405 アリストクラット
飛空艇が太陽とのあいだを通り過ぎていくと、柔らかい冬の日差しが霊峰サヤにふたたび落とされた。その降り注ぐ眩しい光のなかに、小さな点のようなものが漂っていた。目を凝らすと、すぐにそれがグリフィンに乗ったアリスだということがわかった。あのバカは飛空艇から飛び降り、俺のところまで真っ直ぐ向かってきているのだ。
アリスの顔がはっきりと見えたときには、もうラウドゥルとクラット皇子は姿を消していた。崩龍と契約するために、山頂を目指して険しい山道を登り始めたのだろう。遅れを取ることになってしまったが、しかしアリスとグリフィンという組み合わせは俺の頭に妙案を浮かばせた。そうだ、このまま俺もグリフィンに乗って山頂に向かえば、ラウドゥルたちを出し抜けるではないか。
しかし、まるで俺の考えを嘲笑うかのように、羽を広げて滑空するグリフィンが突然淡い光となって消えてしまった。意図したものではなく、アリスにとっても予想外の出来事のようだった。急に空に投げ出される格好となったわけだが、アリスはボス猿の叫び声のような悲鳴をまき散らしながらも、頭を必死に働かせた。そして気合を入れれば飛べると思ったらしく、したり顔で手足をばたつかせ始めた。
だが飛べるはずがなかった。俺はなんとかキャッチしようと駆け出したが、そのときにはすでにレリアが動き出していた。彼女はユニコーンを使役し、素早く背に飛び乗って、悠然と空を突き進んだ。そして上手いことアリスを空中で抱きとめ、ゆっくりと馬首を転じて俺のところまで戻って来た。
きょとんとした顔で呆然としているのは、助けられたアリスではなくむしろレリアのほうだった(アリスは楽しそうにユニコーンの角をぺちぺちと叩いている)。レリアはユニコーンが空を飛んだことに困惑しているようだった。前にも一度こんなことがあったが、今回も以前のように無自覚の使役だったみたいだ。
自然とユニコーンがレリアの胸のなかに還ると、彼女は俺の目を見て言った。「アリスを救出しなくちゃ、と思ったんですの。そうしたら声が聞こえて……」
『我を使役せよ』……。そんな囁きを耳にしたらしい。俺も何度か同じような声を聞いたことがある。幻獣はときに、自発的に宿主を助けようとするのだ。
「もう一度、空を飛ぶように使役できるか?」と俺はレリアに訊ねた。もしそれが可能なら、グリフィンでなくとも山頂に短い時間で辿り着ける。しかし無理なようだった。レリアは何度かユニコーンを呼び出したが、対象を角で串刺しにする攻撃的な幻獣に逆戻りしていた。
この幻獣にはきっと何か秘密が隠されている。それは金獅子のカイルが彼女にユニコーンを譲り渡したときの言葉に関係していのだろう。『これをきみにあげよう。いつの日か使いこなせるときを楽しみに待っているよ』、何が仕込まれているのか、今はまだそれが明るみに出る時期ではないのかもしれない。
俺がレリアと話しているあいだ、アリスも再度グリフィンを召喚しようとバレリーナのようにくるくる回っていた。だが呼び出せないでいた。それどころかすべての召喚獣が(といってもほかにカーバンクルとしか契約していないが)呼びかけに応じてくれないようだった。まるで不思議な力にかき消されているようだわ! とアリスはドラクエみたいなことを口にした。
この現象については、いくつかの推測を並べることができる。ラウドゥルの言葉を借りると、この先はもう龍の領域だ。そのために、ほかの召喚獣の顕現が許されないということではないだろうか? しかし、それをここで議論するほど、俺たちに時間的余裕は残されていなかった。早くラウドゥルたちを追わなければならない。
少し考えてから、俺はレリアにハバキ村に戻ってもらうことにした。霊峰サヤの封印を解くために妖しの雲を消したので、村には当然死ビトが入り込んでくるはずだ。飛空艇のアナたちにそのことを話し、村の防衛にあたってくれと指示した。レリアはまだユニコーンのことで混乱しているようだったが、すぐに頷いてから山道を引き返していった。
アリスはぶんぶん手を振って彼女を見送ると、その手にさらなるスナップを利かせて俺の頭にチョップを落とした。
「あなた今日の朝、また私の風の囁きを一方的に遮断したわね!?」
その説教をいち早く行うために、航行中の飛空艇から飛び出してきたみたいだ。いつでも囁き合えるように、煌銀石のリングネックレスを肌身離さず付けておきなさい! と、お決まりの要求が述べられた。
俺は空返事をいくつかしながら、アリスの手を引いて歩きだした。少し前まで妖しの雲が薄いカーテンのような結界を張っていた場所を越え、ラウドゥルたちが登って行った薄暗い山の坂道を見上げた。
「それで、この山はなんなの? あなた、これからどこに行こうとしているのよ?」とアリスは周りの風景を見まわして言った。とても良い質問だ。
「戦争を未然に防ぐために、クラット皇子と崩龍の契約を邪魔しに行くんだよ」と俺は言った。「場合によっては――アリス、お前が先に崩龍と契約しちまうんだ」
「クラット皇子!? 彼もここに来ているの!?」
「え、ああ……。いや、龍との契約よりそこに反応するのか……」
アリスは凄く嬉しそうだった。自分と皇子の名を並べて口にし、恍惚とした表情でうふふと笑っていた。俺は山中を進みながらハバキ村での出来事をかいつまんで話したが、アリスはろくに聞かずにいつまでもクラット皇子の名前を褒めそやしていた。「クラット……。うふふ、本当に高貴な私に合ったいい名前だわ……」、ブラッド・バンクでもこんな様子だったが、本当に彼の名を気に入っているようだ。
獣道を歩いていると、不意に一羽の鳥が樫の木から飛び立ち、魔女の指のように長い枝を軋ませた。その拍子になぜか俺はピンと来て、スマホの辞書で二人の名前を『と』で繋げて検索してみた。案の定、そこに単語と意味が表示された。アリスは俺の手からスマホを強引に奪い、画面に見惚れてうふふふと不気味な笑みを浮かべた。
「お前……自分の名前と合体させるとこういう語句になるから、皇子の名前がそんなにお気に入りだったのか……」
・アリストクラット『aristocrat』
意味:貴族。上流階級の人。
くだらなすぎて、なんだかアリスに想いを寄せる皇子のことが哀れに思えてきた。
*
霊峰サヤを順調に登っていくと、だんだんと目に見えて景色の色合いが乏しくなってきた。森林限界に近づいているのだ。富士山でいえば、五合目付近ということになる。木々の間隔が少しずつ広くなり、やがて一本たりとも見えなくなってきた。靴底で踏みしめるものが土から砂利に変わり、そのころには風景が岩場と心ばかりの高山植物に置き換えられた。
かなり良いペースの登山だったが、そのわりにはラウドゥルたちの影さえ拝むことができなかった。もしかしたら、どこかの地点で誤った別のルートを選択してしまったのかもしれない。ベテラン警察官の息子が、ケチで小ずるい詐欺師になるのと同じように。しかし、それでも山の頂上がおぼろげながら見えてきたので、変に焦燥感に駆られるということはなかった。彼らが先行した時間は五分やそこらなので、既に到達している心配もないだろう。
アリスは弱音も吐かずにちゃんと俺のペースについてこれていた。というか、文句の一つも挟む時間がないくらい喋りっぱなしだった。しばらく離れていたので、俺に語りたいことが山ほどあるみたいだ。そのほとんどは相槌すら億劫になるくらいのどうでもいい雑談だったが、ナカゴ村という田舎町で温泉に浸かった話には興味をそそられた。とても見晴らしがよく、湯船に浮かべたオレンジジュースを飲みながら(アナとウィンディーネは地酒を酌み交わしたみたいだが)この山を一望できるらしい。夕食に出た猪鍋も美味しく、就寝前の枕投げでは小さい身体ながらチルフィーが奮闘していたそうだ。
「って、楽しく旅行してんじゃねえよ……。どうりで到着するのが微妙に遅かったわけだな……」
「仕方ないじゃない! 飛空艇のトラブルで一度着陸する必要があったのよ!」
アリスは急に跳躍しかけたが(俺にチョップをかまそうとしたみたいだ)、斜面に足を滑らせてそのまま片膝をついてしまった。さすがに疲労が溜まって、足の踏ん張りが利かなくなっているようだ。手を取って、腰を支えながら立たせてやった。少し休憩するかと尋ねる前に、自分で手頃な高さの岩塊を見つけて駆け出して行った。
「なんだか空気が薄くなってきてない?」とアリスは腰を下ろすと言った。「というか、どうして私たちは山の頂を目指しているの?」、そう訊ねながら、赤いリュックから小振りのステンレスボトルを取り出し、コップになった蓋に温かいハニー・オレンジを注いだ。
「さっき言っただろ……。クラット皇子と崩龍の契約を邪魔するためだって……」
「私聞いていないわ! 聞いていないということは言っていないのと同じことよ!」
久々にこいつと絡むとすごくめんどくさい。だけどどこか懐かしく、とても心が休まるのを感じる自分がいた。アリスはハニー・オレンジをふーふーと冷ましながら少しずつ飲み干すと、またコップに注ぎ込んで突っ立っている俺に差し出した。俺は湯気の立つコップを受け取り、隣に腰掛けて作戦の概要を話した。
「つまり、阻止できそうになければ、私が先に崩龍と契約しちゃえってこと?」とアリスは言った。甘い匂いが俺たちの周り一帯に立ち込めていた。
「ああ、そういうことだ」
「いい作戦じゃない! ついに龍が私の召喚獣になるのね!」
「ついに、ってなんだよ……」
「けれど、そうなるとあなたは四号に格下げになるわね。辛いと思うけれど我慢してちょうだい!」
「四号? あれ、俺今まで二号じゃなかったか? 三号だったっけ?」
アリスは腕を組んで、うーんと唸りながら必死に序列を思い出そうと努めた。しかしどうしても明確な答えが出てこないようだった。
「どっちだったかしら……」
「忘れるぐらいならもうその呼称システムやめろよ……。ってか、なんで新入りが来たら俺が下げられることになってんだよ……」
突然、背後から物音が聞こえた。靴の底が軽く砂利を擦る音だ。俺の脳は、自然とその足音をラウドゥルのものと照らし合わせていた。後ろを振り返るまでに、瞬間的な精査が終わった。ラウドゥルのものではない。彼の足音にはもっと重みや威圧が感じられる。
そこに立つのは導術師の男だった。ラウドゥルたちと行動をともにする、老齢の癒やし手だ。目にしたのはもうずいぶん前のことなので、あのときとは多少風貌が変わっている。だが、二つの三日月をあしらうネックレスは少しも色褪せていない。こちらを窺うように、老人の胸元で揺れながら鈍い輝きを放っていた。
「不躾ながら愚見を述べさせてもらうと、アリス様に龍を宿すことはできないでしょう」と彼は言った。まだハニー・オレンジの香りが辺りに漂っていた。




