390 緩慢な死の概念
自分という人間の限界について、俺はこれまで考えたこともなかった。勉強という観点から見れば限界を知るほど机に噛り付いたことはなかったし、運動面にしてもそれを垣間見るところまで自分を追い込んだことはなかった。
しかし今日、俺はそれを嫌というほど思い知らされることになった。青龍の力を余すことなく発揮しはじめたイヅナと戦ってすぐにだ。音速を優に超える動きについていけず、どうしても後手後手にまわってしまう。どうにか合間を縫って幻獣を使役しても、いつまでも少女を捉えることができない。攻撃の予兆をしっかり視て、なんとか致命傷をもらわないように立ち回る。これが俺の限界点だった。そして、そこには高い壁があった。イヅナはそれを越えたもっとずっと先の領域に足を踏み入れているのだ。
「コレマデカ」、彼女は衝撃波で吹っ飛ばした俺を目を細めて見ていた。「思ッタヨリモ呆気ナカッタナ。朱雀ト玄武ヲソノ身ニ宿ソウト、ヒトハ所詮コノ程度トイウコトカ」
イヅナは薙刀で空を斬り、穂先にべっとりと付着した俺の血を振り払った。どこをやられたときのものかはもうわからない。右腕かもしれないし、脇腹をかすめられたときに付いた血かもしれない。治癒気功で少しずつ傷を塞いではいるが、まったく回復が追いつかなかった。そして、稚拙な治癒の真似事のようなことを念頭に置いていると、さらに反応が遅れてダメージをもらってしまう。悪循環の見本のようなことがずっと続いていた。
彼女は天に左手をかざした。雷を落とす前動作だ。それに先んじて、すでに無数の青い軌道が俺を取り囲んでいる。彼女の特性を認識したため、予兆はちゃんと視えるようになったが、だからと言って簡単に避けられるというものでもない。まさに光の速さで落下するそれを、俺は無我夢中で横に退っ引き、なんとか寸前でやり過ごした。雷撃が湖畔の土を穿ち、その振動で鏡湖の水面が激しく揺れ動いた。
全身ががたがたと震えた。血が流れ過ぎている。立っているのがやっとだった。目が霞んでいる。奥歯がずきずきと痛んでくる。イヅナはゆっくりと近づいていた。
「モウ少々、青龍ノ力ヲ試シテミタカッタ」と前方で立ち止まって少女は言った。「ガ、ソノ様子デハ、モウ試金石ニスラ成リ得マイ。今ニモ倒レテシマイソウナノダロウ? 幻獣ダッテ碌ニ呼ビ出セヌ筈ダ」
そのとおりだ。すでにオーバーワークも甚だしい。しかし、だからといって素直に負けてやるわけにもいかない。ここでイヅナをハバキ村に行かせてしまったら、これまでの頑張りがすべて無駄に終わってしまう。彼女は宣言どおり十二家の人々を殺害してまわるだろう。そこにはもちろんウヅキも含まれる。もう一度結び合わせるどころか、ふたりの絆は永遠に断ち切られてしまう。
もう少し足掻いてみよう、と俺は思う。不意にアリスの太陽のような笑顔が眼前に広がる。と思ったら、すぐに怒りの表情に変わってしまう。あの脳に響く声が耳の奥でどんどん大きくなっていく。『どうしてあなたはすぐに煌銀石の指輪を外してしまうのよ!』、今日叱られた内容がここでも繰り返されている。
「な、なあ青龍……」と俺は口に出してみる。思ったよりもしっかりと喋れた。それからまた続ける。
「攻撃のえげつなさはわかったよ……。で、防御のほうはどうなんだ? 速さと破壊力に特化しすぎて、守備がおざなりってことはないか? ちゃんと俺の幻獣を受け止められるのか?」
イヅナは俺の少し前で足を止める。唇の両端をわずかに持ち上げ、小さな声でふふっと笑う。化物へと変貌を遂げていても、その笑い方だけはミカゲとよく似たままだ。
「下ラヌコトヲ。受ケ止メルモ何モ、最初カラ一度タリトモ掠ラセ――」
俺は言葉を差し挟む。「イヅナには訊いてないよ、俺は青龍に質問してるんだ」
少しだけむっとしたのかもしれない。表情に変化は一切ないが、顔の筋肉にかすかな動きが見られた。冷気のさすらう張り詰めた空気のなかで、青龍はそっと口を開いた。
「一太刀でも通ったと仮定して話をするが……、答えは否だ。娘は我が龍鱗に厚く護られている……。目には見えぬとも、その一枚いちまいが子を慈しむ母の温かな手のように覆っている……。砕けぬよ……、小僧の宿す幻獣では……。貫けぬよ……、小僧の使役する半端な朱雀では……」
それなら全力で放っても大丈夫かもしれない。もちろん今までだって本気だった。だけど、どこかイヅナが傷つくのをためらってしまう部分があった。だって、できれば最高のハッピー・エンドが見たいじゃないか。ウヅキに無傷のイヅナを抱かせて、みんなで大空へと旅立つ青龍を見送りたいじゃないか。だから、血を見ない勝利をどこかで望んでいたのだと思う。意識的にではないにせよ、心の内奥だか深遠だかたぶんそんなところで。
MAX使役はまだ披露していない。最後にそれをぶつけてみようと思う。うまくヒットすれば、龍鱗とかいうのを突破できるかもしれない。そして、それで状況に変化が見られるかもしれない。どうせこのままでは敗北し、彼女に殺されてしまうのだ。だったら一か八かに賭けてみるのも悪くない。イヅナには腕の一本でも失うリスクを背負ってもらうことになる。カンナヅキ神社で、彼女がムツキ様にそうしたように。
青龍はイヅナの顔の真隣りから俺のことをじっと見ていた。すべてを見透かしているような目つきだった。瞳のなかには、穏やかな海のような色合いの光が浮かんでいる。
青龍は言った。「こうして時間を稼ぎ、最後の一撃分の精力をひとところに集中させているのだろう……。やってみるがいい……、すべては泡沫の夢……。好きにするがいい……、下天の内を較ぶれば、これもまた夢幻の如くなり……」
やっぱりお見通しのようだ。だけどそれでも構わない。やることはまったく変わらない。ガン&ラン。超攻撃的なオフェンスだ。あとのことは考えなくていい。雷撃を回避し、薙刀を掻い潜って、イヅナの懐に潜り込めさえすれば――。
「好キニハサセヌ」
雷鳴が轟いた。彼らの意思には隔たりがあったのだ。イヅナはのんびりと身構えたりしない。俺の回復を見逃すつもりはなく、笛の合図を待ったりもしない。そこにあるのは殺すという純粋な意志の塊だった。
彼女の小さな身体が雷光に霞む。放出された稲妻が巨大な龍をかたどり押し寄せてくる。眩しくて目を開けていられない。まるで真夜中に大量のサーチ・ライトをあてられたように、自分の影だけが足元にはっきりと見えている。
上手く回避できそうになかった。だからといって、玄武を使役して護ってもらうわけにもいかない。そんなことをしたら、最後っ屁にまわす精力をすべて使い切ってしまう。覚悟は思ったよりもすぐに決まった。これに耐え、倒れ込む力を脚力に変えて、前傾姿勢でイヅナに突っ込んでみるしかない。俺はせめてもの抵抗として腕を目の前でクロスさせ、防御の姿勢を取った。
だがその瞬間、何かが飛び込んでくるのが見えた。稲妻の極光を前に、それは小さな影として俺の目に映っていた。まるで途方もなく大きな太陽の前を、破棄されたちっぽけな人工衛星が横切ったみたいだった。それがクリスだということに、俺はすぐに思いあたった。
――死なれては困る。まだわらわに魚を馳走する約束が残っておるからな。
本当にわからない。こいつは俺の盾となるつもりでいるのだ。本当にわけがわからない。どうしてこんな無謀なことを思いつけるのだろう? なんでこんなに根拠のない自信で溢れているのだろうか?
脳があれこれ思考するよりも先に体が動いた。俺はクリスの前に躍り出て、ありったけの力で玄武を使役した。あとはわかりきった展開だ。最強の盾はなんであれ完璧に防いでくれる。しかしその代償として力を使い果たし、俺はその場で膝をつく。倒れた俺の手をクリスが舐めている。なんか色々言っているが、それは脳にまで届かない。
イヅナが近づき、ふふっと笑っている。俺は必死にクリスの首根っこを摑まえている。イヅナの半襦袢の裾がはためき、ちらりと白い脚を覗かせる。そしてその脚が路傍の石ころを蹴飛ばすように弾き出され、俺の腹に思いきりめり込む。
派手に蹴り上げられ、落下した先は樫の木の辺りだった。クラット皇子とウヅキが木陰に隠れている場所だ。彼は恐怖に引きつった顔で俺とイヅナを交互に見ている。足のつま先から頭のてっぺんまで、余すことなく震えている。
「ク……クリスを頼む……。無茶しないよう、ちゃんと抱き留めててくれ……」
少年は割れ物を扱うようにクリスを受け取ると、中立的な眼差しで俺の顔を覗き込む。
「お、お主はこのまま死ぬのか……?」
いや、そんなつもりはない、と俺は言う。
「な、ならば勝てる見込みがあるとでも言うのか!?」
俺は何も言わずにイヅナの足音を聞いている。ゆっくりと、だが確実に距離が縮まって来る。彼女は決して急ごうとしない。しかし闇のなかから人の老いを窺う緩慢な死の概念のように、きっと気づけば目の前まで近づいているのだろう。草を踏み分け、小さな足で土の上を歩いてくる音が聞こえている。
クラット皇子は片膝をつき、クリスを小脇に抱えながら俺の肩を揺さぶる。
「ないなら今すぐ逃げるぞ! 余が手を貸してやる、早う立ち上がるのじゃ!」
思っていたよりいい奴だ。いくらでもここから立ち去ることができたというのに、こうやって俺の命を気にかけてくれている。びびって指先までぷるぷる震えているというのに、本当にいい奴だ。
だけどここで逃げ出すわけにはいかない。ウヅキがそこの根元で生と死の狭間を彷徨っている。イヅナを自由にしてしまえば、まず真っ先に彼にとどめを刺すだろう。そんな悲しいことってちょっとほかには思いつかない。少女が婚約者を殺してしまうことだけは、何があっても避けなければならない。
「な、なあ伝説の召喚士の末裔……」と俺はクラット皇子に言う。「お、お前がイヅナをやっつける手伝いをしてくれてもいいんだぞ……。超絶なる召喚獣とかいうので、いっちょ軽く捻ってやってくれないか……?」
彼は突然その大きな桔梗色の目を伏せてしまう。理由はわからない。しかし十二歳の少年にすがるのがみっともない真似だということは、俺自身すぐに省みることになった。なに、ちょっと言ってみただけだ。本人にその気があるならともかく、こんな状況下で子供に頼るわけにはいかない。ここは俺がなんとかしてみるしかない。
だが息をつく暇も、作戦を立てる時間もなかった。イヅナは背後まで迫り、すでにイカヅチを呼び寄せていた。最後の最後に無言で締めくくろうとするなんて頭にくる奴だ。青い予兆は皇子とクリスを綺麗に避け、横たわる俺の全身だけを一分の隙もなく貫いていた。
なんとかしてみたい。だけどなんともできそうになかった。無差別に殺すことはどうやらなさそうなイヅナに、感謝の気持ちさえ覚えていた。諦めて死を受け入れるというのとは少し違う。だけど目をつぶれば青い空がそこに広がっていた。アリスと一緒に、俺はそこでピクニックのようなものを楽しんでいた。走馬灯のようなものかもしれない。とても落ち着いた気分だった。しかしアリスが俺のコップにオレンジジュースを注ぎ始めると、そのコップを持つ手に強い衝撃が走った。
「っ……!」
目を開いてみる。そこにはアリスではなく、苦痛に顔を歪めるイヅナの姿があった。苦痛に顔を歪める? とても筋道立てて説明することはできそうにないが、俺のこぶしが彼女の腹に強烈なボディーブロウを浴びせていたのだ。
「なんとかギリギリ間に合った。あんたの身体、少しだけ借りるわよ」、何も理解できないまま俺が耳にしたのは、内から響く女の声だった。




