379 龍の呪い
秋の鮮やかな山の景色に冬の前触れが訪れていた。紅葉はその煌めきを少しずつ落としていき、ドングリの備蓄に満足いかないリスがもう一度巣から飛び出ていった。夕暮には、もう鈴虫の鳴き声も聴こえなくなっている。寒さをはらんだ風が北から吹いていた。
イヅナが青龍のもとを訪れるようになって、もう二週間が過ぎようとしていた。いつも暗くなる少し前に彼女はやってくる。その日も洞窟の入り口に立つ彼女の背に、沈みかけの最後の陽が注がれていた。青龍は彼女が淡い光に縁取られて歩いてくるのを、じっと祠の内側から見ていた。
「昨晩はしっかり食べ、ちゃんと眠ったか……?」と定位置に腰かけた彼女に青龍は言った。
「食べたよ、それにいつもよりよく寝られた」
「それにしては足運びが重く、顔色も悪いようだ……。本当に滋養のあるものを食しているのか……? そこで涙に掻き暮れていたときより、やつれているぞ……?」
「うるさいな、あんた最近そればっかり。邪龍に心配なんかされたくないって、何度言えばわかるの?」
うんざりするように何度か首を横に振り、それから少し間を置いて彼女は兄の話をはじめた。健康状態はもちろん良くない。そればかりか、もうずっと布団から出られないでいる。昨日の夕食だって、たくあんを一切れかじっただけだった。それからはずっと、わたしが食べるのを嬉しそうに微笑んで見ていた……。
青龍は思う。これがもし兄妹逆の立場だったとしても、少しも不思議ではないと。それほどに、イヅナの生命の炎は小さくなって見えていた。いや、青龍の眼を通さなくても、明らかに彼女は衰弱しているとわかる。頬だってこけているし、最初のころにあった覇気も今ではちっとも感じられない。
本当に必要なだけの栄養を摂取しているのだろうか? と青龍は思考する。睡眠でしっかり心と体を休められているのだろうか? だとしたら、なぜ快調の兆しすら見受けられないのだろう?
それでさ――というイヅナの声が聞こえた。青龍が思慮しているあいだに、少し話が進んでいるようだった。
「おにいは最近、よく昔話を口にするんだ。お母さんと凧で遊んだことや、わたしと庭を駆けまわったこと。そういうのを聞いてると、おもわず悲しくなっちゃう。だって、まるでお迎えの近いおじいちゃんみたいなんだもん……」
彼女は何度か咳をした。それから胸に手をやり、ゆっくり呼吸を落ち着けた。
「どうしてだろう?」とイヅナはやがてぽつりと言った。しかし、あとに続く言葉は何も出てこなかった。
「……何がだ? と、我は訊かねばならないようだ……」
イヅナは足元の石ころを手のひらで転がしていた。それに飽きると、遠くに投げてからまた口を開いた。
「……どうして、おにいはあれだけ辛い思いをしてまで、妖しの雲を使役してるんだろう……?」
「霊峰サヤ及びハバキ村を護るためだろう……?」
「もちろんそうだけど、でもやめようと思えばいつだってやめられる。だって、全部おにいの意志次第なんだもん。使役を解けばそれで終わり。もう体に無理な負担をかけることもない。実際、オオムカデもおにいの気持ちを代弁してるって話したでしょ? 『もう嫌だ、もう何もかもどうでもいい』って、心の底では思ってるって」
おそらく正義感や義務感によるところが大きいのだろう、と俺は思う。心の底に恨み辛みを抱えているとはいえ、やはり自分が投げ出すことによって人々が不幸な目に遭うことは避けたい――そんな想念が、ぎりぎりのところで彼を踏みとどまらせているのだろう。あるいは布団に縛りつけているのだろう。
しかし、青龍は憶測や推測を口に出さなかった。そうしたところでどうにもならないし、イヅナにあれこれ考えさせたくはない。いま心配してやらなければならないのは、兄より妹のほうなのだ。なぜヒトビトはそんなことにも気づかないのだろう?
「なんにせよ、イヅナがそう気を病むことはない……」とやがて青龍は口にした。
しかし、それに対してイヅナの返事はなかった。彼女は一度咳払いをして、それから断続的に何度も咳き込んでいた。まるで、喉の奥にある異物を吐き出そうとするみたいに。青龍はその姿を、ただ封じられた祠のなかで見ていることしかできなかった。
しばらくして咳が止まると、イヅナはゆっくりと何回か深呼吸を重ねた。そして持参した水筒の蓋を開け、水を少しだけ飲み込んだ。
「大丈夫か……?」
「うん、大丈夫。見ればわかるでしょ? ちょっと咳が出ただけ」
「見ればわかるのはイヅナが咳をしたことだけだ……。ちょっとでは片づけられぬほど、長々とな……」
「本当にうるさい邪龍。でも心配しないで、ここちょっと空気が濁ってるみたいで、喉の奥が少しだけひりつくんだ」
青龍がはっとしたのは言うまでもない。その感覚は彼の記憶を通し、覗き見る俺の脳裏にも閃きを瞬かせた。先ほどの疑問が、熱波にさらされる雪だるまのように解けだしていく。青龍は洞窟を素早く見渡し、最後に少女の薄い頬を見据えた。
「今すぐここを立ち去れ……」と青龍は言った。「そして、二度と来訪するな……」
きょとんとした顔で、イヅナは祠に目をやる。その中にいる青龍を感覚的な眼で見つめる。
「どうしたの急に? 何を言ってるの?」
「今しがた述べたとおりだ……。早急に出ていけ……」
気の強い娘だということはわかっていた。だが、その強情さは青龍の思っている以上だった。ちゃんと説明を聞くまで、わたしは絶対にここを動かないと彼女は言った。もうここで呼吸すらさせたくなかったが、要求に応じるほかどうしようもなかった。
この洞窟は瘴気に満ちている。千年という長い時間をかけて、怨念に駆られる青龍自身から少しずつ生じていったものだ。短い時間であれば、人にそう強い影響を与えないだろう。げんに、月に何度か供物を手にやってくる村人の健康が損なわれたという話は聞かない。だが、イヅナほど頻繁に訪れるとなれば話は別だ。いくら無理に食事を喉に通しても、いくらできるだけ睡眠を取ることを心掛けても、これだけ瘴気にさらされつづければ、体が弱っていくのも当たり前のことなのだ。
イヅナは頭の良い娘でもあった。すべてを青龍の口から聞かずとも、一言二言でほとんどを理解した。目を細め、彼女はきっと祠を睨みつける。立とうとするが、脚に上手く力が入らない。
「お前のくだらない逆恨みの結果がこれか!」とイヅナは出せる限り声を張り上げた。「わたしだって、来たくてこんなところに来てたんじゃない! もう近寄るなと言うなら、早くわたしにかけた呪いを解け!」
袖をたくし上げ、彼女は龍紋の巻きつく手首を祠の前に差し出した。あの日から、1ミリも心臓に近づいていないように見受けられる。が、それもそのはずだった。青龍は息をつき、静かな声でイヅナに言った。
「それに心臓を喰らう力などない……。そんなことが我にできれば、とっくに村は絶滅している……」
「だ、騙してたのか!?」とイヅナは言った。「なんでそんな馬鹿な嘘を言ったんだ! じゃあ、これはなんなんだよ!?」
それは龍の加護だった。小さな災いを寄せつけないもので、遠い昔、過去のハバキ村でも多くの子供に施したものだ。だが、実際はイヅナに逆のことをしてしまった。災いから護るどころか、大禍を与えつづけていた。邪龍か……、と青龍はしみじみと思った。たしかに、我はいつの間にやら邪悪なる者に変じていたのかもしれない……。
青龍はもう何も語ろうとはしない。イヅナが何を言っても口を閉ざしている。今この瞬間にも憑依して体を奪うこともできるが、とてもじゃないがそんな気は起らない。彼は千年ぶりにできた友達の身を案じ、だからこそ早くここから遠ざけたいだけだった。
やがてイヅナは去っていった。何度もつまずき、何度も転びそうになって、彼の前から姿を消した。青龍はいつまでも彼女の出て行った入り口を見ている。夜が洞窟と外界の境目を曖昧にし、しばらくするとすべてが闇に溶けだしていった。




