412 最後の声
ラウドゥルは背後から迫るものを感じ取ると、瞬時に振り向き同時にそれを剣で切り落とした。鋭い金属音が耳をつんざく。軍刀の刀身が真ん中で綺麗に断たれ、乾いた赤茶色の土に落下した。旧日本軍で使用されていたような形のものだ。ラウドゥルはそれを見ると、目を細めてふっと笑った。それから一瞬の間を置いて、さらに四本の刀剣がそれぞれの軌道を描いてラウドゥルに襲いかかった。
激しい炎を纏う剣を横に構え、ラウドゥルはその一本いっぽんを最小限の動作で軽く打ち弾いていった。すべてが彼の肌を掠めることもなく地に落ちると、匿名性を帯びた襲撃がぴたりと止んだ。すでに最初の軍刀は黒いもやもやへと変質し、霊峰サヤの頂上の薄い空気と混じりあっていた。
「これで仕舞いか?」とラウドゥルは誰にいうともなく言った。「出てこいナルシード、まずは無礼を詫びてもらおう」
ナルシードはあっさりと岩陰から何歩か移動し、横顔をラウドゥルにさらした。沈みかけた最後の陽が彼の紺色の髪を鮮やかに照らしていた。
「あなたに対して、僕は詫びの言葉なんてひとつも持ち合わせていないさ」とナルシードは顔を背けたまま口を開いた。「だって、かつてのあなたは言っていた。『いつでもオレに挑戦しに来い』、とね」
「そうか、オレはそんなことを言ったか」
「うん、言っていたよ。おとぎ話のように遥か昔のことだけれど」
「なら、たしかに謝罪の必要はないか――」、そこで口上は打ち切られた。そしてその言葉をはるか後方に置き去りにし、ラウドゥルは地上を駆る疾風のようにナルシードに接近した。
「――代わりに辞去を願おうか。お前もウキキも今すぐこの場から立ち去れ」
渾身の一振りがナルシードの頭上から振り下ろされる。素早く生成された魔剣の刀身がそれを迎え撃つが、ラウドゥルの重い剣撃には耐えられそうにない。それを肌で感じ取ると、ナルシードはさっと身を横に逸らした。それから一瞬間ののち、稲妻のような一太刀が空間を縦に切り裂いた。
なんとか回避に成功したナルシードは一度距離を取り、態勢を立て直すだろう。俺は彼らの刹那の攻防を目にし、次の展開を自然と頭のなかで打ち立てていた。だが、はなっから予想は裏切られた。離れるどころか、ナルシードはそこから一歩踏み込んだのだ。左手には新たに顕現した諸刃の魔剣が握られている。ほぼゼロ距離から放たれた刺突は惜しくもラウドゥルの剣に遮られたが、二の太刀はすでに仕込まれていた。いや、二の太刀なんて生易しいものではなく、それはどこまでも数珠つなぎに練られたものだった。
薄暗い空の彼方でたった一本の刃が煌めく。それが始まりだった。次の瞬間にはおびただしい数の魔剣があまねく星のように夜空を輝き渡り、次々にラウドゥル目掛けて降り注いだ。五、十、十五……俺が数えられたのはそこまでぐらいだ。次第にラウドゥルがいなした魔剣の数々が黒瘴気に変じ、濃い仕切りで隔てるように彼らの姿を俺の目から遠ざけた。まるで闇の繭のようだった。空に滞留する何十もの魔剣がどんどん射出されていく。それがゼロになると、しばらくしてから少しずつ黒瘴気が晴れ、二人の輪郭がだんだんと浮かび上がってきた。
ラウドゥルは大きく後退していた。だが、傷らしきものは一つとして確認されなかった。うらぶれた黒いレザーコートの裾にいくつか切れ目が入っただけだ。打ち弾くか切り落とすかして、あるいは回避行動を取るなどして、あれだけあった魔剣をすべてやり過ごしてしまったみたいだ。その表情には余裕さえ感じられる。まだ姿勢を崩さず、意識を全方面に高いレベルで傾けていた。
「終わりか……?」とラウドゥルはナルシードに訊ねた。
「いや?」とナルシードは言った。
ナルシードの長い人差し指がくいっと上に突き上げられる。と同時に、ラウドゥルの足元から筍が生えるように切っ先が飛び出してくる。サーベルのような形状の魔剣だ。ラウドゥルは後方宙返りでそれをぎりぎりのところで躱す。そして綺麗に着地をすると、えぐり飛ばされた赤茶色の地面を見て、呆れたように顔を何度も横に振る。
「いったいどれだけの魔剣が仕掛けてあるんだ?」とラウドゥルは言う。
「それに答える義理はない」とナルシードは応答する。「仕込んでおくだけの時間はそれなりにあった、とだけ言っておくよ」
やれやれ、とラウドゥルは口にする。それからその目を俺に向けてくる。
「ウキキ、お前はこの馬鹿がここにいることをわかっていた。そういうことか?」
「ああ」と俺は言う。「あんたのほかにこの頂上に気配があった時点で、ナルシードだって思ってたよ」
顔をしかめ、彼はもういちど小首を傾げるように何度か顔を横に振る。
「なるほど。それで、どうするつもりだ?」
「どうするって、俺とナルシードであんたを倒して、それから龍域に降りてアリスとクラット皇子を救出しに行くに決まってるだろ?」
「まだそんな戯言をほざく気か。よっぽど皇子と崩龍の契約を阻止したいらしいな――」
またラウドゥルは自分の科白をそこに置き去りにする。まだ声の響きが彼のいた場所に残されている。いや、これはあくまで比喩的な話だ。彼は青龍を宿したイヅナのように、音の波を越えて音速で動いているわけではない。だが気づけば距離を縮められ、俺は無防備のうちに彼の間合いに引き入れられてしまっている。形而上的な速さ――そうとしか表現のしようがない。
だが予兆はしっかり視えている。相変わらずえげつない剣筋だ。一呼吸のうちに腹と胸と首を薙いでいる。一、二、三……俺は青い軌道のとおり順番に剣閃を躱していく。しかし、その終わり際に放たれた火焔を避けることはできなかった。俺の知らない、だからこそ視えない、精霊術か何かだ。
左の腕が痛む。熱く大きな鏝を長時間押し付けられたように焼きただれてしまっている。しかし致命傷には程遠い。落ちかけた膝を上げ、まっすぐ腕を伸ばして、俺は鎌鼬をラウドゥルの胸元に浴びせる。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
同時にナルシードも刀剣を二本撃ち出している。それとともに軽く握られたレイピアのような魔剣を突き放っている。しかし、ラウドゥルは身を翻した連続的な一振りでそれらをすべて切り伏せてしまう。回し蹴りによる反撃付きだ。俺とナルシードはそれをすんでのところで躱し、飛び退いてそこにふたり並び立つ。
「なかなか悪くないデュオじゃないか」とラウドゥルは俺たちを見て言う。「しかし生意気な小僧ふたりを相手にするとなると、オレも上手く稽古をつけてやるのは難しくなる。ここからは文字どおり殺しに行かせてもらう。クラット皇子とオレの夢に立ちはだかると言うのなら、ここで消し炭にしてやる」
さんざん殺意の赤い眼を光らせておきながらこの言い草だ。だが、稽古事というのはあながち嘘でもないのだろう。俺は酷く痛む左腕に目をやる。これがもし心臓を狙われていたら、俺はとっくにあの世ゆきだった。それが、まるで認識していない攻撃に――予兆が視えない攻撃に――もっと気を配れと教えんばかりに、わざわざ急所を外してきた。こいつはこんなふうに、俺のことを今いる位置より引き上げてくれようとする節がある。だからこそ嫌いになれないし、いずれ共闘の道を……とぐずぐず考えてしまう。
ナルシードに肘で横っ腹を突かれた。それから彼は小さな声で俺に言った。「ウキキ君、キミはキミのやるべきことをやるんだ。そのための道はもう作っておいたよ」
その一言で彼の伝えたいことが理解できた。俺のやるべきこと、それはこんなところでいつまでもラウドゥルと戦うことでは決してない。
アリスが龍域で俺の助けを待っている。傷つきながら、俺の名前を何度も大きな声で呼び続けている。そんな気がする。あいつはなんだかんだ言いながらも俺のことが誰よりも大好きで、何よりも頼りにしている。そんな気がする。
スタートの合図はなかった。だけど俺たちは同時に動き出すことができた。それぞれがラウドゥルの両側から接近を試みる。俺が左側で、ナルシードが右側だ。ナルシードは中空に仕込んだ魔剣を何本か降らせ、そしてやはり自らも魔剣を握り込んで斬りかかっていく。俺は鬼熊を使役し、挟撃という形に持っていく。
「出でよ鬼熊――」、しかし俺はそこで止まらない。ラウドゥルの真似というのではないが、顕現する鬼熊をその場所に置いていく。そしてまっすぐ走り込んだまま斜め上に手をかざし、続けて木霊を使役する。「――並びに木霊!」
素早く木霊の階段を配置し、それを駆け上がって、一気に火口壁を飛び越える。宙に滞在しているあいだに目を凝らすと、火口がぼんやりと輝いているのが確認できる。龍域への入り口だ。ラウドゥルはそこを幽宮と呼んでいた。
周りの火口壁の内側にも発光している個所がいくつか見受けられる。そこは突起になっており、数えると七か所あった。ここからは想像になってしまうが、おそらくこの七つを正しい順に触れるか何かすると、幽宮が開く仕組みになっているのだろう。ナルシードはこの頂上に潜んでいるあいだにラウドゥルとクラット皇子の行動を見張っていて、それを知ったのだ。そして、あの天から降り注ぐ魔剣の何本かを使って、ラウドゥルの目を盗みながら封印を解いてくれたのだろう。
まったくたいした奴じゃないか。ラウドゥルのような化物の相手を丸投げしてしまうのは気が引けたが、案外ナルシードなら軽く捻り潰してしまうかもしれない。千剣のナルシード――彼はいったいどれだけの魔剣をこの空域に仕込んでいたのだろう。かつて憧れを抱いた相手に勝利するために、どれだけの想いをこの地にそそいでいるのだろう。
「――させるか」
声は後方から聞こえた。ラウドゥルの低くこもったような声だ。振り返ると、ナルシードが膝をついて腹部から流血しているのが見えた。火口まで飛び降りると、壁に邪魔をされてナルシードの姿が隠されてしまった。
全身が強烈な熱波を受けている。身体じゅうから汗が噴き出ている。ラウドゥルが火口壁の上に立ち、帯刀するようにして剣身を寝かせ、そこに爆発的なエネルギーを収束させている。レリアの屋敷で垣間見た、火焔を帯びる居合術――あいつはここでそれを放出しようとしている。
「させてなるものか、崩龍との契約はすべての道の始まりなのだ。グスターブ皇国の復興……そのためなら、オレはなんだってやってやる。オレと皇子の宿願のためなら、世界を火の海に沈めてでも成就させてやる」
彼の足元から黒い煙が立ち昇る。信じがたいことだが、くすんだ火口の壁が融解の閾値に到達している。どろっとした液体がわずかだが壁に沿って流れ出している。離れていても、まるで炎の嵐の中心に誘い込まれたかのように、身体が焼かれていくのを感じる。
俺は幽宮まで全力で駆け込む。ラウドゥルが炎を解き放ったのが皮膚を伝って感じられる。あいつは本当に俺を骨まで残さず焼き尽くすつもりだ。コンマ数秒の遅れが命取りになる。ヘッドスライディングのように頭から突っ込み、ほのかに光り輝く幽宮に手を伸ばす。足の裏に尋常じゃない熱気を感じる。気づけば、俺はアリスの名をがむしゃらに叫び続けている。
「ウキキ! オレと皇子の夢を――」
なんとか間に合ったみたいだ。白く霧がかかった空間のなかで、俺はラウドゥルの最期の声を耳にする。その夢は叶わないよ、と俺は声に出して言う。少なくとも、その夢を叶えるのは今じゃないんだ。




