360 砂漠の果ての集落
オレンジ色の風景がどこまでも広がっている。太陽に焼かれた熱い砂があり、半日後には姿を変える高い砂丘があり、風が気まぐれに形作る砂紋がある。
ずっと遠くにはくっきりとした地平線があり、その少し手前に蜃気楼が見える。綺麗なエルフの女性がゆらゆら揺れながら手を振っているように感じられる。いや、それが蜃気楼だと言い切ることはできない。ただ常識的に考えて、こんなところでエルフの女性がにこやかに手を振ってくるとは思えない。だから幻視だと仮定しているだけだ。実像と虚像の境が曖昧になる領域――それが砂漠だ。
俺たちは口もきかずに足を前に運び続け、砂丘の頂上にあがる。眼下に大量の死ビトを伴ったオレンジ色の景色が広がる。死ビトはまるで昼休みの小学校の校庭のように、纏まりなくあちこちで群れを形成している。俺はキケロと見つからないようにその場に伏せ、それから立ちっぱなしのリアの手を引いて座らせた。
「くそっ、こっちのルートも死ビトの山か……」
「どうしましょう? また引き返しますか?」とキケロは前方を向いたまま訪ねた。
「いや、少し様子を見てみよう……。うまくどっかに流れていくかもしれない……」
ここまでの道のりでわかったことは、砂漠を彷徨う死ビトは思ったほど多くないということだった。しかし、それでもやはり円卓の夜だけあって、群生している場所も少なからずあった。そのせいでなかなか距離を稼げない。夜の訪れまでに半分は進んでおきたかったが、まだ三分の一も満たしていない。
「猫の国……ですか」とキケロは追想するようにふと口にした。「ガイサ・ラマンダの遥か東にある小国……。いや、国とはとても言えないほどの領土しか彼らは持たない。五十年も前に隣国に土地と金鉱を奪われ、それからはガササラ火山のくすぶった炎と灰しか生み出せない貧しい国と言われています。我が元老院議会でも、議題に上ることはまずありません。そんな国に、オパルツァー帝国の勅使たるあなたがどのような所用で?」
「そのガササラ火山に用があるんだよ」と俺は言った。「入るには国の許可とかがいるんだろ?」
「ええ、そのはずです。しかし、ではなぜガササラ火山に?」
俺はそれには答えず、リアが砂の上に描いているスフィンクスの絵になんとなくドラゴンの尻尾を付け足した。するとリアは唇をすぼめて砂をならし、今度は新たにハーピーを描き始めた。
俺たちが(アリスたちとは結果的に別路になってしまったが)ガササラ火山に行く理由は明確だ。いろんなことがあって気遣うことができなかったが、サラマンダーは首飾り――ブルーニをその小さな首に提げたにもかかわらず、記憶を取り戻せなかった。その兆候すら感じないようだった。そのときの彼女の表情は今でも目に焼きついている。期待に応えられなかったためか、ひどく悲しそうな顔をしていた。
しかし、得るものもあった。彼女は突然東を指差したのだ。火山……、とサラマンダーは言った。あたちが冬眠していた場所の何かが、あたちを呼んでいる……。
それがこの砂漠を横断してでも猫の国を目指す理由だが、もちろんキケロには話せない。彼のことは信用しているが、一緒にガーゴイルや最後の飛来種の脅威に立ち向かおうとはとても言う気になれない。なぜなら彼にはもっとほかにするべきことがある。今はまだ気づいていないが、きっとそれはキケロにしかできないことだと俺は思う。
「お答えいただけないのですね?」と彼は言う。
「……わるいな。お前を引きずり込むわけにはいかないんだ」と俺は言う。
「では、ワタシがその幼子について質問しても、きっとウキキ殿を困らせてしまうだけなのでしょうね?」
「まあな」と俺は言った。「……でも、それに関しては俺というより、リ……じゃなくて、こいつ次第なんだ。名乗りたきゃ、とっくに自分から正体を明かしてるよ」
いつの間にか、多くの死ビトの虚ろな後ろ姿は遠く離れていた。十数体が払ってもなかなか取れない埃のように、同じ場所を往き来しているだけだった。朱雀を使役してその首をすべて落とすまで、キケロは煮え切らない表情で黙っていた。風に吹かれる砂が少しずつ死ビトの頭部に積もり、それを何世紀も前の戦役の跡のように仕立て上げていく。長い時間が過ぎると、やがてキケロはぼそっと呟いた。
「お見事です。やはり、ワタシのようなお飾り議員とは住む世界が違うのですね……」と彼は言った。
*
日が傾きかけてきたころ、俺はなだらかな砂丘の上に死ビトの姿を認める。目を赤く光らせ、みなぎる殺意を余すとこなく明示している。死ビトの動きには躊躇がない。もうとうの昔に枯れ果てたマナを希求し、錆と刃こぼれの目立つ剣を振り上げながら、一気に駆け下りてくる。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
リアとキケロを下がらせ、俺は交錯する瞬間に白くただれた首を刎ね飛ばす。頭部が落下し、鈍い音を一度だけ大きく立てる。砂場に土嚢を落としたような音だ。
死ビトはこの一体だけだろうか? 俺はラクダのコブのような砂丘の頂上に目を向ける。すぐに稜線から数多くの死ビトが頭を覗かせるのではないか? そんな嫌な予感が冷たい汗となって背中を伝う。
しかし、数十秒のあいだじっと注意を傾けたが、そんな事態にはならなかった。予感は予感のまま、乾いた熱い砂に吸い込まれていった。
「……念のために、ちょっと上って向こう側を見てく――」
振り返った瞬間、俺が目にしたのは刃物を喉元にあてられるキケロの姿だった。屈強な男が四人、彼とリアを取り囲んでいる。曲刀、編み込まれた長い髭、そしてデイ・ゲームの野球選手のような目元の黒塗り。部族か何かだろうか? 何も纏わない無防備な上半身は、殺られる前に殺るという彼らの戦闘スタイルのあらわれかもしれない。
「……なんの用だ? 水を分けてほしいなら、いま大蝦蟇にペットボトルを吐き出させるけど?」
「ミズはいらない」とキケロを捕える男が言う。「オマエらをかっさらう。奴隷商にウル」
俺は軸足に力をこめた。遠距離から雷撃を浴びせるか、あるいは接近して一撃を叩き込むか……。右腕が無意識的にぴくりと動いた。それを男は見逃さなかった。
「っ……!」
キケロの首に刃がめり込む。僅かな血が首を伝い、彼の白いトーガの襟口を真っ赤に染めた。
「少し前からオマエを見てた。ゲンジュウ使い。ゲンジュウを呼び出そうとしたらコイツをコロス。次はない」
俺は降参の合図をどうしようかで迷った。元の世界のように両手を上げて通じるものだろうか? 余計ややこしいことにならないだろうか? たしか、なんかのアニメでそんなシーンがあった気がする。白旗をあげたら、敵軍に徹底抗戦の意思表示と見なされてしまうのだ。
俺は素直に口にすることにした。「わかった、降参するよ」と俺は言った。だが、声は大きな音にかき消された。何頭もの馬が砂地を蹴り上げ、勇猛に駆けてくる音だった。
「オマエらを我々の集落に連れていく。真東の砂漠の果てにそれはアル。テイコウはするな。すれば全員この場でコロス」
真東の砂漠の果て……、と俺は思った。なかなか悪くない話だ。
*
彼らの集落は砂漠のはずれの岩山のあいだにあった。崖に挟まれた空間を上手く利用し、ゲルのような円形のテントをいくつも建てて暮らしていた。入ってすぐのところに厩があり、何頭もの逞しい馬が牧草を食んだり水を飲んだりしていた。きっとここに住む奴らがアリスの言っていた馬賊なのだと、俺は今更ながらにして気づいた。
檻は厩のすぐ隣にあった。中には小さな女の子と老婆がいた。少女は俺たちが放り込まれると、距離を取るように端っこに寄った。まるでこの世のものすべてに怯えるように、恐怖に染まった目で俺たちのことを見ていた。
「オトナシクしてろ」と男は鉄柵に鍵を掛けながら言った。「オマエらは明日、ウリに出される」
キケロは追いすがるように柵を両手で掴み、去っていく男の背中に向かって叫びをあげた。
「待ちたまえ! 何度言えばわかる、ワタシはガイサ・ラマンダの元老院議員だ! ワタシたちを今すぐ解放すれば、売却する利益の五倍を支払おう!」
しかし、彼の声はむなしく宙を漂っただけだった。柵を背にして座った俺とリアの前に立ち、力なく何度も首を振った。
「これだから蛮族は好きになれません。彼奴らに話は通じないんです……」
だがしかし、とすぐに彼は続けた。「必ずワタシが説き伏せてみせます。これでも交渉事は得意なんです」
俺は口元で微笑んで頷き、日の沈んだ空を見上げた。檻の内側からでも星は綺麗に輝いて見えた。しかし、それはたぶん俺が余裕を持ってここに留まっていられるからだろう。こんな檻、その気になればいつでも脱出できる。
俺は少女になんとなく目を向ける。彼女にはこの満天の星空がどう見えているのだろう、と俺は思う。あるいは遠い宇宙の絵空事になんて気を向けている余裕はないのかもしれない。彼女は膝を立てて座り、自分の黒ずんだ足の指をじっと見つめている。そして少しでも物音がすればそちらに目を向け、自分を傷つけようとするものに対してあまりに無力なシールドを張り巡らせる。
リアが少女の隣に音を立てずにすっと座る。リアはいつだって気づけばそこにいる。
「こわがらなくていい。すぐにたすかる」
リアの銀色のショートヘアーが風になびき、柔らかな光の粒子を辺りに振りまく。少なくとも、俺にはそのように見える。
少女は泣き腫らした目でリアのことを見る。何か声を上げようと口がかすかに開かれた瞬間、ずっと檻の角で動かずにいた老婆が急に声を発する。
「気休めはよしな、綺麗な身なりのお嬢ちゃん。奴隷は助からない。あたしもその子も街の親方から逃げて来たが、たった一日でこのザマさ。奴隷は死ぬまで助からない。また違う親方に売られて、死ぬまでそれが続くのさ」
リアは何も言わずに唇の端を噛んだ。それから何事もなかったように地面をキャンバスに見立て、尖った石の先をゆっくりと走らせた。犬……アヌビスだろうか? それが完成すると、リアは少女に石を渡した。少女は少し迷ってから、アヌビスの横に向日葵を描いた。リアは少女を見て小さく頷いた。それからずっと、二人は一緒に絵を描き続けた。
「この辺りで街というと、ベベボネか?」としばらくしてからキケロは老婆に訊ねた。「あそこには円卓の夜の期間、安全に暮らせる地下施設があるだろう? それなのに、なぜ外に出るという危険を冒してまで親方から逃げたのだ?」
「命の危険を感じたからさ。死人の世界を歩くよりもね……。あれは酔っぱらうと、すぐにあたしらに暴力を振るうんだ。もう一人いたけど、それで足を悪くして逃げ出せなかったのさ」
「……それは不幸だったな。しかし、自分の親方のことをそう悪く言うものではない。『常に一女神・三親方に感謝を』。それを思い出せるなら、ワタシがそなたらを買い取ろう。乱暴なことはしないと唯一の月の女神リアに誓う。天に召されるまで、安心して我が屋敷で働くといい」
交渉が成立したのかどうか、それは俺にはわからない。身体が休むことを求め、次第に瞼が重みを帯びてきたからだ。
俺は座ったまま腕を組み、少し眠ることにした。目覚めたとき、集落は火の海に飲み込まれていた。




