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俺とアリスの異世界冒険手帳~ショッピングモールごと転移したのはチートに含まれますか!?~  作者: 底辺雑貨
六部 第一章

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408 猫様の恩返し

 俺とアリスの前に姿を現してから、グスターブ皇国の大男はしばらく黙って薄暗い空を見上げていた。もうすでに灰色の濃い雲が俺たちのいる霊峰サヤを丸ごと覆っていた。ラウドゥルと契約した中断時間が過ぎ、ふたたびミカゲが妖しの雲を使役したのだ。雲は山を中心にし、麓に拡がっていくにつれてグラデーションのように薄くなっていた。それでも死ビトを寄せつけないだけの力が発揮されている。霊峰サヤの裾野で栄えたハバキ村は、こうして代々のキサラギ家当主によって手厚く護られてきたのだ。


「なあタフ・ボーイ」と大男は俺に言った。目はもうこちらに向けられていた。「この雲がないあいだ、村にどれだけの死ビトが入り込んだかわかるか?」


 俺は無言で首を横に振った。たぶん両手で数えられる程度では済まないだろう。


「オレもわからん」と彼は言った。「だがどれほどの群れが侵入しようと、うちの連中が撃退にあたり、村人を保護してるはずだ。もちろん、男気溢れるラウドゥル団長様の指示でな。なんでわざわざオレたちが体を張ってやらなきゃならんのだ? とつい口にしちまったが、納得できねえのはオレだけだったようだ。他の連中は黙って装備を整え、持ち場に移動していったってわけだ。まったく、嫌になっちまうよな」


「だからボイコットして、こんな山の上で俺たちを待ち伏せてたのか?」と俺は言った。


 大男は首を振った。腰に下げた幅広の剣ががちゃがちゃと音を鳴らした。


「べつに文句があるからバックレたわけじゃねえさ。オレは最初っから堅物団長やヒヨッコ皇子に最後まで付き合う気なんてなかった。グスターブ皇国はたしかに大事な生まれ故郷だが、オパルツァー帝国なんて大国に戦争を吹っかけてまで復興したいとは思えねえ。そこに命を懸けるほどの値打ちをオレは見いだせねえ。ようするに、そろそろ潮時ってやつなのさ。あとは南の自由都市にでも渡って、酒と女に溺れる毎日を送らせてもらうぜ」


 この男のことを、俺は少し見誤っていたようだ。いや、最初に受けた最悪な印象を撤回してしまったのが間違いだった――というほうがより正しい表現かもしれない。あのじめじめとした洞窟でこいつはラウドゥルを裏切り、反乱を起こした。俺の目の前で彼と命のやり取りをした。そして返り討ちにあい、どういうわけか次に会ったときは再びラウドゥルの部下に戻っていた。ルザースで重要な役割を任されるほど信頼される部下に。もちろん再開したあとも、嫌な奴には変わりなかった。友達になれるとも思わなかった。しかし少なくとも、忠義のようなものをこの男から感じ取ることはできた。その部分に対してのみ、俺はこいつに好感を持っていたのだ。


 やはり、本質的にはこういう男だったということだろうか。自分の人を見る目のなさに、ものすごくうんざりとしてしまう。


「なら、あんたのいるべき場所はここじゃないだろ?」と俺は言った。念のために、アリスをすぐ後ろに配した。「城下町まで行けば船が出てるかもしれない。いくつかの港を経由すれば、あの腐った都市に辿り着けるかもな」


 両腕が力強く組まれた。外套の上からでも、大きく逞しい腕であることが十分見てとれた。


「ああ、もちろんそのつもりだ。円卓の夜とはいえ、海路は比較的安全だからな」

「だったら早く向かったらどうなんだ? 山登りを楽しむようなガラじゃないだろ?」


 丸太のように頑丈そうな首が大袈裟に振られた。これ見よがしについたため息の音が、いやにくぐもって聞こえた。


「そうなんだが、その前にやる仕事があってな」と男は言った。「そろそろのはずなんだが……。なあ、タフ・ボーイ、体が痺れてきたって感じたりはしねえか?」


 そのとき、急に左右の足が痙攣を起こした。それと同時に、アリスが俺の背中にしがみついてきた。といっても、先ほどのようにおんぶの要求をしているわけではない。立っていられなくなり、膝から崩れ落ちたのだ。


「おい、アリス――」


 そして、それは俺も同じだった。脚に力が入らない。手もまともに動かせない。まるで血液が凍ってしまったかのように、身体ががくがくと震える。正しい発声が行えない。だんだんと視野に闇が広がっていく。為す術もなく、俺たちはその場に倒れ込んだ。全身の力を搔き集めても、アリスの頬に触れることすら叶わなかった。


 思えば、アリスはずっと静かだった。アリスにしては静かすぎた。俺より身体に異変が訪れるのが早かったのかもしれない。ちょっと振り返れば、俺はアリスの変調の兆しに気づけていたのかもしれない。しかし、今となっては何もかもが遅すぎる。


「おお情けねえ……オレを格下扱いしてた野郎が無様なもんだ」


 俺の胸のあたりを踏みつけ、大男はおもいきり足に力をこめた。肋骨が軋むのを感じた。


「お、俺たちに……な、なにを…………したんだ…………?」

「あ? なに言ってんのかよく聞こえねえな。だがまあ、言いたいことはわかるぜ。オレじゃねえよ、お前らは爺さんに一杯食わされたんだ」


 遠くで声が聞こえた。だが顔をそちらに向けられない。もう目もほとんど見えていない。しかし誰の声かはすぐにわかった。砂地を弱々しく歩く音が少しずつ近づき、導術師の老人が薄闇の奥で醜い微笑を浮かべた。


「ふぉふぉ……追いついてしまいましたな」と老人の声は言った。「対象者の血の巡りを正し、極限まで自然回復力を呼び覚ます、癒しの術……。我が偉大なる導術には、こんな使い方もあるのですよ」


 導術師に手を握られたアリスは言わずもがな、俺の血液の流れもいつの間にか弄られていたみたいだ。老人は自分の偉業を誇るかのように、俺に対しての施術は預けた仕込み杖を通してだったと告げた。遠隔で血流を遮るのは簡単ではなかったが、さして難しくもなかった。導術師の純粋な回復能力や防御障壁ではあの女に後れを取ったが、外法でワタシにかなう者はいない。そんな自賛を、うわずった声で嬉しそうに年甲斐もなく並び立てた。


「息はできるな? なら今はそれだけに集中しとけ」と大男は俺の額をぺちぺち叩きながら言った。「べつにお前らを殺してやろうってわけじゃねえ。ちょっとこのアリス嬢ちゃんを龍域までつれてくだけだ。あとでちゃんと返してやるからよ、お前は大人しくここで待ってろ」


 アリスの華奢な身体が大男に持ち上げられた。曖昧な視力ではなく、俺は感覚でそれがわかった。暖炉の火が根こそぎ掠め取られるように、俺の隣から温もりが消えていく。小さな太陽の日があたらなくなる。


 俺は必死に手を伸ばした。血管に細かく砕かれたガラスの破片を流し込まれるような鋭い痛みと引き換えに、少しだけ動かすことができた。指先に何かが触れた。たぶん大男の足だった。逃がさない、と俺は思った。絶対に逃がさない、と俺は思った。アリスを置いていけ。じゃないと何がなんでもこの手を放さない。


 しかしほんのわずかに足をずらされただけで、俺の手はもうそれを追うことができなかった。そのあとすぐに脇腹をおもいきり蹴られた。たぶんおもいきり蹴られたのだと思う。だけど不思議と痛みはなかった。


「わるいな小僧」と大男の声は言った。「酒を呑むにも女を抱くにも金がいるんだ。最後にちょっとばかし稼がせてもらうぜ」


 アリスの温かい気配が足音とともに遠ざかっていき、しばらくすると冷たく音のない世界に俺だけ取り残された。





 どれくらい時間が経っただろう? 寝てしまったわけでも気を失ったわけでもないのに、いつの間にか時の流れが上手く掴めないようになっていた。アリスが連れ去られてからほんの数分だとは思うが、確証は持てない。ただ仰向け状態の無防備な胸にちょっとした重みを感じる。柔らかい感触が肌を通して伝わってくる。


 薄くだが目を開くことができた。体の機能が少しずつ取り戻されていくのを感じる。目の前にはエメラルドグリーンの瞳と、牙の数が異様に多い三日月のような大きな口があった。


「チェ……チェシャ猫……か?」


 そうだす、とチェシャ猫は言った。


「お、お前……またずっと……ついて来てた……のか……?」


 違うだす、とチェシャ猫は言った。そして俺の胸の上でスフィンクスのように優雅に座ったまま、しなやかに腕を伸ばして肉球で俺の口を塞いだ。


「ちょっと黙って目を閉じとくだす。今おたくの体の状態を元に戻しているところだす」

「え……お前そんなことができたのか?」

「あたりまえだす。猫様にできないことはあまりないだす」


 なんだか不思議な気分だった。こんなふうにのんびりしている場合ではないのに、チェシャ猫にそう言われると自然と瞳を閉じることができた。それが今一番やるべきことだ。大丈夫、アリスは絶対に取り戻せる。焦る必要なんて少しもない。


「気持ちは落ち着いただすな? もうしばらくこのままでいるだす。猫様の心地良い重みを意識の内側から感じとくだす。そのあいだに、ワテが悪い物を全部吸い取ってしまうだす」


 俺は何も言わずに頷いた。いろんな思考が頭のなかで荒く波立っていたが、今は凪のように静かだ。陽の光だってちゃんと水面みなもに注がれている。いつだって、手を伸ばせば届く位置にアリスはいてくれるのだ。チェシャ猫の親密な重みがそれを俺に教えてくれる。


「猫様のやることにはすべて深い意味があるんだす。こうして主人の胸で寝そべるとき、それは悪しき流れを外に追いやっているんだす。雑誌に乗って読書の邪魔をするのは、そのページで悪魔が目を見開き、ヒトに取り憑こうと企てているからだす。べつに構ってほしいからじゃないんだす」


 それなら、昔うちで飼っていた猫が突然いなくなってしまったのも、何か俺たちのための行動だったのだろうか。猫は死期を悟ると飼い主から遠く離れる習性を持つというが、それだとあまりにも悲しすぎる。


 離れたくて離れるんじゃないだす、とチェシャ猫は言った。猫様はいつだって人の心が読めている。


「あれは主人に仇なす邪悪なる者を討ちに赴いているんだす。天に召されるまえの、最後の恩返しだす。ワテはアリスやおたくの世界で、そんな勇士を何匹も見送っただす。みんないい顔をしていただす」


 そっか……、と俺は言った。ならあのとき悲しむのではなく、ありがとうと感謝するべきだったのかもしれない。ありがとう……。今からでも天国のあいつに伝わるといいのだが。


「ワテはそんな世の中の猫様と違って、アリシアに恩返しできなかっただす。それだけがワテの心残りなんだす」


 沈んだ口調をしていた。明らかに声のトーンが二段階も三段階も下がった。目を開けて様子を見ようとしたが、その前に肉球でまぶたを押さえつけられてしまった。まだ体を休めておけということだろう。


 それからしばらくのあいだ静寂がつづき、やがてチェシャ猫はアリシアの思い出を語りはじめた。小さな窓から射す夕日が生前の彼女のベッドを赤く染める光景から、それは始まった。


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