363 猫の国
道具は集落の瓦礫のなかから上手く見つけることができた。スレイプニルと檻を結びつける、ロープや金具やらだ。ようするにスレイプニルと檻で急造の馬車を拵えたわけだが、そこには車輪がなかった。しかし、スレイプニルが俺の胸の奥に宿った時点で、ある程度は彼の性質みたいなものは理解できている。彼が駆けるのは現実であって、現実ではない。土や石畳の上であって、土や石畳の上ではない。きっと亜空間と呼ぶのがもっとも適切なのだろう。スレイプニルの引く客車に、車輪なんてものは必要ないのだ。たぶん。
俺はリアと並んで立ち、檻のなかのキケロと奴隷の少女に別れを言った。少女は深く頭を下げ、それから自分の親方になったキケロのことを隣で見上げた。
「正直、ワタシには自信がありません」とキケロは少女のことを見つめ返して言った。「しかし、それでも真剣に考え、行動していこうと思います。ワタシはウキキ殿のおかげで、命に貴賤はないことを学びました。……奴隷制はワタシが終わらせるとあなたは言った。自信はありませんが、ウキキ殿の言葉を信じ、生涯をそれに捧げてみようと思います」
俺は頷いた。そして鉄柵越しにキケロと握手をした。本当に、誠実な男にしかできない腕の角度の握手だ。こんな奴が生涯をかけるというのなら、それは本当に死ぬまでのすべてをということなのだろう。それで奴隷がいなくなるかどうかは俺にはわからない。きっとそれは、俺が偉そうに口にしたような簡単なことではないと思う。だけど、それでも彼は一歩めを踏み出した。俺と、双子の月の女神リアと、そして奴隷の少女の見守るその前で。
*
スレイプニルが俺の胸の中にすっと還ってきたのは、日が暮れかけて岩間にテントを張っている頃だった。集落を出て、キケロたちと逆の方向を目指して歩き出してから二時間といったところだろうか。無理を言って馬車馬役をやらせたことについては、とくに怒っているようではなかった。ただ俺の内で静かに熱を発しているだけだった。胸に手のひらをあてて礼を言ったが、返事は返ってこない。しかし、少しだけ熱が強まったような気がした。
「きょうはここでねむる」
リアは俺が三角形のテントを組み終えると、真っ先に中に入り、それから顔だけを入り口から出してそう訊ねた。岩山から抜けてくる風に横髪を吹かれ、開かれたままの小さな口に銀色の細い毛先が入り込んだ。
俺は指先で髪をつくろってやり、それからリアをテントに押し込んで中に入った。一畳ほどしかないが、ただ静かに眠るぶんには二人でも不自由しないだろう。
「こんな狭っ苦しいところで寝るのは初めてか?」
リアは小さく首を横に振った。「いつもはもっとせまい」
「ああ、そういやお前、バスタブのなかで眠ってるんだったな……」
俺はそれからすぐにテントを出て、大蝦蟇に色々と吐き出してもらった。そして紐や鈴で即席の警報装置を作り、付近に張り巡らせた。これで死ビトが近づいても音で気がつくだろう。熟睡するつもりはないが、仮眠程度なら問題なさそうだ。
食事はリアが用意してくれた。彼女はお湯の入ったカップラーメンを二つ手にしてテントから出てきた。カレー・ヌードルとゴーヤ・ヌードルだった。どっちにするか訊かれたのでカレーのほうを指差すと、リアは口をすぼめてカレー・ヌードルを持つ手を気持ち引っ込めた。それで俺はしぶしぶもう一つを選択し、彼女から受け取った。見事なマジシャンズ・セレクトだ。
手頃な大きさの岩に二人並んで座り、俺たちはカップラーメンを食べた。どうやってこんなものを用意したのか聞いたが、リアはその問いには答えなかった。たぶん、そんなことを女神に訊くほうがどうかしているのだろう。池の女神に、金の斧と銀の斧をどこで調達したのか訊ねるようなものだ。きっと、腹をすかせた俺のために、一瞬でショッピングモールまで取りに戻ってくれたのだろう。
食事が済むと、俺たちはそのまま岩の上に寝そべり、暗くなった空を見上げた。ちょうど真上に紅い四の月が浮かんでいた。リアの横顔に目を向けると、緋色の瞳はじっと移ろうことなく紅い月に注がれていた。いや、月ではなく、たぶんそこにいるルナのことを見ているのだろう。
「お前の姉ちゃんは今なにしてんだ?」
しばらくすると、リアは抑揚のない声でひとり言のように口にした。「くるしんでいる。ツキがこのホシにおちないようにはをくいしばってる」
「そっか……」と俺は言った。
「だけど」とリアは言った。それからしばらくして、たなびく薄い雲が紅い四の月に差し掛かると、彼女はそれに合わせるように言葉を継いだ。「たまにわたしをみてわらってくれる」
俺はルナの下手くそな笑顔をまぶたの裏に思い浮かべ、柔らかい髪の感触を手のひらに甦らせた。手がどこまでも無限に伸びればいいのにな、と俺は思った。それなら、いつでもあの寂しい月にいるあいつの頭を、わしゃわしゃと撫でてやることができるのに……。
「ルナはいつだってじぶんをギセイにする。むかしからそう」とリアは言った。小さな手が俺の手の甲をぎゅっと握っていた。「おねがい。ルナをたすけてあげて」
もちろん、と俺は言った。それから俺たちは口をきかずに、雲がすっぽりと紅い月を覆い隠すまで、ずっと二人で同じ場所を見上げていた。
*
地平線の向こうに太陽が昇り始めると、俺たちはテントを片付けて岩間を後にした。結局寝ているあいだに死ビトは現れなかったが、そのぶん猫の国に辿り着くまでに群れとの交戦を十数回ほど余儀なくされた。自分で選んでおいてなんだが、円卓の夜に陸を横断するなんて正気の沙汰ではなかった。二回幻獣の使役のしすぎで動けなくなったし、もし次の機会があれば何がなんでも飛空艇に乗り込むと百回は誓った。しかしとにかく、俺とリアは猫の国まで無事やって来ることができた。
彼らはとてつもなく大きな樹木の上で暮らしていた。こじんまりとした小屋が太い枝の上にいくつも建ち、それぞれの窓には案内される俺たちのことを見つめる好奇的な目があった。彼らはみな動物の耳を生やしている。犬や猫や兎、そして鼠や狐や狸。男性もいるし、女性もいる。子供も若者も中年も老人もいる。
「ウキキ様方には、まず弐の長老に会っていただきます。それから落ち着ける部屋を用意させますので、祝宴までゆっくり休んでください」
目の前を歩くロバ耳の兵士がそう言い、いつまでも褪せない歓迎の色に笑顔を織り交ぜて振り返った。この男がどういうわけか俺とリアの到来を大樹の下で待ち、ここまで連れてきてくれたのだ。
「あ、はい。ありがとうございます」と俺は言った。
どうしてこんな好待遇を受けられるのか、さっぱりわからなかった。アリスたちが先に到着しているはずだが、先ほどそれを訊いても上手くはぐらかされてしまった。大樹の枝に打ち付けられた手すりの下を覗き見ても、あいつが乗ってきたはずの飛空艇は壮大な荒野のどこにも見当たらない。とくに問い詰めようともせずについてきてしまったが、だんだん嫌な予感が火口の溶岩のように噴き上がってきた。
「ちょっと待ってください」と俺は立ち止まり、リアを後方に配して声を上げた。「先に説明してくれませんか? オパルツァー帝国のヒュドラ紋を掲げる飛空艇が来たでしょう?」
また同じような笑顔で兵士の男は後ろを振り向いたが、声は彼が手を添えた扉の向こうから響いてきた。聞いたことのある、訛りが特徴的な声だ。
「落ち着くだす。アリスたちはもちろん、おたくより先にこの国に到着しているだす」
観音開きになった扉の先には、座布団の上で丸くなった猫がいた。座布団はまるで七福神が座っていそうな厚みのある赤いもので、猫はプリティッシュ・ショートヘアーのような青みがかった灰色毛の猫だった。エメラルドグリーンの瞳が妖しく光り、三日月を当て嵌めたような長い口がにやにやと笑うように蠢く。
「チェシャ猫……どうしてお前がここに?」と俺は言った。




