394 青い春 白き秋
しばらくのあいだ言葉が交わされることはなかった。青龍はその身体を自由に優雅にくねらせ、広大な空から地上の白虎を見下ろしている。白虎もまた、俺の目を通して青龍のことを見上げていた。これから戦いが始まるというのに、両者の呼吸はこれ以上ないくらい穏やかだった。
「千年ぶりの大空はどうかしら?」、口火を切ったのは白虎だった。「あまりの広さに恐れおののき、あの祠に帰りたくなってきたんじゃない? 降参すると言うのなら、見逃してあげなくもないわよ?」
青龍は声を押し出すように笑った。残響が執拗な影のようにいつまでも空気を震わせた。
「それはこちらの台詞というもの……。そなたはここより遠く離れた地で子を産み、育んでいると耳にした……。それが何故、小僧の体を借りてまで我に楯突く……? お互い顔を合わせて、良い気分になれる相手でもないだろう……?」
「そうね」と白虎は言った。「私はあんたが気に入らない。その偉そうな髭を見るだけで引っ張ってやりたくなるし、常にうねうねとする尻尾に噛みつきたくなってくる。逆さ鱗なんてほんと最悪。なんでこれ見よがしに一枚だけ逆向きなのよ」
「ならば無理して相対することもあるまい……」と青龍は言った。「早く乳飲み子の元へ戻り、母らしくあやしてやったらどうだ……?」
白虎は腕を持ち上げた。「もちろんそうするわ。ここであんたを葬ったあとにね」
使役されたのは朱雀だった。十数枚の羽根が炎を帯び、さまざまな軌道を取って青龍に襲いかかる。しかし一つ、二つ、三つと綺麗に躱され、四つ、五つ、六つも立て続けに虚空を横切った。七つ、八つ、九つ――その次が白虎自身の爪撃だった。彼女も高く跳躍し、まさに虎視眈々と背後から狙っていたのだ。
「それで虚をついたつもりか……」
しかしそれは何も捉えることはできなかった。青龍は鮮やかに身を翻し、白虎の爪に空を斬らせた。そのまま長い尾が彼女を捉え、巻きついて激しく絞め上げる。骨の軋む音が聞こえた。
だが白虎の攻勢は終わっていなかった。突然鋭利な羽根が青龍の身体を掠める。十枚めか十一枚めかはわからないが、土星の周期のようにあえて遅延するよう大外をまわらせていたのだ。少し遅れて、もう一枚が青龍の首のあたりに突き刺さる。短い呻きのあとに、骨が砕ける寸前だった俺の体が解放された。
白虎は地上に降り立った。二重の奇襲が上手くいったというのに、とくに喜びのようなものは表情に現れていない。ただ黙って滴り落ちる青龍の血を目で追っている。湖畔に群生する水草が赤く染まるのを見届けると、再び空を見上げた。
「あのお馬鹿さんを護っていたせいで、もうご自慢の龍鱗は機能してないわね」と白虎は言った。「あんた、あと一度でも羽根が掠ったら終わりよ。無邪気に力を使わせて、龍鱗どころか生命力まで削られていたってこと。それは知っているのかしら?」
「無論、承知している……」と青龍は言った。「そなたがすべて計算したうえで、未熟な娘をいたぶっていたこともな……。最初から追い詰めたのちに分離させ、憎きこの身を八つ裂かんとするつもりだったのだろう……?」
白虎はふっと笑った。頬に自然な力が加わったのが俺にもわかった。
「ええ、だいたいそれであってるわ。けれど、別に憎くなんかないわよ。ただ気に入らないだけ。あんたのありとあらゆることが。そして、馬鹿みたいにヒトの争いに首を突っ込んでいることが」
白虎の視線がさっとイヅナに向けられる。少女は二人の戦いを、声を漏らさず歯を食いしばって見守っていた。光を失ったその右目には、もう何も映っていない。
「あんたが個人的にヒトに復讐するだけなら、私は止めたりなんかしなかったわ。こうやって三井優希の身体に入り込むこともなく、坊やたちに子守唄を歌っていたところよ。けれど、あんたがヒトのためにヒトを殺害するのは見過ごせない。彼らには彼らの宿星がある。ヒトの問題はヒトに解決させればいいのよ」
青龍は撥ねつけるように大きく首を振った。
「それで娘を無惨な目に遭わせろと言うのか……? 兄を救えぬ絶望を抱いたまま、心を闇の牢獄に囚われろと……?」と青龍は嘆くように呟いた。「それはできん……。イヅナはもう十分苦しんだのだ……。悩み、悲しみ、自分を損なってきたのだ……。それをどうして見捨てることができよう……? この身が砕けようとも、我は娘の望みを現実のものとする……。そう決心したのだ……!」
強い決意とともに青龍の攻撃が始まった。瞬く間に厚い雲が空を覆い、激しく雪が降りしきる。青龍は天候を自在に操ることができる。イヅナは稲妻を好んだが、当然それだけではない。突風が吹き荒れ、群れとなった吹雪が白虎を取り囲む。
彼女は舌打ちと同時にその場から飛び退いたが、無傷でいられるはずがない。すでに薄い氷の刃に全身が斬りつけられている。だが致命傷は受けていない。身体のいたる個所で血が滲んでいるぐらいだ。髪の毛や頬に降りた霜を鬱陶しそうに手で払い、白虎は暴力的に舞う雪の合間から青龍を探し出す。だが見知った空に彼の姿はない。
「ちっ……!」
背後に気配を感じたときにはもう遅かった。青龍は地を這うように突進し、顎で喰い千切ろうと無数の歯牙を覗かせる。白虎は振り返るが早いか、玄武のシールドを展開して危機をしのいだ。次の瞬間には朱雀を使役し、再び吹雪く空へと昇っていくおぼろげな背中を燃え盛る羽根に追わせた。
しかし振り切られてしまう。いつの間にか雪はやみ、今度は雨雲が空にぴったりと蓋をしていた。すぐに横殴りの雨が降る。青龍は中空から白虎のことを思慮深く見つめていた。
「これでは一対三だな……」と青龍は言った。三とはつまり、白虎と俺の中に棲む玄武と朱雀のことを指しているみたいだ。「思えば、我が最初に京皇神君と会遇したときもそうであった……。朱雀の烈しい攻撃、玄武の堅固な護り、そして、そなたの賢しい戦略……。いや、それらを統率する京皇を数えれば、一対四が正しいか……。敗北し、我はそなたらの仲間になった……。暗澹たる終焉へと続く、輝かしい道のりの始まりだ……」
「今だって一対四なのかも」と白虎は言った。喉の奥で固まっていた息を吐き出すみたいに。
「なに……? どういうことだ……?」
「あの人はここにいるのかもって言ったのよ。あんたは感じない? 彼の息吹を。それに温かい気配を……。あくまで可能性の示唆でしかないわ。けれど、私はこの三井優希があの人の生まれ変わりのようなものだと思わずにはいられないの」
青龍の双眸が俺に及んだ。つまり、白虎ではなく彼女を内包する俺そのものに。
白虎は言葉を継いだ。いなくなってしまった大切な人を偲ぶような、もの悲しくとも優しい声で。
「この男はすでに朱雀と玄武を宿している。京皇のように劇的な邂逅があったわけではないけれど、それなりに運命的なものに導かれてね。そして私がいて、あんたもここにいる。三井優希のなかにある彼の魂の残滓が、こうやって私たちを引き合わせたのよ」
そんなに長い時間ではなかった。しかしたしかに青龍は物思いに耽り、決定的な隙を見せてしまった。俺だってこうやって俯瞰的に眺めていなければ、大いに考え込んでしまうことだろう。俺が京皇神君の生まれ変わり? そんなことがあり得るのだろうか?
白虎は爪を立て、逡巡するかつての仲間を襲撃しようと木霊で階段を造りだした。そして瞬時にそれを上り、三対目の木霊から大きくジャンプをした。二人の戦いで初めて、白虎が青龍から制空権を奪ったのだ。白いオーラを纏った爪が青き龍を捉えようとしている。誰もが勝敗の行方を的確に見定めた瞬間だった。
だが、青龍は白虎の爪が深く腹を抉ろうとする刹那に――本当にその刹那に――身をよじって躱した。咄嗟の行動だったと思う。たまたまそれが間に合い、たまたま身体を逸らすことができたように感じられる。しかし白虎の表情からは、それを悔しがる様子を見て取ることはできなかった。彼女はいつだって次を思い描き、そのために頭をフル回転させているのだ。
青龍の背を蹴り、彼女はさらに上空へと飛び上がる。その目は白虎を見失った青龍を冷静に見下ろしている。
「私はあんたが気に入らない」と白虎は雨雲より高い空から青龍に語りかける。「なかでも一番腹立たしいのは、瑞々しい希望と青臭い幻想に心を躍らせる若き時代に、あんたの色があてがわれていることよ。青春、朱夏、白秋、玄冬……。どうしてよりにもよって、陰鬱なあんたが青春担当なのよ」
彼女は重力を味方につける。轟々と唸る風を切り裂き、左手に呼び出した爪にすべての力を注ぎこむ。
「私こそが青春よ!」
白虎の爪が青龍の額を穿った。青龍は吐血し、細長い身を曲がりよじらすこともなくただ地上に落下した。俺はそのとき、静かな問いかけを耳にする。ねえ青龍、どうすればあの人を護れたと思う? しかし返事は返ってこない。その空白こそが答えだと、彼女はもちろんわかっている。ただ昔の仲間に訊いてみたくなっただけだ。




