403 彼らの果てしない夢
クラット皇子は『崩龍との契約』と口にした。それから長い時間が経過した。小雨は本降りとなり、人知れず夜の世界に不規則な旋律を落としていた。まるで深夜の音楽室から漏れてくる、静かで物悲しいオルガンの音色のように。
「崩龍との契約」と俺はしばらくしてから彼に代わって復唱した。「それはつまり、お前が崩龍を召喚獣として従わせるための契約ということか?」
皇子は布団の上で丸まったクリスをちらっと見た。それから、顔をしかめてしぶしぶ頷いた。ここで隠したところで、どうせクリスには筒抜けだ。
ここで俺は、クラット皇子に対してずっと勘違いをしていたことに気づく。ラウドゥルは以前、『グスターブ皇国は別の地で甦る。皇子の召喚する崩龍とともにな。……近々、世界はそれを目撃することとなるだろう』と言っていた。それを受けて、俺はてっきりすでに皇子は崩龍を自在に操れるのだと思っていた。
しかし事実とは異なっていたようだ。皇子は明日の昼に執り行われる契約で、初めて崩龍の力を手にする。そのために、彼らは霊峰サヤを取り巻く妖しの雲の封印をどうしても解く必要があったのだ。青龍の記憶のなかで耳にした、『山頂に眠る絶大なる力』という言葉……。それはこの崩龍のことだったみたいだ。
「それで……」と俺は言った。「それで、その召喚獣の力を使って、お前たちはいったい何をするつもりなんだ?」
もう皇子の目が探るようにクリスに向けられることはなかった。うろたえることなく、じっと俺の顔を見据えている。瞳の奥で微光が瞬き、眼差しがよりいっそう鋭いものになる。揺るがぬ信念と決意がそこに描き出されている。
「それでまず、ルザースをはじめとするオパルツァー帝国の属国を攻め落とす」と少年は言う。「じゃがそれは序章にすぎん……。余が欲するは帝国本土じゃ! 穢れにまみれる悪しき皇帝を討ち、そこにグスターブ皇国を甦らせる!」
*
クラット皇子はそれから決然とした態度で布団にくるまり、しばらくすると寝息を立て始めた。寝つきが良いところまでアリスそっくりだ。というより、二人の体のなかに流れる皇族の血がそういう習性を取らせているのかもしれない。雨垂れの音が皇子の呼吸と重なり、外の世界との境界を曖昧にしていた。
俺は漆喰の壁を背にして座り、冒険手帳を開いた。そして該当のページまで素早く捲った。俺が亡国グスターブについて知っていることは、そう多くはない。3ページ分のメモと、どこかで聞いた話ぐらいしか知識を持ち合わせていない。俺は自分で書いたあまり綺麗ではない文字を要領よく拾っていき、記憶に残る誰かの語りに耳を澄ませた。途中でクリスが胡坐をかく太腿の上に乗ってきたので、眠りやすいよう位置を調節してやった。
クラット皇子が誕生したのは十二年前のことだ。彼は双子の弟とともに産み落とされた。『皇室で双子が産まれるとき、同時に月光龍が産声を上げ、国を祝福する』。グスターブ皇国ではそのように信じられ、実際に国中の人間が天を昇る龍の姿を目にした。それからほどなくして国は隆盛を極め、世界でもっとも豊かな国と称されるまでになった。そこまでが輝かしい歴史だ。
八年後、いつまでも続くと思われた栄華はあっけなく終わりを迎える。そのきっかけはクラット皇子の弟の死にあった。双子の片葉が失われたことに月光龍が怒り狂い、国を獄炎で焼いたのだ。折り悪く円卓の夜だったことも災いし、それで皇国は滅亡してしまった。オパルツァー帝国に魔法留学していたクラット皇子と、たまたま国を離れていた数少ない人々。彼らはこうして故郷を葬られた。
焼き払われた祖国の地を踏むことさえ、彼らには許されない。なぜなら全土が毒霧に侵されてしまったからだ。彼らはそれをなんとかする方法を模索していたが、結局のところ徒労に終わった。そして、ラウドゥルのこの科白に繋がる。
『グスターブ皇国は別の地で甦る。皇子の召喚する崩龍とともにな。……近々、世界はそれを目撃することとなるだろう』
これを聞いたときは、まさかオパルツァー帝国を乗っ取るつもりだとは夢にも思わなかった。あいつがいやにザイル・ミリオンハート・オパルツァーを警戒するわけだ。
冒険手帳を閉じてテーブルの上に放り投げると、クリスが突然ぱっと起き、てくてくと皇子のもとまで歩いていった。そして前足で器用に布団を捲り、さっとなかに潜り込んで、皇子の胸のあたりで丸まった。真っ白い尻尾が皇子の鼻をさすると、彼は眉を寄せながら寝言を呟いた。『おおアリス……、そんなに余の鼻の穴が好きか……』、すごくポジティブな夢を見ているみたいだ。
双子の上の子か、と俺は幸せそうな寝顔を見ながら思った。二百年前の皇室に産まれた双子のイザベイル姉妹に鑑みると、クラット皇子は姉のアメリアと同じ『龍を宿せし者』ということになる。そして、夭逝した弟は『時を駆けし者』だ。実際に時を渡ってアリスの祖母となった、妹のアリシアに類する。
アメリア・イザベイルが龍を従えていたという話は聞かない。しかし俺が知らないだけで、双龍だか麗龍だかを宿していたのかもしれないし、その資格があったのは間違いない。なんせ『時を駆けし者』が本当に時空を飛び越えてしまったのだ。『龍を宿せし者』にその力がないのなら、誇大広告ということになってしまう。
クラット皇子だって、きっと滞りなく崩龍との契約を済ませるのだろう。そして彼らは戦争を引き起こす。ルザースら属国を落城させ(ルザースのレジスタンスと結託していたのはこの計画のためだろう)、より盤石となった戦力でオパルツァー帝国に攻め入る。奇しくも今は、グスターブ皇国が滅びたときと同じ円卓の夜だ。大量の群れをなす死ビトの存在も手伝って、敵味方問わず多くの人間が命を落とすだろう。皇子とラウドゥルの目指す亡国の復興は――彼らの果てしない夢は――累々たる屍の上でのみ成り立とうとしている。
しかし、俺にはいま一つわからないことがある。なぜオパルツァー帝国を狙うのだろう? クラット皇子が難を逃れたのは、幸いにも帝国に留学していたおかげだ。偶然ではあろうが、帝国は言わば希望の種を守護していたことになる。それなのに、どうして帝国をああも敵視しているのだろう? 乗っ取るなら乗っ取るで、もっと簡単に落とせる国があるのではないだろうか?
わからない、と俺は思う。知らされていない事実がそこにはあるのかもしれない。複数の事柄が入れ組み、複雑な模様を浮き上がらせているのかもしれない。出資者のことだって気になる。ブラッド・バンクで、アリスの借金を肩代わりするほどの潤沢な資金を提供する出資者だ。何者なのだろうか? しばらく目をつむって考えてみても、それらしい人物は闇の向こうに現れない。冒険手帳も記していないことまでは教えてくれない。
いつの間にか眠ってしまったようだった。夢だとわかる夢を俺は見ていた。川の向こう岸にラウドゥルが立っていた。利根川かもしれないし、信濃川かもしれないし、ルビコン川かもしれないが、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、ラウドゥルがそこを立ち去ろうとしていることだ。俺は必死になって叫んでいる。
「今はグスターブ皇国の復興よりこっちを手伝ってくれ! 世界の終わりより重要なことなんて何もないだろ!?」
彼は振り返らない。濃い霧のなかに消えていく。不気味な抽象画にあるような、薄い紫色をした茫洋な霧だ。「考えといてくれ! ちゃんと、真剣に!」、それでもラウドゥルはこちらをかえりみない。影がだんだんと小さくなっていく。憧憬や信頼。そんなものと紐づく気配が遠景に吸い込まれていく。しかし、足音だけがいつまでも聞こえている。ザッ……ザッ……ザッ……。
ザッ……ザッ……ザッ……。それは軒から滴る雨垂れの音だった。目を覚ますと体じゅうが冷えていた。それにすごくこわばっている。目元にはかすかな涙の名残りがあり、薄っすらと視界がぼやけていた。
俺は冷たくなった手を擦り、湯呑の底のほうに残っているお茶を飲み干してから布団に入った。しばらく天井に目をやり、自然と瞼が閉じられるのを意識の内側で待った。
あいつは絶対に立ち止まったりはしない。それなら俺から川を渡り、濃霧を払って、無理やりにでも首根っこを掴んでやる。




