410 幽宮(かくりのみや)
これまでは紛いなりにも登山道と呼べそうな道筋がうっすらと伸びていたが、山の頂に近づくにつれてそれすら見えなくなっていた。さらさらとした赤茶色の土に、人の足跡がうっすらと残されているだけだった。小さいものと大きなもの。おそらく、導術師の老人と大男のもので間違いないだろう。アリスは大男に担がれて運ばれたはずなので、足跡は残せない。しかし俺は、あいつがここを通ったという気配をかなり色濃く感じ取ることができていた。あくまで感覚的なものに過ぎないが、しかしどんな痕跡よりも確かに。
霊峰サヤの頂上に着いたとき、すでに日は暮れかけていた。オレンジ色の大きな太陽が雲海のなかに沈もうとしている。ミカゲの使役した妖しの雲は依然として霊峰サヤを覆っているので、俺は今ふたつの雲に挟まれていることになる。だからどうしたと言われればそれまでだが、なんだかちょっと不思議な気分だった。
山頂の景色は写真で見た富士山のそれとよく似ていた。長らく眠ったままと思われる深い噴火口があり、くすんだ色の火口壁がそれをぐるっと囲んでいた。外周はおそらく2キロメートルといったところだろう。これもだいたい富士山と同じだ。しかし、踏破の記念にお鉢巡りと洒落こんで外縁を歩く気にはなれなかった。アリスがここのどこかで俺の助けを待っているし、それに何より俺の散歩を簡単には許してくれそうにない男が、ゆっくりと歩いてくるからだ。
「来たかウキキ」とラウドゥルはよく透る声で言った。「いや、来てしまったか……、と言い直すべきだな」
「ああ」と俺は前半の部分にだけ返事をした。それからあらためて辺りを見まわした。
ラウドゥルは俺の目の行方を注意深く見守った。それから口を開いた。
「クラット皇子なら、すでにオレたちの手の届かない場所で崩龍と契約中だ。お前にとっては無念だろうが、邪魔立てはできん」
「へえ」と俺は言った。「なら、アリスももうそこにいるのか?」
眉が大きくひそめられ、目尻に深いしわが刻まれた。
「どういうことだ? アリスが龍域に? 何を馬鹿なことをお前は言っているんだ?」
「一時間くらい前に、あいつは連れ去られたんだよ。あんたのところの大男と導術師にな」
何も知らないようだった。極端に表情を変えたりはしないが、沈黙の種類でそれがわかった。いや、そんな曖昧な見立てをせずとも、ラウドゥルがアリスの誘拐と無関係なことは明白だ。『龍を宿せし者』にしか崩龍に謁見することは許されない、もし資格のない人間がそれをすればただでは済まされない――と自身で述べておきながら、こいつがそこに無資格のアリスを導き、あいつの身を危険にさらすはずがない。
俺は言った。「ここまで登る前に八咫烏を使役して、気配を探ったんだ。その時点で山頂に一人いて、あとそこを目指す気配が三つあった。山頂のがあんたで、残りがアリスと大男と導術師ってわけだ。だけど妙なことに、アリスたちの気配が途中で消えたんだ。たぶん、俺とあんたが今いるこの辺りでぱったりとな」
もう一度、目を凝らして辺りを見渡してみる。しかしどこか別の空間に通じるような場所は見あたらない。もしかしたら、神秘的な力によって光の階段のようなものが発現され、それを上った先に龍域があるのだろうか? それでアリスの気配が視えなくなってしまったのだろうか?
だが、ラウドゥルの視線は上方ではなく、下方に向けられていた。噴火口。そこをじっと見つめ、物思いに沈んだように堅く口を閉ざしていた。
「まさか……」と俺は言った。それからほどなくして、ラウドゥルは顎を引くように頷いた。
「ああ、そうだ。龍域はあの幽宮と呼ばれる火口を通り、降りていった先に存在する。つまりこの霊峰の内部ってわけだ。ある方法でその道は開かれる。それをここで教えてやるわけにはいかんがな」
「な、内部って……まじか……」
「ウキキ、お前はどうやらアリスやオレの部下までもが龍域に足を踏み入れたと思っているようだが、それはあり得ん。なぜなら、オレは皇子が幽宮を降るのを見届け、それからずっとここで帰りを待っている。誰かが通れば気づかんはずがない」
だけど俺にはわかる。アリスはたしかにあの噴火口の奥底にいる。ラウドゥルに龍域の在り処を言われて、やっとあいつの熱と繋がることができた。俺はアリスによってこの異世界に呼び出された、言わばあいつの(軽く)召喚獣なのだ。一度糸を掴めれば、もうどこに隠されようが手に取るように感じられてしまう。
「この世界の魔法には、自分たちの姿を消すものもあるんだ」と俺はラウドゥルに言った。「どうやらあんたは知らなかったみたいだけどな」
ラウドゥルは鼻を鳴らした。ふっと笑い、白い歯を無精ひげの奥に覗かせた。
「よく知っているとも。種類や呼称まで全て列挙することだってできる。だが、オレの前で完全に消えおおせる魔法なんてどこにもない。無様に呆けてでもいない限り、オレはどんな熟練した魔術師のそれでも気配を辿ることができる」
「なら、無様に呆けてたんだろ」と俺は言った。「あんたらしくもない……。どうせ、クラット皇子の召喚する崩龍で帝国と戦うところでも、ぼーっと想像してたんじゃないか?」
彼は何も言わなかった。鷹揚な態度で腕を組み、体を少し後ろに逸らして、愚弄でもなんでも好きに言えとばかりに俺のことを眺めていた。
「……なあラウドゥル、あんたのその想像は叶わないよ」と俺は言った。そんな想像は叶わない。ただの空想でしかない。子供が眠る前に思い巡らす冒険活劇と同じだ。
「叶うさ」としばらくしてからラウドゥルは言った。「お前が妙な真似を起こさず、オレとここで世間話に興じてさえいればな」
俺は首を振った。「いや、絶対に叶わない。俺が邪魔なんてしなくても。……だって、クラット皇子もアリスと同じで、龍と契約する資格なんて持ち合わせていないんだ」
ラウドゥルは声を上げて笑った。こいつがこうやって笑うところを初めて見た気がする。
「真面目な顔して何を言っている。皇子に龍を宿す資格がないだと?」と彼は言った。「ウキキも先刻承知のはずだろう。グスターブの皇室に産まれた双子には異能が具わっている。兄姉は『龍を宿す力』、そして、弟妹は『時を駆ける力』……。二百年前の人物である双子の妹アリシアが、実際に時を渡ってアリスの祖母となっているのだ。異能の実在性は、誰よりもお前が一番よくわかっているはずだろう」
ああ、と言って俺は頷いた。それからすぐに言葉を継いだ。
「そのとおりだ、あんたの言ってることは間違っていない。だけど、二百年前の皇国と今の皇国では、ひとつだけ変わってたことがあるんだ」
少しだけそこで間を置いた。太陽はいつの間にか厚い雲のなかに消え入り、その代替品として配置されたように黄色い二の月が空の中心に浮かんでいた。
「産まれた順番による、上の子と下の子の定義」と俺は言葉を選んで言った。「それが二百年の時を経て変化したものだ。だから今現在兄とされるクラット皇子は、アメリアとアリシアの時代だと弟ってことになるんだよ。つまり――クラット皇子は『龍を宿せし者』じゃなくて、『時を駆けし者』なんだ」
クラシー・イザベイル。それが亡くなってしまったクラット皇子の弟の名であり、同時に現代の『龍を宿せし者』の名だ。クラシーは自分が産まれたときのことを不思議と覚えていた。『兄さんは眩しい光に真っ先に飛び込んでいった』と、兄に自分たちの出産時の様子を語った。それをクラット皇子の口から聞き、彼が先に産まれたとあらかじめ知らされていなければ、俺は事実に気付かなかっただろう。双子の兄姉の定めかた。考えてみれば、日本だって少し前までは結構あやふやだったはずだ。
しばらくのあいだ、何一つ言葉が発せられることはなかった。ラウドゥルは顎に手をやり、じっと身動きせずに思索に耽っていた。真実が受け入れられるのを根気強く待ってやりたいところではあるが、あまりゆっくりしている時間はない。今まさにアリスとクラット皇子が龍域で崩龍に襲われているかもしれない。そう思うといてもたってもいられなかった。俺はとりあえず噴火口まで降りてみようと、火口壁に片足を乗せた。
その瞬間、青い軌道が後ろからまっすぐ俺の心臓を貫いた。少しのずれも迷いもなく、どこまでも的確に。
「っ……!」
俺は咄嗟に身体を逸らし、予兆から逃れた。切っ先が通過したのは、おかしな態勢で倒れ込んでしまった俺の頬のすぐそばだった。
「何をするつもりだ」とラウドゥルは殺意の赤を眼に灯らせて言った。「戯言ならいくらでも聞いてやる。だがオレたちの邪魔をすると言うのなら、今ここでお前を殺すことになる」
二の月が妖しの雲の上空から、俺たちの影をうっすらと地面に落としている。もうすぐ十二月が――崩龍の月・陰が――終わろうとしている。




