369 憎悪の目
ハバキ村に着いたのは真夜中だった。ラウドゥルは旅籠屋に小さな部屋を二つ取り、その手前の戸を開けてひとり入っていった。
俺は背中にレリアをおぶっていた。まだ深く寝入ったままだった。今日はこいつと同じ布団で身を寄せ合うことになりそうだが、ときめきのようなものは一切感じなかった。布団を敷いて、レリアを寝かせて、俺も隣に横になる。ただそれだけのことだ。
だが、ジーンズにトレーナという恰好ではあまりに寝苦しいと思われる(レリアは家を出てからずっとアリスの服を代わり替わり着ている)。俺は二十一歳の良識ある大人として、十三歳の少女をパジャマに着替えさせてやった。それはあくまで儀礼的なものだった。喩えるなら、小学校の二宮金次郎像に本を持たせてやるようなことだ。そりゃ、まったくわくわくしなかったと言えば嘘になる。髪の色と同じ薄いピンク色の下着を目にしたときは、正直心が躍った。おパンツ様をじっくり拝見していると、見事な俳句の一つや二つは浮かんできた。だけどそれだけのことだ。
翌朝、俺はレリアの悲鳴を耳元で聞いて目を覚ました。半裸の男(俺)に抱き枕にされていることに対する絶叫かと思ったが、そうではないみたいだった。
「な、なんですのこの不気味な生き物は!?」
レリアの視線の先で、チェシャ猫がぷかぷかと宙に浮いていた。目を妖しく光らせ、大きな口を目一杯拡げていた。
「失敬な娘だすな。こんなプリティーな姿を前に不気味とは、見る目がまったくないだす」
俺は布団から起き上がり、シャツに袖を通しながら彼に言った。
「お前、透明になってずっと猫の国からついて来てたのか? いい加減みんなの前でも姿を現してくれないと、ずっと紹介できないままだぞ?」
「結構だす。猫様はそう易々と人前には出ないんだす。アリスにもワテのことを言ってないだすな?」
「言ってないけど……でもお前は園城寺家の守護獣なんだろ? あいつに自分の存在を教えないでいいのか?」
「いいんだす。猫様はいつだって影から主人を支えるんだす。それに、またアリスの世界に呑み込まれたくないだす。やっと抜け出せたんだすから、今はもう少し自由を満喫するだす」
話している途中から、すでにチェシャ猫は消えかかっていた。彼の透き通る体の向こうで、レリアはまだ驚いた表情を浮かべていた。
「それより、ラウドゥルとかいう元皇国騎士には気をつけるだす」とチェシャ猫は完全に大気と同化して言った。「約諾なんて無視して、すぐにここから立ち去るのを勧めるだす。じゃないと、このままズルズル利用されつづけるだすよ。おたくは自分で思ってるより、ずっとあの男に惹かれているだす」
たしかに、このままラウドゥルの言うがままに動くのは危険かもしれない。青龍を――あるいは青龍に憑依された娘を――討ち、そしてその礼に霊峰サヤの封印を解いてもらう。それで晴れてラウドゥルやクラット皇子は山頂に足を踏み入れられるわけだが、そこで彼らが何をするのか知らされていない。グスターブ皇国の再建に関するのは明らかだが、ラウドゥルは事前に教えるつもりはないみたいだ。
「だいじょうぶ、わかってるよ」と俺は虚空に目を打ち据えて言った。しかし、そこにチェシャ猫がいるあてはなかった。「だけど……クラット皇子の行方を掴むまでは、このままラウドゥルに同行するしかないだろ?」
やっぱりチェシャ猫はもうどこかに行ってしまったみたいだった。追いかけるように俺の問いかけが宙に消え入り、冷たい冬の空気が辺りを必要以上にしんとさせた。
*
宿の朝食はとろろ麦飯と焼魚、それに味噌汁と漬物がついてきた。思った以上に美味しく、俺もラウドゥルも夢中でかっこんだほどだったが、レリアはほとんど手をつけなかった。どうやらお嬢様の口には合わなかったみたいだ。
食べ終わるまでに何度かラウドゥルと言葉を交わしたが、肝心なことは何も聞き出せなかった。それに、不思議と彼もアリスの話を持ち出そうとはしなかった。アリスは亡国グスターブの皇族の血を引いている。もしかしたら、正統な後継者の一人にだってなりかねない。それなのに、巧妙に話題を避けている節さえ感じられた。ややこしくなるので俺としては大歓迎だが、何かあるのではないかと勘ぐってしまう。
食事が済むと、俺とレリアはさっそくどこかに連れていかれた。朝早くから、首領の屋敷で娘に取り憑いた青龍の討伐について論じることになっているらしい。しかし、ラウドゥルは屋敷を前にすると、急に道を左に折れた。
「あれ、そっちに行くのか? 首領の家ってあれだろ?」
質問に応じない背中は小さなフルーツ店の軒先で止まり、店主にリンゴをいくつか紙袋に詰めさせた。そして代金を支払ってそれを受け取り、レリアに差し出した。
「食っておけ。何か腹に入れんと昼までもたんぞ」
レリアは戸惑いの色を見せたが、やがて思いきったようにリンゴをひとかじりした。リスのような小さな歯形が瑞々しく表面につき、彼女はそれをしばらく眺めた。
「こんなふうに、リンゴを丸ごと食べるのは生まれて初めてですわ」
「一番うまい食い方だ」とラウドゥルは言った。「大貴族のお嬢ちゃんは、一流シェフが綺麗に盛り付けたものしか食ったことがないだろう?」
「ええ、そうですわね。けれど、貴族に夢を見過ぎですわ。わたくしだってリンゴを剥くことぐらいありましてよ?」
「ほう、ならいずれ披露してもらおう」
「望むところですわ」
また引き返して首領の屋敷に着くまでに、レリアは残りもたいらげてしまった。かなりお腹をすかしていたみたいだ。
ラウドゥルは意外とこういうふうに気をまわせるところがある。俺にはなかなか真似できないことだ。騎士に叙任されたぐらいなので、やろうと思えばいくらでも紳士らしく振る舞うことだってできるのだろう。無精髭や、無頓着な長髪や、皺だらけの黒革のコート。それらを小ざっぱりさせ、そして三十ちょっとという年齢のわりには深みや重みを感じさせる顔容を和らげれば、いますぐ上流の社交界に好きなだけ出入りすることだってできそうだ。もっとも、本人はそんなことを少しも望んでいないだろうが。
朱色に塗られた幅広の門を抜けると、日本庭園としか表現しようのない立派な庭が目の前に広がった。妖しの雲が陽を遮り陰鬱な印象を与えているが、もし晴れ渡っていれば指折り数えられるほど美しい庭園として評されることだろう。敷地の中央には大きな池があり、その中央に中島が浮かんでいた。架かる紅橋の欄干で雉が羽を休めており、鹿威しが小気味良い音を鳴らすとどこかに飛び去っていった。石灯籠が意味ありげにあちこちに配されている。俺たちはそんな景色を眺めながら、踏み外すことなく敷石の上を歩いた。
首領の屋敷は時代劇で見た奉行所を彷彿とさせた。いつ襖の奥から遠山の金さんが飛び出してきてもおかしくないとさえ思ったが、少なくとも広間に通されるまではそんな事態にはならなかった。
部屋には男が五名おり、すでに畳に敷いた座布団の上からテーブル越しに意見を投げ合っていた。そのなかの一人は俺のよく知る人物だった。ウヅキという、幻獣使いの男だ。最後に北の大地で会ったとき、彼はやっと故郷の土を踏めると喜んでいた。どうやらこのハバキ村がそれだったようだ。
テーブルから少し離れた座布団に案内され、あぐらをかいてしばらく彼らの討論を聞いていたが、ウヅキは一向に俺に気づく気配がなかった。誰よりも白熱し、侮辱とも取られかねない発言をほかの四人に浴びせていた。論争は一対四という形になっているようだった。
ウヅキは声を荒げた。
「討つのはイヅナに憑いた青龍ただひとつだ! 彼女の命まで奪うことはオレが許さん!」
彼がテーブルを強く叩くと、空白を充て込んだような沈黙が降りしきった。ウヅキはまた言葉を継ごうとしたが、上座の老人がそれを遮った。いかにも首領という容貌の老人で、豊富な白い髪を後ろで束ねていた。
「それはさておき――客人が到着したようじゃ。先に顔見せしておいたほうがよかろう」
そこで初めてウヅキの目がこちらに及んだ。俺のことを見ると一瞬間顔をほころばせたが、どういうわけかそれからすぐに眼光鋭く睨みつけた。
「ウキキッ……! 貴様よくオレの前に顔を出せたな!」
瞳には憎悪が滲み出ていた。そんな感情を向けられる覚えはなかったし、なにより俺は彼との再会を心嬉しく思っていただけに、そんな目で見られるのはすごく悲しかった。




