404 彼の名は
明朝一番に俺はアリスに連絡を取り、飛空艇の航行具合を尋ねた。アリスはもうすぐそっちに着くはずよ! と大きな声で答えた。毎度のことながら、声が大きすぎて耳がキーンとする。こいつに風の囁きは小声でもちゃんと伝わると理解させるには、あと何年の歳月が必要なのだろう。了解、と言って、俺は煌銀石のリングネックレスを首から外した。まだ何か話していたが、あいつの無駄話に付き合っている時間はない。
朝食を取ると、俺とクラット皇子はすぐに支度をし、まだ眠っているクリスを残してキサラギ家を離れた。目指すは人質を交換するためにラウドゥルに指定された、メクギ大石だ。それは石碑のようなもので、霊峰サヤの山腹に設置されているらしい。青龍の祠があった洞窟から少し登ったところという話なので、まずは記憶を頼りに祠に向かうことにした。
樹海に入り、同じ風景が延々と続く道を歩いていると、早くも皇子が肩で息をしだした。十二歳の子供とはいえ、あまりにも体力が無さすぎる。少し休憩するかと尋ねたが、彼は無理やり鷹揚な態度を作って俺の提案を却下した。疲れを紛らすために、何か話をしろと高圧的にふっかけられた。
「何かって、何を話題にすればいいんだ? お前にいろいろ質問したいけど、クリスがいないと答えないだろ?」
「なんでもよい。冴えない下々の男の話を聞くのも、天下人である余の務めじゃ」
「誰が冴えない下々の男だよ……」
「それなら家族の話を聞かせろ。ウキキに兄弟はいるのか?」
腐った倒木を乗り越えながら、俺は姉が一人いると答えた。追ってどんな姉かと質問されたので、いかに頭がおかしいかちゃんと伝わるエピソードを披露した。姉貴が小学校五年生のときに、夏休みの自由研究で県知事賞を受賞した話だ。『弟が将来ハゲる確率について』というのが研究テーマで、曾祖父の代まで遡る血縁者の頭髪模様と、綿密な論拠で纏められていた。確率は120%だそうだ。それを淡々と全校生徒の前で発表する姉を、三年生だった俺は体育館の片隅で呆然と眺めていた。あ、あの人って頭がおかしいんだ、とその時初めて認識した気がする。しかし今にして思えば、そんなものに賞を授与する埼玉県知事も十分頭がおかしい。
話が終わると、皇子は姉君が嫌いなのか? と真剣な顔つきで尋ねた。俺の口ぶりや表情からそう判断したのだろう。もちろん嫌いだよ、と俺は答えた。それから顔を曇らせ、彼はしばらく黙り込んだ。
「余には双子の弟がいた」と少し経ってからクラット皇子は言った。「そのことは聞いておるのか?」
「ああ、知ってるよ。……八歳で亡くなったんだろ?」
彼は家来の進言に認証を与えるようにはっきりと頷いた。どこかで鳥が鳴き、ばさばさと羽ばたいていく音が聞こえた。
「聡明で快活な弟じゃった。学問も剣の腕も余を遥かに超えていた。しかしどういうわけか、それをひた隠しにしようとした。勉学では傅役の設問に答えず余に正解を譲り、剣の稽古では師の前でわざと切っ先を鈍らせた。何故そのような真似をするのじゃ、と余は問うたことがある。遠慮などするな、お前が余の先を歩くというのなら、それを追いかけるのも一興じゃ、とな」
皇子はそこで息を吐いた。俺は黙って白い吐息が大気と混ざり合うのを見届けていた。
「すると、弟は余にこう答えたのじゃ」と皇子は真っ直ぐ前を見つめながら言った。「『だめだよ兄さん。兄さんには、いつだって僕より前にいてほしいんだ。僕らが産まれたときだってそうだった。兄さんは眩しい光に真っ先に飛び込んでいった。僕は不思議とあのときの光景を覚えているんだよ。同じことをする勇気が僕にはなかった。いつまでも穏やかな闇に抱かれていたかった。けれど声が聞こえたんだ。オギャーオギャーと兄さんの泣き声がね。それはまるで僕を光の渦へといざなっているようだった。お前も早う出てこんか。ここもそんなに悪くないぞ、ってさ……』」
その声の導きのおかげでこの世に産まれてくることができた。少なくとも、皇子の弟は本気でそう考えていたらしい。
『だから本当は、兄さんは僕より何倍も優れているんだ。早く追わせてよ、光り輝く兄さんの背中をさ』
クラット皇子は弟から聞いてもっとも印象に残ったとする科白を口にすると、喉に突き上げてくる悲しみを俺の見えないところでやり過ごした。目に浮かんだ涙は衣服の長い袖で密やかに拭われた。
「弟が病に侵されたのは、それから数日後のことじゃ。当初の診断ではすぐに良くなるという話じゃった。じゃが三日経っても熱は引かず、七日後には布団から起きられなくなった。手足が赤く変色し、十日後にはそれが体じゅうに広がった。そして十四日後に、余のオパルツァー帝国への留学が決まった。行きたくない、と余は父上に言った。苦しむ弟を置いてはいけない。治ってから二人で留学すれば良いではないか、と。じゃがその願いは聞き入れてもらえなかった。弟が病床に伏してから二十日後、余は魔除けのお守りを弟の枕元に残し、やつれて骨張った手を握りしめ、あいつに一時の別れを告げた。先に行ってる、お前も快復したらすぐに余のあとを追って来い。わかったよ、兄さん……、と弟はかすれた声で言った。それが余の聞いた、あいつの最後の言葉じゃ」
そしてクラット皇子の弟は亡くなり、狂乱した月光龍が二人の国を焼いた。かくしてグスターブ皇国は、この世界から姿を消したのだった――俺はそんな歴史の切れ端のように亡国グスターブの運命を俯瞰していたが、あらためて皇子から弟のことが語られると、物語に奥行きが生れたように感じた。彼らの悲劇はたかが四年前の出来事なのだ。まだ歴史書に収まるには早すぎる。
「そっか……」と俺は言った。「弟の名前は?」
どうしてだろう? それが無性に知りたくなった。ジョージ・ワシントンやベートーヴェンやアリストテレスと違って、彼はあまり多くのものをこの世に刻めなかっただろう。国が焼け落ちた今となっては、残せたのは皇子の手にまだ宿る温もりぐらいかもしれない。だからこそ俺は、彼の名前を知りたく思った。
「クラシーじゃ」とクラット皇子は俺の目を見て言った。「クラシー・イザベイル。これが、生きていれば余より数倍グスターブ皇国の君主にふさわしかった男の名じゃ」
*
メクギ大石の前にはラウドゥルの姿があった。彼は山道を登っていく俺たちに背中を向ける格好で突っ立っていた。レリアはどこにも見当たらない。俺はクラット皇子の腕を用心深く取りながら近づいていった。
「何人たりとも山頂に足を踏み入れるべからず」と突然ラウドゥルは口にした。メクギ大石に彫りつけられた碑文を読んでいるらしかった。「ここから先、命の保証は出来かねる。早々に立ち去れ」
乾いた声で警句を音読すると、彼はこちらを振り向いた。
「もうずっと昔にハバキ村の連中が建てた石碑らしい。彼らはふらりとやって来た竜宮の使いから拝命を受けたそうだ。この霊峰サヤを外敵から護るようにな。それから何百年ものあいだ、キサラギ家の当主を使って妖しの雲の結界を張りつづけてるってわけだ。自分たちが守護しているものがなんなのかも知らずにな」
ラウドゥルは侮蔑をはらんだ微笑を口元にたたえた。そしてメクギ大石の奥に目を向けた。樹々のあいだに柔らかな灰色のカーテンのようなものが天から降り注ぎ、まるで現し世と隠り世を隔てるように境界を引いている。これが妖しの雲の結界なのだろう。
「守護しているもの……それは崩龍だろ?」と俺は言った。「あんたは皇子に山頂で眠る崩龍と契約させて、オパルツァー帝国を落とすつもりなんだろ?」
ラウドゥルの目元がぴくりと動いた。しかし表情の変化はそれだけだった。
「クラット皇子が話したか?」
「ああ……。でもこいつを責めないでやってくれ。クリスって大狼が皇子の頭のなかを読めるから、仕方なく聞かせてくれたんだ」
「あたりまえだ。誰に皇子が責められるものか。それに、どちらにせよここでオレはお前に話すつもりだった。ここまで巻き込んでしまったからには、それが筋ってものだろう?」
筋、と俺は思った。面白いことを言う奴だ。これから世界を戦禍の渦に引き込もうとする人間の発言とは思えない。しかし、たしかにこいつは何事にもきっちり筋を通す男だろう。それはこれまでの付き合いで嫌というほどわかっている。だけど、おびただしい数の戦死者と荒廃した大地を前に切られる仁義に、いったいなんの意味があるだろう。
「レリアは?」と俺は言った。「まさか連れてきてないのか?」
ラウドゥルはふっと笑い、左手を軽く持ち上げた。すると後方の木陰から男とレリアが姿を見せた。彼女は手を縛られ、その縄の先端を男に握られている。俺は自然とクラット皇子の腕をより強く掴んでいた。
「駆け引きはなしだ」とラウドゥルは言った。それから左手がゆらゆら揺れるとレリアは解放され、縛られていた手首をさすりながら俺のもとまで歩いてきた。俺もクラット皇子から手を放し、ラウドゥルのところまで行かせた。
レリアは元気そうに見えた。少なくとも、ジト目で俺に遅いですわと文句を言う余裕はあるみたいだった。彼女は俺の手を強く握り、安心させてくれた。薄いピンク色のウェーブがかかった長い髪も、少しも艶が落ちていないようだった。
「なあラウドゥル」と俺はレリアの頭を撫でながら言った。「あのことは考えといてくれたか?」
ラウドゥルは皇子と目配せをして頷き合い、皇子を後方に配した。大きな石碑の巨大な影が彼らの姿を覆っている。太陽がちょうど俺たちの真上に差しかかろうとしていた。
「『今はグスターブ皇国の復興よりこっちを手伝ってくれ』というお前の発言についてか?」と彼は言った。「『世界の終わりより重要なことなんて何もないだろ?』……お前は俺にそう言ったな?」
俺は頷いた。そして彼の口から言葉が継がれるのをじっと待った。
「ああ、考えたさ。『ちゃんと、真剣に』な」とラウドゥルは言った。「それから一つの結論に達した。……オレには関係ないとな」
俺はその答えを予測していたのかもしれない。だから反論や糾弾が口をついて出ることはなかった。真剣に考えてくれたのも本当だと思う。こいつはそういう男なのだ。
「世界がどうなろうと知ったことではない。オレたちの悲願が成就しない糞ったれの世界なんてな。終わるのなら終わればいい。そんなことで、オレはグスターブ復興の夢を諦めたりはしない」
こいつはそれだけを夢見て行動してきた。軍の馬車を襲ったり、やりたくもない暗殺の仕事を引き受けてまで部下や集落の人間を食わせてきた。夢路の果てにあるものを信じて無様に歩んできた。そんな男を止められる言葉なんて、俺は何も持ち合わせていない。
「わかった……。なら俺は、全身全霊をかけてお前たちの邪魔をするよ」と俺は言った。研ぎ澄まされた言葉なんてなくとも、俺にだってまだやれることはある。「崩龍との契約なんて絶対にさせない。そうすれば、お前たちが帝国にケンカを売ることもなくなる」
そのとき、空にかかる妖しの雲が一瞬ぱっと閃き、それからゆっくりと消えていった。同時に、メクギ大石の裏手にある結界が消滅した。ムツキ様がラウドゥルと取り決めていた時間になり、ミカゲに妖しの雲の使役を一時的に中断させたのだろう。
「邪魔をするだと?」とラウドゥルは言った。彼はもう皇子を連れて結界があった場所まで進んでいた。
「オレたちを追いかけるつもりならやめておけ。ここから先は龍の領域だ。妖しの雲がここを分かつより以前、多くの賊が富や名声を求めて山頂に登り、崩龍の怒りに触れて命を落とした。『とても多くの賊たち』、と皇国に残る書物には記してあった。資格を持つ者しか足を踏み入れることが許されんのだ」
彼らの足が一歩二歩と進んでいった。ラウドゥルはさらに三歩進むと、そこで振り返った。
「やめておけ、ウキキ。お前は自分で思っているより利口な人間だ。命の危険を顧みずに踏み込むようなバカではない。ましてや、本気でオレを敵に回すようなバカでもな」
ラウドゥルの言っていることはよくわかる。しかし俺は、彼の声を聞きながらも別の音に耳を澄ましていた。かすかに、本当にかすかにだが、耳が霊峰サヤでは発しえないような異音を拾っている。それは速いスピードで近づき、やがてエンジン音だと俺に気づかせる。クラット皇子も同じ音を耳にしているようで、しきりに重なり合う枝葉のあいだに覗く空を見上げている。
突然、俺たちは影に包み込まれる。上空を通過する飛空艇が太陽の光を遮ったのだ。俺は軽く右手を上げて空を指差し、ラウドゥルの視線をそこに誘導する。彼はしばらく俺の目を見つめてから、抗い得ぬ力によって飛空艇に目を持っていく。
「バカが来た」と俺は言う。もしかしたら、資格を持つかもしれないバカが。




