358 さよならを言うために
説教部屋には、月の女神リアの彫像に鎖でくくりつけられるデザート・スコーピオンの男の姿があった。蝋燭の炎が、鍛え上げられた体に無数に走る鞭の痕を生々しく照らし出していた。意識はしっかりとしているようで、彼は俺が目の前まで歩いていくのを眼光鋭く睨みつけていた。どういう状況にあろうと決して屈することはない、そんな覚悟のようなものを汲み取れる強い眼差しだった。
「よう、元気か?」と俺は彼に訊ねた。しかし返事はなかった。どうやらすこぶる元気のようだ。
何重にもなって彼の身体に巻きつく鎖に手をかざし、俺はもう一度彼に質問をした。
「捕縛を解いたら、あんたは俺に襲いかかってくるか?」
答えが返ってくるまでに、かなりの時間が必要とされた。
「オマエ、オレを助けに、来たのか?」
俺は笑った。それから首を横に振った。
「いや、そうじゃないよ。ただリア像を粉砕するのにあんたが邪魔ってだけだ」
彼はとくに気落ちするふうでも、残念に思うようでもなかった。彼の目は、そんな器用に感情を乗せられるようにはできていない。ずっと逸らすことなく、一定の色合いで俺のことを見ていた。
「オマエ、オヤカタサマを、殺したのか?」
殺してない、と俺は言った。
「オヤカタサマは、いま命の危険にあるか?」
命の危険はない、と俺は言った。
「なら、オマエに刃を向ける理由は、ない」
鎌鼬を使役して鎖を斬り裂くと、男は黙ってその場からどき、灯りの届かない部屋の隅まで移動した。俺は女神像に右手で触れながら、その闇の奥に問いかけた。
「止めないのか? 俺はあんたの親方が信奉しているリア像を破壊しに来たんだぞ?」
ひと気のない図書館の書架の列を、重たい空気がひっそりと循環するような沈黙が垂れ込めた。それからのちに、彼はやっと返事を口にした。
「我は、オヤカタサマの命を護るよう、命令されている」
なるほど、と俺は思った。あくまで命令に忠実な男なのだ。
俺は右手に力をこめた。少しでも気を抜くと、腕が下がってしまうような気がした。また罪悪感が心に芽生えはじめている。それはとても根深く、そして強大な支配力を有している。
俺はこの都市の人々が毎夜祈りを捧げるリア像を、無残にも消し去ろうとしている。こんなことをしてしまって、本当にいいのだろうか? ひょっとしたら男の気が変わって後ろから止められるかもしれないと思ったが、一向にそんな気配は感じられなかった。
本当に、俺はこの像を壊してしまうのか……?
一瞬の躊躇は戸惑いを生み出す。俺は自分のやろうとしていることを正当化することができないでいる。月の女神リアへの奉り物の修繕に従事すれば、虐げられた奴隷の人たちでも賃金を得られる。きっとそれは彼らのためになる。だけど、その彼らだってリア像を明日を生きる支えにしているかもしれない。冷たい檻から祈りまで奪ってしまうことが、本当に正しいのだろうか? 何もわからなくなってくる。こんなことをする俺に、トゥモンはもう一度微笑みかけてくれるのだろうか?
手のひらがだんだんとずり落ちていく。俺は罪悪感に(あるいは重力に)抗うことができないでいる。書架に少しずつ埃がたまり、それが山のように積もっていく。吹き払うことなんて、とてもじゃないが俺にはできなそうにない。
しかし、小さなリアがそこに降り立つ。口をすぼめて、そこから息を吹きかけて簡単に埃を掃ってしまう。
「わたしはウキキをゆるす。すきなようにすればいい」
リアの言葉は、右腕に左手を添えるだけの力を与えてくれる。ゆっくりと息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
「――出でよ鬼熊!」
ガルウウウウッ!
無理に正当化なんてしなくてもいい。時にはアリスのように、バカみたいに突っ走ることも必要なのかもしれない。
*
それから俺は地下の説教部屋を出て、中庭の月の聖堂まで急いだ。この建物自体が月の女神リアへの奉り物だ。まず俺は、中のリア像を鎌鼬を使役して真っ二つに切断した。それから、真っ白い壁に鬼熊の拳を叩きつけて大きな穴をあけた。ここの主人が奴隷時代に刷毛を走らせたという、自慢の壁だ。きっと、また完璧に仕上げてくれることだと思う。なぜなら、彼はムラなく色を塗るコツを知っているのだ。
そうやって大掛かりな修復が必要な程度まで内部から打ち壊し、俺は男の屋敷をあとにした。そしてシミュレーションどおり都市を移動し、一か所ずつ女神像や聖堂を破壊してまわった。
建物周辺を元老院議員の兵士らが警備しはじめたのは、都市の奉り物を三割ほど潰したころだった。すでに俺の名前と顔は知れ渡っているようで、『悪鬼ウキキ』という異名までつけられていた。きっとあの蛙のような男が惜しみなく俺の情報を渡したのだろう。
その辺りから、もう戦闘行為を抜きに目的を達成することが難しくなってきた。仕方がないので、俺は適当に彼らの相手をし、隙を見つけては女神像や建物を一撃して、そして素早く離脱するという作戦をとった。追いかけられれば暗闇に身を潜め、それでも発見されれば木霊を使役して屋根伝いに逃走した。
そんなことを繰り返し、俺は少しずつ奉り物の数を減らしていった。十八か所め――つまり最後のターゲットの近くまでくると、ベンチに座って足をぶらぶらとさせるリアの姿があった。空にはまだ3つの月がくっきりと浮かんでいた。
「つぎでさいご」と彼女は俺に訊ねた。たぶん訊ねたのだと思う。
「ああ、次で最後だ」と俺は言う。ガガル凱旋門――それでこの都市での俺の役目は終わる。
不思議と門のまわりは閑散としていた。都市はいま火の海に飲まれる江戸の町のような騒乱にあるというのに、ここだけ人っ子ひとり見あたらなかった。門の左右に彫り上げられた女神像だけは安全だと、彼らの見解が一致したのだろうか? それともリアの――本物のリアの――なんらかの力がそうさせているのだろうか。
リアは自分が大人としての姿で形作られた二つの女神像を、黙って見つめていた。最初に憂いげな表情でハープを弾く左側の像をじっと鑑賞して、それから朗らかにラッパを吹く右側の像に視線を移した。
「どうしてみんなガッキをもっている」としばらくしてリアは言った。「わたしはどれもひいたことはない」
「いや、やっぱりそこが気になるのかよ……。もっとボディーラインとか、明らかに違うところあるだろ……」
リアは振り返り、唇をすぼめて俺のことを見た。それから自分の幼い体と女神像を何度か見比べた。やがて、夏祭りの終わりにひそめく笹の葉のように、そっと呟いた。
「こういうミライもあったのかもしれない」
「えっ……未来?」
もう何も語られることはなかった。どこかで花火の上がる音が聞こえたが、たぶん気のせいだろう。夏はもうとっくに俺たちの手の届かない場所まで行ってしまった。
リアはこの地にあまねく女神信仰を、どの程度まで理解しているのだろう? また女神像に目を向ける彼女を見て、俺はそんなことを考える。自分だけが唯一の月の女神とされ、双子の姉が邪神としてひどく畏怖されていることを知っているのだろうか? いつの間にか、リアは紅い四の月を見上げている。ルナはそこで月の落下を食い止め、この惑星のすべての命を必死に繋ぎ止めている。
「すきにすればいい。わたしもルナもきにしない」
夜空の真ん中で、紅い月が一度だけまたたく。まるで双子の妹にだけメッセージを送るように、限りなくうっすらと。
*
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
最後の奉り物に深く大きなX字を刻み、俺はリアを連れて素早くガガル凱旋門から離れた。そしてエア・ポートに上がるエレベーターまで歩いたが、そこは多くの兵士によって封鎖されていた。
これでは飛空挺に戻れない。相手の数は二十ほど。蹴散らして無理やり乗り込むことは可能だが、それではまったく意味がない。地上でハンドルを回してくれる人がいないと、このエレベーターは動かない。
後方から複数の足音が響く。また新たな兵士たちがエレベーターに集まって来る。俺はリアの手を引いて、その場から立ち去る。物陰に隠れ、兵士らの動きを観察する。
どうやら飛空挺さえ押さえれば、『悪鬼ウキキに逃げ道なし』と踏んだみたいだ。たしかにそのとおりだ。円卓の夜のあいだ、この都市は固く地上の扉を閉ざしている。出入りするには崖上のエア・ポートを利用するしかない。しかし、昇り降りする手段はあの人力のエレベーターだけだ。少し思案すれば、ポルフィーリーでなくともこんなことはすぐにわかる。
まさに、今の俺は袋の鼠といったところだった。やり遂げることばかりに夢中で、俺はそのあとのことを考えていなかった。どうする? と俺は今になって逡巡する。
とりあえずアリスに連絡を取るために、シャツのポッケから煌銀石のリング・ネックレスを引っ張り出して首に提げる。飛空艇の状況が知りたい。
(おいアリス、お前起きて――)
(あなたどこにいるのよ! 今こっちは大変なことになっているわよ!)
頭のなかで直接アリスの声が反響し、脳が激しく揺り動かされる。こいつの声は、俺のあらゆる器官をいつだって必要以上に刺激する。
(声がでけえよアホ! 風の囁きなんだからもっと小鳥のさえずりのように喋れ!)
(アキキ・ウキキって何よ! あなた何をしたの!?)
(悪鬼ウキキな! それはあとで説明するから、そっちの状況を詳しく教えてくれ!)
思ったよりも事態は深刻だった。すぐにでも飛空艇が丸ごと押収されようとしているらしい。船長やクルー、そしてアナたちが会話による抵抗を続けているが、もう踏み込まれる寸前だとアリスは言う。
(あなたさえ戻れば、すぐにでも発進できるようになっているわ! あなた今どこにいるのよ!?)
アリスの声を聞きながら、俺はエレベーターの背後に聳える崖を見て目算する。100メートル以上ありそうだが、なんとか数少ない足場と木霊を使って(必要なら黒蛇も使役して)上まで登っていけるかもしれない。
(五分……いや一時間だけなんとか持ちこたえてくれ! それまでに到達してみせるから!)
(そんなに待てるわけないでしょ! 私がすぐにグリフィンちゃんで迎えに行くわ!)
(いや、じゃあ初めからそう言えよ!)
(だからずっとどこにいるか聞いているんじゃない!)
最後は一段と声が高く、そして大きかった。アリスの声は、俺が忘れていた大事なことを呼び覚ました。
(トゥモンは!? あいつ今どこにいるんだ!?)
どうしてトゥモンのことまで頭から抜け落ちていたのだろう? これではラスコーリニコフの犯罪行動心理をとやかく言う資格はない。
アリスはトゥモンの居場所を知らなかった。というか、飛空艇の俺の部屋に寝かされていたことすら初耳のようだった。ノベンタさんがあえて黙っていたのかもしれない。アリスは近くの誰かに聞いてから、船長が地上まで逃がしたと俺に教えてくれた。こういう状況になる、ちょっと前の出来事らしい。
俺は少しだけ考えを巡らせる。本当に少しだけ。ほんの一秒か二秒。
(アリス、今までの話は全部なしだ! すぐに飛空艇を離陸させてくれ!)
(あなた何を言っているのよ! そうしたらあなたはどうするの!?)
(俺は自力で『猫の国』まで向かう! この都市を出て東の方角だったよな!? 大丈夫、なんとか――)
(そんなの無茶よ! あなたが戻るまで飛空艇は絶対に動かさないわ!)
俺はまたゆっくりと息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。これで大抵のことは上手くいく。
(……アリス、俺はまだトゥモンにお別れを言ってないんだ。……お前ならわかるだろ?)
多くの言葉は必要とされない。さよならを言えない辛さは、こいつが一番よくわかっている。
(……『猫の国』よ。私たちはそこに行って、サラをバササラ火山の火口まで導かなくちゃならないわ)
(ああ、サラマンダーに記憶を取り戻してもらうためにな。猫の国……俺にとっちゃ、ビースト・クォーターだらけの理想郷だよ)
じゃあ船長に発進命令を出してくるわ! とアリスは囁いた。それから駆け出し、素早く一言だけ付け加えた。
(道中、馬賊に気をつけるのよ!)
そこで風の囁きは途切れた。
……ば、馬賊?




