361 甘い考え
目覚めると、夜闇のずっと奥でぽうっと赤い光が浮かんだのが見えた。鋼鉄製の檻の中からの光景だ。それからしばらくして、人の叫びが聞こえた。僅かな時間差を経て、大きな火柱が集落の中央で立ち昇った。
すぐにテントや小屋に火の手がまわっていく。喧騒が赤い空気を伝って響き、悲鳴まじりの怒号が轟く。死ビトの襲撃を受けているのだ。火の粉が粉雪のように暗い空を舞い、何頭もの馬が一斉にいななく。
剣と剣の交わる音がこだまする。遠くのほうで、馬賊の男が死ビトと戦っているのがなんとなく見える。火打石を打ちつけるように何度も火花が散っている。逃げ惑う人の群れが檻の前を横切り、殺し合いの行方を俺の目から一時的に遠ざける。最後尾が通り過ぎると、横たえた体に剣が突き刺さっているのが見える。しかし、ここからだとそれがどちらかは見定められない。
外に比べて、檻の内側はとても静かだった。キケロはゴルファーが芝を読むときのように片膝をつき、状況の把握に努めている。リアと奴隷の少女は二人とも足を伸ばして座り、手を繋いだまま眠りのなかに身を置いている。
老婆はじっと身動きせずに黙り込んでいた。厩の横で馬賊の男が血の海に沈むと、にやっと笑ってから口を開いた。
「ざまあないねぇ……。こうなったら、こっちのほうがかえって安全ってもんさ」
「ああ、そのとおりだ」とキケロは静かに肯定した。「円卓の夜の死ビトと言えど、檻を破る術は持たないだろう……。我々は息を殺して、ここでじっとしていればいい……」
たしかにそうかもしれない、と俺は思う。矢を放つ死ビトもいるかもしれないが、それさえ注意すれば外よりはだいぶマシに思える。しかし、まだ答え合わせが済んでいない。あっという間に集落を火の海に沈めるほどの炎。その源を生み出したものは……。
回答は単語帳をめくったように、いとも簡単に提示された。赤いトレンチコート姿の男がかつかつと靴音を鳴らして近づいてくる。手には槍のように鋭い穂先を据える長い杖が握られている。前の開いたコートの下に、中世貴族ふうの白いシャツを着ている。襟がカーテンの裾のようにひらひらとしたフリルになった、意図の掴めないシャツだ。しかしその襟の上には何もない。彼には首が存在しなかった。
「紅衣のデュラハン……」
それは立ち止り、姿勢よく杖を掲げた。彼の上空に人魂のような炎が集まっていく。そして風船のように膨らみつづけ、乗用車ほどの直径を持つ火球が形成される。
「みんな伏せろ!」
天体を穿つ隕石のように火球が撃ち出される。俺は檻の中の最前列に陣取り、撃ち放たれた脅威に対してシールドを展開する。
「出でよ玄武!」
カメェェェェェッ!
六角形の集合体である光の甲羅は、その内側にあるものをすべて護る。きっと巨大な隕石でもこれを貫通することはできない。檻だけが、今起こったことを物理的に正しく反映させていた。鋼鉄が熔解し、前面から上面にかけてぽっかりと丸い穴が開いている。
「デュ、デュラハンですか……。初めて目撃しました……」
「ああ、紅衣のデュラハンだ」と俺はキケロのひとり言のような問いに返事をする。
以前遭遇したとき、こいつは元領主――ダスディー・トールマンの尽きかけた命の多くを奪った。あれがなければ、彼にはもう少しだけ時間が残されていたはずだった。旅路の果てに巡り会えた娘と、せめて一分か二分でも心を通わすことができたかもしれない。その人生最期の尊い時間を、この襟から上のない化物が削ってしまったのだ。
「ど、どうしましょうウキキ殿……」とキケロは言う。紅衣のデュラハンはそれ以上は寄らず、離れた位置からこちらの様子を窺っている。檻の上部に穴が開いたとはいえ、そう易々と逃げ出せるほどの隙を見せてくれそうにない。あるはずのない双眸が、俺の心の機微まで見逃すまいとじっと注意を傾けていた。
「あいつ、もしかして俺にリベンジしようとしてるのか……?」
「リベンジ、ですか……?」
「前に戦ったとき、元領主とアリスの力を借りて俺が斃したんだ。その借りを返そうとしてるのかも……」
「そっ、それなら!」とキケロは言った。「今回もウキキ殿なら屠れるということですね!?」
俺は意味もなく奴隷の老婆に目を向けた。檻の一番後ろまで下がり、手を合わせてしきりに祈りを捧げていた。唯一の月の女神リア、と老婆は口早に言った。この老いぼれをどうかお守りくだされ……。慈悲を与えてくだされ……。
とうのリア本人は眠りから目覚め、子犬のように怯える少女の手を握っていた。そして紅衣のデュラハンを、感情のこもらない目でぺんぺん草を見るように眺めていた。
俺は首を振り、キケロに言った。「いや、どうだろう……。デュラハンは殺られるたびに強くなって復活するんだ。死ビトだっているし、戦って勝てるなんてとてもじゃないけど断言できない」
だんだんと死ビトが集まっていた。紅衣のデュラハンが呼び寄せているのかもしれない。勝てるかどうかはともかく、早いうちになんとかしなければ檻から抜け出すチャンスすら失われてしまう。やはり、ここでの死闘は免れないと考えたほうがよさそうだ。
俺はヴァングレイト鋼の短刀――鬼姫・陰を大蝦蟇に吐き出させ、左手で柄を軽く握る。そして鉄柵によじ登り、ぱっくりと丸く開いた個所から外に出た。振り返り、俺は太い柵越しにキケロの顔を見た。
「ウ、ウキキ殿、どうするおつもりですか?」
「どうするって、ちょっと戦ってみるんだよ。ここから全員逃げ出すぐらいの隙なら作れるかもしれない」
そう話しながら、俺は視線をごく自然に厩のほうに投げかけていた。なんだか不思議な気配が感じられる。夢の中で遊んだことのある友達のような、よくわからない感覚だ。馬賊の男たちが次々と馬を駆ってそこから出てくるが、気配は最後まで残っていた。たぶん、この気配は――。
「ウキキ殿っ! 後ろから来ています!」
わかってるよ、と俺は言った。わかってる。ちゃんと二つの青い軌道が予兆となって視えている。
素早く振り返り、俺は死ビトの斬撃を短刀で受け、もう一つを上体を反らしてかわした。そして鎌鼬を八体に分身させて使役した。
「出でよ鎌鼬・十六夜!」
ザシュザシュッッッッ!!
吹きすさぶ風が死ビトの首を冷たく撫でる。風には鋭利な刃物が仕込まれている。見張っていても、鈍色に輝く軌跡ぐらいしかまともに目にすることのできない鎌だ。二体の首がすぱっと刎ねられ、焼き落ちた小屋のほうまで飛んでいく。残された胴体が膝から崩れ落ち、うつ伏せ状態になって動かなくなる。
それからすぐに三体の死ビトが襲いかかってきた。青い三つの予兆が夜の世界に鮮やかな弧を描いた。デュラハンもこうだったらな……、と俺は思った。しかし相手に視覚器官がなければ、俺の獣の眼は機能しない。赤い殺意も青い軌道もまったく視えない。唯一黄金色の意志だけは拝めるが、あれは戦いを有利にするものではない。デュラハンはこの異世界の住人がもっとも恐れる強大な怪物であると同時に、俺にとっても最大の天敵と言える相手なのだ。
使役した鬼熊が三体の死ビトを雑に薙ぎ払った。たしか三体だったと思う。もしかしたら四体だったかもしれない。だけど、細かいところにまで注意を払ってはいられない。俺の意識は、すでにその多くが紅衣のデュラハンに注がれている。
*
時間をかけるわけにはいかなかった。馬賊の男たちもあちこちで果敢に戦っているようだが、劣勢を強いられているのは明らかだった。つまり、時間が経てば経つほど死ビトがこちらに集まり、より不利な状況に陥ってしまうということだ。
紅衣のデュラハンの戦い方は相変わらずだった。死ビトの首を落としても、次から次へと活きの良いのが送り込まれてくる。彼は紅い四の月をバックに宙に浮き、そこで死ビトを統率している。俺の力が弱まるのを待っているのだ。元領主とともに戦ったときも、こんないけ好かないやり方をしていた。時々いたぶるように炎の矢で狙われるので、常にデュラハンを視野に収めておく必要がある。それが俺の精神を大きく消耗させた。
時間をかけるわけにはいかない、と俺は思う。もう五回めくらいの思考だ。しかし、今度は行動を伴う。俺は狐火の火炎をカーテンのように放射し、じりじりと距離を詰めてくる死ビトの視界を一時的に遮る。そしてしっかりと上空のデュラハンに照準を定め、狛犬をMAXの力で使役した。
「出でよMAX狛犬!」
前回は元領主の大魔法――重複の法で狛犬の威力を倍化し、やっとのことであの紅いデュラハンを葬った。しかし、今回は当然俺ひとりの力で打ち倒さなければならない。あの偉大な男はもうこの異世界にはいなのだから。だけど、あれから俺だって色々な経験をしてかなり成長した。かなり成長したと自分では思う。だから自信はあった。あてさえすれば、俺だけでもデュラハンを撃破できる。
二匹の狛犬――阿形と吽形が飛び立つまでの十秒が勝負だった。狛犬は威力がめっぽう高いぶん、クリーンヒットさせるのが容易ではない。射線上に相手を縛り付けなければ、愚鈍な亀にも簡単に避けられてしまう。だから、使役者自ら体を張る必要があった。
俺は邪魔な死ビトの首を落とし、それから木霊を使役して彼らの織り成す階段を駆け上った。そしてデュラハンに飛びかかった。杖の穂先がこちらを向き、まるでビリヤードのキューのように真っ直ぐ突き出される。鬼姫・陰を胸元で構え、俺は刀身で穂先を受け止める。衝撃が刃から手に伝わり、波のように脳にまで行き渡る。揺られた視界の先の洒落た襟元に手のひらをあて、俺は鎌鼬を使役する。
「加えて出でよ――鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
二本の鎌がむなしく空を切り裂いた。直前で腕を掴まれ、明後日の方向に手のひらを持っていかれてしまったのだ。だけどそれでも構わない。穂先が俺の脇腹を穿貫したが、それもまあ構わない。だってもう十秒は過ぎている。俺はすぐ後ろに温かい幻獣の気配を感じ取ることができる。
ワオオオオン!
二匹の狛犬は光弾となり、神社の拝殿の鈴紐のように堅く交じり合っている。俺の身体をすり抜け、そして紅衣のデュラハンに到達する。
「っ……!」
デュラハンの隙さえつければ、と俺は思っていた。しかし目の前で起きたことは、俺の考えが甘かったと痛感するのに余りあった。あるいは今デュラハンはあるはずのない口の端で笑っているのかもしれない。俺の間抜けさを冷笑し、そののちにある俺の殺害の方法を心の底から愉しんで選択しているのかもしれない。
彼には翼が生えていた。天使のように真っ白い翼だ。その両翼がお腹の子を護る母親の手のようになって、紅いトレンチコートを覆っている。阿形と吽形はそこでせき止められ、やがて光の粒子となって俺の身体の内奥に還っていった。
考えがあまりにも甘かった。デュラハンは形式的な死を迎えるとより強さを増していく。それなら当然、前回やられた直接的な死因に対して対策がなされているはずだ。生物が外敵に対しての防衛機能を、長い時間をかけて進化させるように……。それを、こいつはたった一度の転生で得たのだ。
目がかすんでくる。刺された痛みが今になって激流のように体を巡っている。考えが甘かった、と俺は思う。何度だって思う。それが、いけ好かないお洒落な襟野郎に負けた敗因だ……。
「だけどすきはつくれた」
色彩を欠いた世界の中心にリアがいる。リアはいつだっているべきところにいてくれる。口を開く。口を大きく開く。そしてそこから光線が放射される。
たぶん、斃してくれたのだろう……。意識を失う瞬間に、俺はそう確信する。闇が広がっていき、柔らかい泥のようなものが俺の身体を包み込む。
紅衣のデュラハンの意思がほんの少しだけ俺のなかに入ってくる。あるいは入ってくる夢を見る。
ツギハカナラズオマエヲコロス、と首のない怪物は言う。ドコデヨミガエロウトモ、カナラズオマエヲミツケダス……。
いつでも来やがれ、と俺は言う。けど、できればもう二度と会いたくなんかない。




