398 自由の翼
やけに天井の高い和室だった。キサラギ家のミカゲの私室よりさらに広々としている。規則正しく敷き詰められた畳の数は百をゆうに超えるだろう。室温も丁度よく、冬の外気は堅牢な鎧戸によってぴしゃりと遮断されていた。
ミカゲはそんな寂然とした部屋の真ん中で寝かされていた。いつだって彼は中央でぽつんとひとり寝かされている。手前でもなければ奥でもない。右寄りでもなければ左寄りでもない。将棋盤でいえば天王山だし、碁盤でいえば天元の位置だ。あるいはそれがこの村の規則の一つなのかもしれない。
部屋に足を踏み入れると、すぐにうしろから肩を掴まれた。十二家の誰かだろう。ミカゲに真実を告げるだと!? と男は声を荒げて言った。よそ者がそんな勝手な真似をして許されると思ってるのか!?
「許されようとなんて思ってません」と俺は言った。本当に許されようとなんて思っていなかった。妹が自分のために青龍と組んで反逆を企てたことや、脳のなかで身の毛もよだつほどの醜悪なムカデが蠢動していること。それを知ってミカゲがどうするのか、はっきりいって予想はできない。だがどんな結果になるのであれ、俺は彼の選択を尊重する気でいた。それでも村の護り手を務めるというのなら止はしない。もし妹と村を抜け出すことを選ぶなら、抵抗する奴を全員叩き伏せてでも二人を飛空艇に乗せてみせる。
俺の口調に堅い意志を認めたのかもしれない。すぐに彼らは言葉による説得を切り上げ、武力を行使しだした。前を向いたままだったのでわからないが、おそらくムツキ様が素振りでそう命じたのだろう。背後から三本もの青い軌道が俺の胸を突き破っていた。おそらく刀剣類のものが一本と、あとはなんらかの幻獣だろう。
俺は素早く振り返り、鬼熊を使役した。毛むくじゃらの剛腕による手加減フックが刀を振りかぶる男を雑に薙いだ。次いで使役した雷獣の紫電が、腕を真っ直ぐにして照準を向ける二名の男を続けざまに貫く。それでとりあえずは静かになった。
「どういうことかね?」とムツキ様は身動きせずに静寂を切り裂いた。「ウキキ殿はさらなる混乱をこのハバキ村にもたらすつもりか?」
「あるいは秩序を」と俺は言った。「ミカゲには知る権利があります。それでなお苦痛を受け入れるのなら、村人も嘘をつかずに安心して暮らせるでしょう?」
不意に声が聞こえた。いや、それは声と呼ぶにはあまりにおぞましいものだった。ギィッ……ギィッ……ギギギギギギギギギ……。オオムカデがミカゲの眼窩から這い出てきたのだ。
しばらく全員が(もちろん泡を吹いて失神する三名を除いてということだが)醜い飛来種の動向を見守った。オオムカデはミカゲの目から30センチほど突き出ると、そこで身体を折って、空中で伸長しながらこちらにやってきた。粘液が全身から絶えず滴り、白く発光する二本の触角がぴんと立っていた。
「ギィッ……ギィッ……。ウ、ウキキ……。そう、たしかウキキという名のニンゲン。そ、そんなに血相を変えて……変えて? ど、どうした」
本当に気持ちの悪い姿だ。もし文明の進んだ異星人にとびっきりグロテスクな生物を創造させてみても、ムカデほどのものは出来上がらないだろう。こいつとは何度か言葉を交わしたとはいえ、いまだに直視すらしていられない。人が忌み嫌うために生み出されたとしか思えない生き物だ。
それでも俺は気丈にふるまった。飛来種なんてものにビビってるなんて感づかれたくない。ミカゲはしばらく起きないのか? と訊ねた。ギギギ……深い眠りについているであろう、とオオムカデは言った。
「ギィッ……ギィッ……。そ、そこで夢を見ているであろう……。小さな妹の手を引いて、世界のあちこちを旅している……。きょ、興味深いのは背に翼があるということであろう……。それでどこでも自由に羽ばたいていける……。ゆ、雪景色の北の国。は、華やいだ音楽の国。は、花が穏やかにそよぐ風の国。妹は北の国が気に入ったようであろう……。あ、あろう……?」
「そっか、ならわるいけど無理やり起こさせてもらうよ」
また背後から青い軌道が伸びてきた。今度は俺の頭上で一度停止し、そして真上から圧し潰すように落下した。俺を中心に半径1メートル程度の予兆が足元に広がっている。視えているということは俺が認識している幻獣だ。たぶん金獅子のカイルが見せてくれたどれかだろう。
使役者はずんぐりとした体形の男だった。おそらくこの村でムツキ様に次ぐ実力者だろう。なぜなら先ほどと違い、俺の胸の奥の幻獣たちが少しざわついている。殺られる前に殺れと内側からせっついてくる。
躱すのはわけがなかった。ちょっと予兆の円から出ればいいだけだ。すぐに一本足の偉丈夫が現れ、その巨大な足を踏み下ろす。たしかスキアポデスといったはずで、その名はギリシャ語の『影足』に由来するとカイルが教えてくれた気がする。そこから連想したわけではないが、俺は間髪を容れずに影鰐を使役した。もちろん相手の影を喰い破り、動きを封じるためだ。
しかし俺が狙った影の持ち主は、スピアポデスを使役した男ではなくムツキ様だった。なんといっても一番の脅威はこの古老だ。うまくムツキ様の意表をつけたらしく、反応が完全に遅れていた。いや、より正確に表現するなら、彼は影鰐をなんらかの方法で向かい打つのに十分間に合っていた。しかし咄嗟に動いたのは右腕だった。肘から先がない右の腕だ。習慣によるものだろうが、そこからはもう幻獣を呼び出すことは叶わない。そのすぐあとに左手に動きが見られたが、それはすでに影を奪われる寸前だった。石のように固まる彼の苦い表情からは、瞬間的な悔恨が痛いほど読み取れた。
俺はそれから、ずんぐりとした男を鬼熊で染みひとつない畳の上に沈めた。これでここに集まる十二家の当主十人のうち、五人を無力化したことになる。残った五名の男に闘争の意思は見られなかった。武力派ではないのかもしれないし、あるいは力があってもムツキ様の許可なくそれを行使するわけにはいかないのかもしれない。いずれにせよ、これ以上暴れる必要はないみたいだった。
オオムカデは遺棄された宇宙船のなかを漂うロープのように、悠々と宙をたゆたっていた。俺は彼からできるだけ離れたところを歩き、ミカゲのすぐ隣で膝をかがめた。
掛け布団をめくり、肩幅の狭い華奢な体を揺すった。「おい、起きろよミカゲ」
何度か繰り返していると、まずオオムカデに反応があった。ミカゲの覚醒を感じ取ったのだろう、すごい速さで収縮し、あっという間にミカゲの眼窩の内部に引っ込んでいった。
それから少し遅れて、ミカゲは口を微笑に緩めながら目を覚ました。俺のことに気がつくと、淡い笑みが絵の具を刷くように顔いっぱいに広げられた。
「ああ、ウキキさんも来てたんですか」と彼は枕に頭を落としたまま言った。「けれどすみません、挨拶は後にさせてください。ちょっと書き記しておきたいことがあるんです」
ミカゲはゆっくりと起き上がり、枕元の万年筆を手に取って手帳を開いた。しかし少しするとため息を吐き出し、表紙を閉じてまた同じ場所に戻した。
「すごく楽しい夢を見ていたはずなんです。けれど、やっぱり思い出せません」と彼は困ったように目元だけで笑いながら言った。「寝る前は今回こそって気を張って臨むんです。あとでイヅナに話してあげるために。なのに、どうして忘れてしまうのでしょう? イヅナが喜んでくれるような夢だったと思うのですが……」
「世界を旅してる夢だよ」と俺は言った。「イヅナの手を引きながらさ」
びっくりとした表情に変わった。ミカゲのこんな素の顔は初めて見た気がする。
「お前の背中には翼が生えてるんだ。どこにでも行ける自由の翼だ。北の国、音楽の国、風の国……。イヅナは北の国が一番のお気に入りだったってさ」
「たしかにそうです、おぼろげに思い出してきました……。けれど、どうしてウキキさんが僕の夢を?」
「聞いたんだよ、お前の脳に潜む奴から」
俺は右腕を持ち上げた。そして手のひらでミカゲの頭に触れた。
「出て来いよオオムカデ、そろそろ不法滞在はやめにしようぜ?」
ガサガサッという音がした。ミカゲは誰よりも近くでその音を耳にした。




