356 月の女神のお墨付き
俺のベッドには、両手の治療を終えて眠るトゥモンの姿があった。治療といっても失われた小指が元に戻ったわけではない。メスのような小さな刃先のナイフで切断面をわずかに削り取り、焼き鏝で焼いて、そして噴水の水に浸した包帯を巻いただけだ。布っきれのなかにある変色した二本の指は、もう永久に彼の意志に従うことはない。
『奴隷はお願い事をするとき、小指を差し出さなければなりません。相手が三親方なら一本、他人様なら二本と決められております』
トゥモンは俺があげたチョコレートを親方に取り上げられてしまった。病弱の弟に食べさせてやることができなかった。だから、彼はこの規律に則して、自らの小指を二本切り落とした。そして膝をついて俺に差し出し、チョコレートを求めた。
どうしてたかがチョコレートのためにこんなことができるのか、と俺は思う。それに、なぜあの醜い親方は彼からチョコレートを奪ったのか。奴隷はチョコレートを食べることすら許されないのだろうか……。
俺はこぶしを強く握り込み、軋むほど奥歯を噛みしめた。怒りがふつふつと湧いて出てきた。俺がトゥモンのためにしてやれること。それを実行に移すのに、もう少しの迷いもなかった。
「どうしたの~ウキキ君~。すごい怖い顔してるよ~?」
ソファーに座ると、ノベンタさんは顔をタオルで拭きながら俺にそう言った。処置はすべて彼女が行ってくれた。とても手早く、そして丁寧な施術だった。吸血鬼化の途にあったアリスを診ていたときも思ったが、彼女は呪術師なのに医術にも精通しているようだった。そのことを訊ねると、「呪術も医術もたいして変わらないよ~」とノベンタさんは笑って言った。
飛空挺のなかは静かだった。じーっという小さな機械音が断続的に聞こえてくるだけだった。飛空挺のエンジンを試運転させているらしい。アリスは機械室でその始動を見学させてもらってから、やっと上陸許可が下りたアナやレリアたちと外に出ていた。明日の昼にはここを発つので、きっと最後に自由都市を観光してまわりたいのだろう。
「こんなことになるなら~、ウキキ君についてって正解だったね~」
「ええ、本当に……。ありがとうございます」と俺は言った。そしてトゥモンの左右の手を交互に見た。
ノベンタさんも同じものを見ていた。「わたしもね~」と彼女は言った。エンジンの音が少し大きくなると、ノベンタさんは小さな咳払いをして、それからまた口を開いた。
「わたしもね~、小さいときに~、もう少しで奴隷になるところだったんだよ~。博打と酒浸りの父親に借金のかたに売られるところだったの~。でも師匠が~、えっと~、ナルシードの母親がね~、わたしを引き取ってくれたんだ~。亡くなったわたしの母と~、大親友だったから~」
「それも――」と俺は言った。「それも、三親方を殺害して、ナルシードを奴隷という身から解放した理由だったんですね?」
「そうだね~」と彼女は言った。そして指を唇にあてて、しばらく考え込んだ。
「この子は~、あの醜男の屋敷で働く奴隷なんだよね~?」
「ええ、そうです。あの男について何か知ってるんですか?」
ノベンタさんはあの蛙のような男のことをよく知っていた。彼女が師匠の元で呪術の修行をしていたころから、『奴隷から成り上がった醜男』として名を馳せていたらしい。
「そうなると~、このトゥモン君の三親方は~、ほかにメルメラ聖教長とマギン元老院議長ってことになるね~。この三人は~、奴隷を好きに酷使するために~、三親方を全部自分たちにすることで有名なんだよ~」
メルメラ聖教長とマギン元老院議長……。俺の脳は並べられたトゥモンの親方たちの名を瞬時に記憶する。彫刻刀で削ったように、深く脳に刻み込まれる。
俺はベッドの脇に立ち、あどけない少年の寝顔に目を向ける。あの蛙のような男と、メルメラとマギン。この三親方がトゥモンを鎖で縛りつけている。こいつらが一晩のうちにまとめて消えさえすれば、少年は自由になれる。もう新たな親方の奴隷にならず、どこまでも羽ばたいていける彼だけの翼を手にすることができる。
ノベンタさんは何も言わずに、俺のことをじっと見ていた。メガネの奥で、瞳孔がゆっくりと拡がっていくのが見えた。示唆的な笑みが口許に浮かべられ、そして俺は気がついた。彼女はトゥモンの三親方を、俺に教えるべくして教えたのだ……。
窓辺に立ち、眼下に広がるガイサ・ラマンダの街並みを眺望する。ガガル凱旋門が見える。その左右で、月の女神リアの像が行き交う都市の人々を優しく見守っている。本人と違い、そこにはいつだって清らかな泉のような微笑みがたたえられている。
まだ陽は高かった。三時を少しまわったぐらいだった。しかし、時間はいくらあってもありすぎるということはないだろう。念入りに下見をする必要がある。追われることにもなるだろうから、街道から裏道までちゃんと熟知しておかなければならない。俺はこんなところで、牢屋に入れられるつもりなんてない。
俺は窓から離れ、トゥモンの銀色の髪をそっと撫でた。そしてノベンタさんに言った。
「ちょっと出掛けてきます」
ノベンタさんはメガネを外して頷いた。やり遂げたことのある者が、同じことをやり遂げようとする人間にエールを送るみたいに、とても力強く。
「はーい。みんなには~、遅くなるって言っておくね~」
俺は無理に微笑んで見せ、それからテーブルの上のアソート・チョコレートを一瞥した。トゥモンにあげるはずだったものだ。あんなことをせずとも、彼は袋いっぱいのチョコレートを弟に食べさせてやることができたのだ。しかし、今となってはもう遅い。
俺はトゥモンが眠る部屋をそっと出ていく。奴隷の少年のために、俺はチョコレートなんかよりももっといいものを与えてやることができる。
そのために自分の手を汚す覚悟は、もうとっくにできている。
*
冒険手帳の真新しいページが、どんどんメモや地図で埋まっていった。複数のターゲットを持つ人間にとって、一晩はあまりにも短い。俺は目的の場所を最初に調べ上げ、それからどうまわるのがもっともいいのか熟考しながら都市を歩いた。小さな聖堂の前のベンチに座って冒険手帳を閉じたとき、時間はすでに二十時を越えていた。
やはり、スタート地点は蛙のような男の屋敷に設定した。あいつがそもそもの始まりだし、なんといってもあのデザート・スコーピオンの男が警護している。一番手こずるのは間違いないだろう。
しかし、それさえ済めばあとはそう難しくないように思える。道順も頭に入れたし、実際に地図なしで二回歩いてもみた。もう一周しておこうかと思ったが、あまりうろうろしていると怪しまれる可能性がある。そうなると、夜中にこっそり忍び込むことが困難になるかもしれない。
俺はもう余計なことはせず、日が変わるのを待つことにした。冒険手帳をまためくっていると、急に胸がしめつけられた。罪悪感を覚えるのはまだ早いと思ったが、そうではなかった。それはこれから行うことに対してではなく、アリスとの冒険手帳に重罪の計画を書き込んでしまったためだった。
もしあいつが知ったら、どう思うだろう……。
迷いはないが、炎が揺らぐのを感じた。覚悟はできているが、殻の外から誰かがノックをしてきた。
俺は首を振った。あいつはどこまでも正方向に伸びている。常にまばゆい光とともにある。今はあいつのことを想ってはいけない。じゃないと、光り輝く正義の押し売りに潰されてしまう。
しかし、芽生えてしまった罪悪感は形を変え、性質を変え、俺の身体を侵食していた。いつか死んだら、やっぱり地獄に突き落とされるのだろうか? 普段ではありえないことまで、真剣に考えてしまった。重大な罪を犯してしまうのだから、間違っても天国行きにはならないだろう。閻魔大王は、たぶんそんなに甘くない。
気がつけば、俺の足は自然と目の前の聖堂に向かっていた。俺の内に生じてしまった毒を(あるいは毒のようなものを)消滅させられるのなら、いくらだってリア像に祈りを捧げたい気分だった。両開きの扉を開け、中に入り込んだ。拝廊を静かに歩き、椅子の一つに腰を下ろした。
そこには数多くの人々がいた。順番に一人ずつ祭壇の大きなリア像の前に跪き、両手を合わせていた。椅子には年老いた夫婦の姿もあれば、若いカップルの姿もあった。絢爛な衣服を纏う貴婦人もいれば、上半身裸の奴隷もいた。唯一の月の女神リアの前では、誰もが等しく小さな存在なのだ。
誰もが自分の番でもないのに、厳かな顔つきでリア像だけに意識を傾けている。大人の女性として創作されたリア像は、楽しげにフルートを吹いていた。そしてやっぱり、本人とは似ても似つかない艶めかしい体つきをしていた。
左隣の女性の礼拝が終わり、俺もあとに続く。見よう見まねで片膝をつき、前の人を参考に月の女神に祈る。そしてまた立ち上がり、まわりの流れに沿って元いた席に戻る。腰を下ろし、少しだけ目を閉じる。それから目を開けると、隣にはリアがいる。
リアは足をぶらぶらとさせながら、自分をかたどった女神像を見ている。しばらくすると急に口をすぼめる。
「わたしはあんなガッキをふいたことはない」
ツッコミどころはそこではないのだが、俺は黙っている。急に現れたことにも驚かない。俺たちのあいだでは、もうこれがわりと普通なのだ。俺はリアの手を取り、退席しようと腰を上げる。ここでは小さな声ひとつ黙認されない。顔をしかめた老人や、眉をひそめる女がこちらを見ている。
頭を下げると、また彼らの意識が女神像に吸い寄せられる。本人は見向きもされていない。彼らにとって神は偶像でなければならないのかもしれないが、俺はそれを滑稽だと笑う気にはなれない。あれに祈りを捧げることで、心が救われる人がいる。明日に望みを抱ける人がいる。この地に生きる人々にとって、あの女神像はまさに救済であり希望なのだと思う。貶したり、傷つけたりする権利は誰にもない。
外に出てまたベンチに腰を下ろすと、緋色の瞳が俺のことをじっと見つめる。
「ウキキはあそこでなにをいのった」
リアの喋る言葉は抑揚と疑問符が欠けている。俺は彼女の言葉を復唱する。
「俺があそこで何を祈ったか?」
リアは頷く。肩まで伸びる美しい銀髪が風に揺られている。しかし、風が吹いているようには感じられない。
「やり遂げられるように……って祈ったんだよ。それと、できれば許されますようにって……」
毛先が一斉にぴたりと動きを止める。星ひとつない夜空を、煙のような薄い雲が横切っていく。
リアは言う。「わたしはウキキをゆるす。すきなようにすればいい」
「双子の月の女神リアは、俺を許してくれる」と俺は言う。「本当か? お前、俺のやろうとしてることがすでに見えてるのか?」
足をまた交互に振り上げながら、リアは頷く。
「ウキキはさいごまでやりとげる。まだソラに3つのツキがあるうちに」
「そっか、俺は最後までやり切っちまうのか……」
リアは小首を傾げる。「どうしてしゅんとなった」
「いや……俺は子供のころから正義のヒーローに憧れてたからさ。これってどう考えても、ダーティ-・ヒーロー派の高峰先輩のやることだよな……」
「タカミネ」
「ああ、高峰。俺の尊敬する先輩だよ」
「まえにもきいたなまえ。タカミネはウキキのそんけいするせんぱい。おぼえた」
俺はリアの頭を撫でた。リアは最初から今に至るまで、ずっと俺の顔から視線を逸らさずにいた。
「それに――」と俺は言った。「それに、こんなことを心配するのは馬鹿げてるかもしれないけど、いつか閻魔大王に地獄に落とされるって思うとな……」
リアはかすかに唇をすぼめた。そして何も言わずに裸足の足でベンチに上り、俺の頭に小さな手を置いた。ゆっくりとその手が大きな円を描いていく。どうやら頭を撫でてくれているみたいだ。
「だいじょうぶ。しんぱいいらない」とリアは少ししてから言った。「わたしがはなしをつけておく。あのひとはあまいものにめがない」
買収はともかく、月の女神のお墨付きを貰えた。あとは臆することなく実行に移るだけだ。




