387 そして青龍は静かに語り出す
少女のか細い腕から血が滴り落ちている。その音が遠い国から送られた密やかなメッセージのように、絞られたボリュームで俺の耳に届いている。足元に拡がっていく血溜まりを、彼女は色も厚みもない表情で見つめている。まるで不透明な薄皮を被ったような白い顔だ。それは動かなくなった自分の婚約者に視線を移したあとも変わらない。彼の心臓がある位置を穿貫した小さな手刀からは、まだべっとりとした血液が垂れている。
彼女は血の海に横たわるウヅキを見つめたまま、平板な声で俺に尋ねる。「ねえ、『三度目に紛れなし』って言葉、知ってる?」。聞いたことないが似たような慣用句を知っている、と俺は無意識のうちに答える。たぶん『三度目の正直』と同じ意味だろう。
「今度こそ殺せたと思う」としばらくしてからイヅナは続ける。「だって心臓を貫いたんだよ? 死んでなきゃおかしいでしょ? 一回目はとにかく、昨日だって手応えはあったんだ。なのにどうして生きてたんだろう? あなたが何かしたの?」
その言葉に俺は顔を歪める。なんて馬鹿な推測を立てていたのだろうと俺は思う。なんて的外れな憶測をウヅキに語ってしまったのだろう。大事に想っているのはウヅキだけではない? イヅナはウヅキを殺すことができない? なんて浅はかな考えに縛られていたのだろう。それは間違いだったのだ。たった今、イヅナは明確な殺意を持ってウヅキを葬ったではないか。
意識せずとも身体は動いていた。俺は心臓を潰された友に向けて夢中で歩を運んでいた。しかしあと少しというところで横槍が入った。文字どおり(ほぼ文字どおり)イヅナの薙刀が俺の脚を掬うように払われたのだ。予兆はしっかり視えていた。なので、俺は後ろに飛んでそれをやり過ごした。
「あなたは十二家の人間じゃない」と眼に青白い炎と赤い殺意を浮かべて彼女は言った。「だけど、邪魔するならこのまま死んでもらう」
反論の機会を与えるつもりはないみたいだった。イヅナは身に宿した青龍の力を遺憾なく発揮し、俺の命を奪いにきた。三日月のような形の穂先が何度も俺の体の数ミリ横を通過する。青い軌道が視えていても、それを躱しつづけるのは容易ではない。なかなか隙をついて反撃とはいかなかった。彼女が音速を超える一撃を繰り出す前に片を付けたかったが、鎌鼬ひとつ使役することができない。
「くそっ……!」
どうしてこうなってしまったのだろう……。俺は全神経を光線のように飛んでくる予兆に注ぎながら考える。結局殺すことでしかイヅナと青龍を止められないのか。せっかく希望を見出せたのに、やっぱり行き着く先は争いしかないのか……。
取り留めのない思考は動きを鈍らせる。はっとしたとき、既にイヅナは宙にいる。しかし青い軌道は視えていない。それでも彼女が振り上げる薙刀を無視することはできない。
「出でよ玄武!」
カメェェェェェッ!
俺は光の甲羅を飛びかかってきた彼女に対して展開する。だがいつまで経ってもイヅナは降りてこなかった。まるで磔になった蝶のように宙に滞在したままだった。どうりで前もって軌道が視えなかったはずだ。彼女は俺の特殊能力に気づき、高度なフェイントを入れてきたのだ。信じるべきは獣の眼だったと、俺は今更ながら後悔する。空中にあるイヅナの残像が――あるいは陰りのようなものが――消え、すぐに背後に曖昧な気配と明瞭な予兆が現れる。
「くっ……!」
振り返る余裕はなかった。青い軌道が後ろから忍び寄り、俺の胸の辺りを貫通してそのまま真っ直ぐ前まで伸びていった。あとコンマ何秒か経てば致命傷を受けることになる。それは俺を限りない死の淵までいざなうことになるだろう。だけどどうすることもできなかった。アリスの太陽のような笑顔が走馬灯みたいに視界を横切った。
だが痛みはまるで感じなかった。穂先は予断なく予兆を縫って走り切ったのだが、だけどコンニャクをぶつけられた程度の衝撃しかなかった。おそるおそる振り向くと、刃は俺の背中で止まっていた。そのことに驚いているのは、誰よりも薙刀で突いたイヅナ自身のようだった。
「……あなたって、本当になんなの?」
そのときウヅキが声を上げた。ちゃんとした言葉にはなっていなかった。しかし、それでも彼は生きていたのだ。イヅナは眉をひそめると、一度飛び退った。そしてさらに顔をしかめた。
「わけがわからない」と彼女は言った。「どうしてシューイチくんが生きてるの。ちゃんと殺したよね? わたしは幽霊か何かの二人組を相手にしてるの?」
常識や秩序を根底から揺すぶられ、イヅナが混乱をきたしているうちに、俺はウヅキのもとに駆け寄った。瀕死には違いないが、それでもやっぱり息があった。懸命に何かを訴えようと口をかすかに動かしつづけていた。
「本当に死んでないのね?」とイヅナは俺に尋ねた。
俺は頷いた。「ああ。でもこのままだと間違いなく死ぬぞ……。手当するから、しばらく休戦ってことにしないか?」
「それってすごく面白くない冗談」とイヅナは言った。「わたしがそんなの許すと思う? いいよ、生きてるなら今度こそ殺すから」
彼女がすっと手を振ると、衝撃波が巻き起こった。殺意がウヅキに遷移したため、その先触れを目にすることはできなかった。俺は吹き飛ばされ、洞窟の岩肌に背中を強く叩きつけられた。
顔を上げると、もうイヅナはウヅキに接近していた。やはり彼は少女に何かを言おうとしている。それをしっかり感じ取ったようだが、彼女は素気無く首を振った。なにを言ってるのかわからないよ、とイヅナは言う。ごめんね、最後の言葉を聞いてあげられなくて。
彼女はウヅキの首元に穂先をあてた。そして迷うことなく振り切った。まるで庭の雑草を鎌で薙ぐように、躊躇なくすっと。しかしウヅキの首は切断されなかった。まだそこにあり、必死にイヅナに声を送り届けていた。鋭利な刃がウヅキの肌に触れる直前、なんらかの弾力を持つ物質に変化していたのだ。
「なんで……何が起こってるの……?」
彼女の困惑が空気越しに伝わってくる。何が持ち上がっているのか理解できず、自分の手のひらを仔細に見つめている。花柄のストールの先端のふさが、彼女の動作に合わせて小刻みに揺れている。半襦袢の裳裾から白い脚が見え隠れしている。
しかし、俺には思いあたることがあった。というか、こんな不可思議な現象には一通りの仮説しか思い浮かばなかった。結果的にではあるが、俺の推測の半分は当たっていたのだ。やはり、どうあれイヅナはウヅキを殺すことができない。いや、それは何もウヅキに限った話ではない。
俺は彼女に言った。「教えてやろうか? どうしてそんなことになってるのか」
イヅナは俺という人間の存在に初めて気がついたかのように、ゆっくりとこちらに向き直った。そして言った。「いいよ、聞いてあげる」
「ただし条件がある」と俺は言った。「聞かせてやるから、もう十二家の殺害なんて馬鹿な真似は諦めてくれ。ミカゲを助けたいなら別の方法を考えたほうがいい。あいつだって、妹がこんなことをやってるって知ったら悲しむだろ? お前ら兄妹にはウヅキがついてるし、俺も何か力になれると思う。だから今すぐ青龍を解き放って、一緒にウヅキを治療するんだ」
少女はしばらく黙っていた。口をきかずに足元に転がる哀れな許嫁に目をやっていた。彼は緩慢な口の動きで何かを伝えつづけている。外の風が止み、つがいの鳥が歌うのに飽きると、世界がそっと音を静めた。そして、俺たちはウヅキの声のなりかけを耳にする。
『あ・い・し・て・る・ん・だ……』
イヅナは目を細め、口許を堅く結び直した。美しい一対の目がまばたきをすると、さっと顔を俺のほうに向けた。
「あなたたちって、本当に面白くない冗談が好きなんだね。シューイチくんはこんなんじゃなかった。あなたの影響なの?」
俺は首を振った。俺だってそんな言葉は誰にも言ったことがない。ウヅキは今際の際に、ただ本心を口にしているだけに過ぎないのだ。だがイヅナに気持ちは伝わらない。彼女は薙刀を持ち上げ、穂先でウヅキの心臓目掛けて突き下ろした。しかしそれは、もう何一つ断ち斬ることができなかった。
「無駄だよ」と俺は言った。「お前は誰も殺せない。……今にして思えば、いまだに十二家の人間が誰一人死んでないのがおかしな話なんだ。それだけ強いお前が何度も襲撃したにもかかわらず、全員に逃げられたんだろ?」
イヅナはまたまばたきをして、綺麗な目の奥まった場所から俺のことを見つめた。青白い光はずっとそこで揺らいでいる。
「教えて。何が起こっているの?」
「条件を飲むか?」
「飲まない。もう冗談はたくさん。いいから早く話して」
俺はため息をついた。それから言った。
「よく考えろよ。一人しかいないだろ? そんな不思議なことができるのは」
彼女にはそれについて思考を巡らす時間が必要だった。だかそう長くはかからなかった。ほんの数秒か、数十秒のあいだだ。やがて見開いた目が自分の足のつま先に向けられた。それから両手に視線を移すと、同時に薙刀が地面に落下した。
イヅナはえぐるように自分の胸を鷲掴みにした。「お前の意思か青龍! なんでわたしを裏切った!」
薄暗い洞窟内部に濃密な静寂が降りてくる。光の屈折でイヅナの影が歪み、時化た海面のように蠢く。そして、青龍は静かに語り出した。




