くなっているように感じた。まるで厚い雲のなかを進んでいるみたいだった。自分の手のひらさえ目視することができない。目の前まで持ち上げて、やっと手相を目にすることができる。
もう長いこと走っている気がする。引き返そうかという考えが頭をよぎる。しかし踵を返したところで、元いた地点に戻れる保証はない。それに戻ったところでどうすることもできない。だんだんと感覚があやふやになってくる。前進しているのか後退しているのか、それすら深い森のような濃霧に包み隠されてしまう。
そこで不意に手を掴まれる。しかし、俺はそれをしばらくのあいだ正しく認知することができなかった。強い力で手を引っ張られたので、おそらく掴まれたのだろうという事実に思いあたっただけだ。それから頬をおもいっきりビンタされた。痛みが引いていくにつれて、少しずつ辺りの霧が晴れていった。
「おいタフ・ボーイ、しっかりしろやお前! ちゃんと目を開けてオレのことを見ろ!」
大男の姿が目の前にある。名前も知らない、グスターブ皇国の大男だ。坊主頭で、いかつい顔つきをしている。顎に薄っすらと髭を生やしており、タラコのように厚みのある唇の右脇にはナイフで切られたような傷痕が残されている。絶対にハゲないことを約束された狭い額には、真冬だというのに汗が垂れ落ちている。もう一度頬に平手打ちを喰らったところで、俺は今置かれている状況をやっと理解する。
俺はビンタの衝撃で傾いた首を即座に戻し、正面から大男を睨みつける。同時に、手のひらで彼の胸元に触れる。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
二振りの鎌が厚みのある肉体を透り過ぎ、首元で締め付けられた太紐のみを切断する。薄汚れた外套が脱皮するように彼の体からずり落ちていく。
「次は当てるぞ! アリスをどこにやった!?」
風圧で額の汗が飛び散っている。俺の行動が彼の表情に反映されるまでに少し時間がかかっている。やがて顔を大きく歪め、彼は俺の胸を軽く小突く。
「……落ち着けやタフ・ボーイ、それから周りをよく見てみろ」
周りをよく見てみる。アリスを連れ去られ、それに二発も殴られたあとに彼の言葉に従うのは癪ではあるが、それでも周りをよく見てみる。
これが本当の龍域か、と俺は思う。霧なんてどこにもなかった。そこは真っ白い空間ではなく、火山内部のように岩石と赤々と燃える炎に覆われた場所だった。切り立った崖の上に俺はいる。あと何歩か進むと、意思を持った生物のように蠢動するマグマの流れに真っ逆さまになって落ちてしまう。
「幽宮を通ったあと、無限に続く霧のなかに放り込まれただろ?」と大男は俺に言う。「あれは全部幻想だ。お前は突然オレらの前に現れ、そこらをしばらくうろついていただけだ。オレが助けてやらなければ、今ごろ足を踏み外して、マグマに呑まれていただろうな……。だが、オレは恩着せがましく言うつもりはねえよ。それでも礼がしたいっていうなら、聞いてやらんこともねえがな」
大男の隣には導術師の老人がいた。俺とアリスの血流を操作して致命的な毒を流し込んだ、老獪な癒やし手だ。
「オレの場合は、この爺さんのおかげですぐに現実に戻れた」と大男は続けた。「アリスの嬢ちゃんはたいしたもんで、そもそも幻想に惑わされなかったようだ。まあ、それがグスターブ皇国の血のおかげかどうかはわからんがな」
「アリスはどこにいるんだ!? なんで一緒じゃないんだ!?」
「だから、落ち着いて周囲を見渡せって言ってんだろ?」
彼の指が差した方向は、崖から降りてちょっとのところだった。溶けだした氷河のように流動する溶岩に隔てられ、そこにせり上がった円形の台地が見えていた。中央に人がふたりほど佇立しており、そしてその目線の先に軍艦のように巨大な何かが確認できる。薄暗くてよく見えないが、それがアリスとクラット皇子、そして崩龍だということに疑いの余地はなかった。
俺は思わず腹から声を出してどなった。たぶんアリスと叫んだのだと思う。そして一も二もなく崖縁に向かって駆け出した。どうやって幅のあるマグマの濁流を渡って、上手くアリスのいるところに辿り着くかは頭になかった。だけど、そんなことは崖から飛び降りたあとに考えればいいことだ。今は一秒でも速くアリスに近づきたかった。
しかし、俺の体は俺の意思とは別の挙動を示した。一歩めは前に出たが、二歩めが踏み出されることはなかった。首筋に疼きを感じる。手で触れてみると、血が指先をかすかに赤く染めていた。
振り向くと、導術師の老人が仕込み杖から抜かれた細剣を下段に構え、醜悪な笑みを浮かべていた。刻まれた皺の一本いっぽんが邪悪をたたえている。たるんだ口元からは、だらしなくよだれが垂れかかっている。この男が俺の首に剣先を掠らせたのだ。おそらくは殺すためではなく、血の流れを操って動きを封じるために。
「これからが、いいところなんです」と老いた導術師は言った。「邪魔することは許されません……。あなたも、ああ、ここでご覧になられるといい」
彼はもう俺を見てなんかいなかった。アリスたちに恍惚とした顔を向けていた。これから素晴らしいことが起きると確信している。もう一瞬たりとも目を離さないという決意が、血走った一対の眼に現れていた。
俺は声を張り上げた。「あんたの期待するものは見られねえよ! クラット皇子は崩龍と契約することなんてできない! あいつは『龍を宿せし者』じゃなくて、『時を駆けし者』なんだ!」
今日だけで何回同じような科白を俺は吐いただろう? だが何度そう語りかけても、ラウドゥルには聞き入れてもらえなかった。彼は真実から目を背けてしまった。グスターブ皇国の復興を夢見る者に対して、たしかに俺の口にする言葉は終焉を意味する。多くの犠牲を基に描かれた青写真が踏みにじられるのだから、提示された真相を受け入れられないのもあたりまえのことかもしれない。
しかし、この老人はラウドゥルとは違って、俺の話に多少の反応すら見せなかった。観念ではなく、火は熱いのだと当然の概念を耳にした人間のように、少しも注意を傾けようとはしなかった。その姿に違和感を覚える。俺の胸のなかでどんどん風船のように膨らんでいく。崖下でマグマが燃え盛り、迸る炎が一時の灯りとなって暗所に光を与えている。違和感の風船が破裂し、俺はそっと口を開く。
「あんた――全部知ってたんだな」
返事を聞く必要はない。老人はすべてを承知でこの場に臨んでいる。この男の観たい光景は、クラット皇子と崩龍の契約ではなかった。資格なき者の侵入に猛り狂う龍と、無惨に喰い殺される二人のグスターブ皇国の血縁者だ。狂気をはらんだ目顔が、それを語らずとも明瞭に囁いている。
「ええ、ええ、もちろんです」と導術師はしばらく経ってから言った。「いいでしょう……。崩龍の覚醒まで今しばらく時間がかかるようです。ああ、そのあいだに、昔話でも聞いてもらいましょうか」
窪んだ眼窩の奥で瞳がかすかに輝いた。声は小さく、そしてあまりにも無機質に聞こえた。




