355 アリスとクラット
クラット皇子は秋の深い青空のような髪色をしていた。アラクネに取り込まれたアメリアや、写真で見たアリシアと同じ色だった。きっとグスターブ皇国の皇室に生まれると、だいたいこんな色彩になるのだろう。アリシアの娘であるアリアや孫のアリスの髪が漆黒なのは、それだけ園城寺譲二の血が濃かったということなのかもしれない。
アリスは吸血鬼の城から出るまでずっとクラット皇子と話をしていたが、そのほとんどが彼の名前に関することだった。どういうわけか、異常なまでにその名を気に入ったようだった。しかし、クラット皇子は名前を誉められても顔を真っ赤にするだけだし、何を訊かれてもろくに返事を返せないでいた。本気でアリスに惚れてしまったみたいだ。もしかしたら、これが十二歳の少年の初恋なのかもしれない。
門扉を抜けてから最後にアリスと握手をすると、皇子はその手に大いなる神の息吹きを感じ取った神父のように、神々しく手のひらを見つめた。俺の経験則から言えば、きっと二カ月はその手を洗わないことだろう。
「どうやらお互いの気に入ったようだな」
ラウドゥルは二人を見ながらそう呟いた。それから俺の目を射抜くように見た。口元には、まだ穏やかな笑みの残影が浮かんでいた。
「まさか、アリスが皇国の血を引いていたとはな」と彼は言った。「そればかりでなく、大召喚士アメリアの双子の妹――アリシアの孫娘だったとは……。『アリスと一緒に皇国の風景を見せてもらいたい』『けど、間違った方法でしか再建できないような国なら、そんなものはごめんだ』。ウキキ、お前がオレにこのような啖呵を切った理由はこれか?」
「まあな」と俺は言った。「でもそれだけじゃないよ。……あんたのとこの大男に伝言を頼んだけど、伝わってないのか?」
「それは届いている。『今この世界はあんたたちの遊びにかまけていられるほど安定していない。だから余計な面倒を起こさないでくれ』……だったか? オレたちの住むこの丸大地に、どうやら何かが持ち上がっているみたいだな。……だが何が起こっていようとオレの行く道は変わらん。皇国復興のため、やるべきことをやるだけだ」
ラウドゥルは俺の言葉を待たなかった。少し遠くで彼の様子を窺うように見ているナルシードに鋭い声を投げかけた。
「おいナル坊や、オレはお前の剣の師ではないんだ、次にまた挑んでくるようなら、あんな稽古事では済まんぞ」
「稽古事?」とナルシードはそっぽを向いて言った。「堕ちた元皇国騎士とでは、僕は準備運動にすらならなかったけれど?」
ラウドゥルはふっと笑った。そうして、彼と皇子はキャラバンの元へ歩いていった。
彼らとは、またすぐに会うことになる。指定された日付は四日後――つまり崩竜の月・陰の十七日。場所は東の国、『タマハガネ』の一番高い塔。俺は約定により、そこまで赴いてラウドゥルの仕事を手伝わなければならない。暗殺ではない、ほかの何かを。
俺たちもタラップを上がって飛空挺に搭乗すると、すぐにナルシードが俺の背中に問いかける。
「ウキキ君。まさかきみ、馬鹿正直にあの男の要求に応じる気じゃないよね?」
「もちろん応じるつもりだ。船長に事情を説明して、時間どおりに着けるよう日程を組んでもらうよ」
「どうしてだい? ガーゴイルの起動まで、もうあとひと月もないんだろう? 戯れ事にかまけている暇なんてないと思うけれど?」
戯れ事、と俺は心のなかで復唱する。ナルシードはラウドゥルのことになると、とたんに手厳しくなる傾向にある。奴隷だった少年が騎士見習いになり、軍事演習で国を訪れた皇国騎士に惨敗した。それから少年はその男の背中を追い、いつか彼に勝利することを人生の目標に定めた。それが彼らの関係性だ。
それなのに、手が届くまでもう少しというところで、追い掛けていた背中は闇夜に紛れてしまった。そして時が経ち、少年は皇国騎士が野盗のような真似をしていることを知った。そのときの気持ちを考えれば、辛辣になるのも頷けるかもしれない。
「たしかに、無駄なことに費やす時間はないよ」と俺は言った。「でもこれは必要なことでもあると思うんだ」
「どういうことだい?」とナルシードは訊ねる。
俺は船縁に手をついて地上を眺める。皇子がステップを踏みしめ、馬車に乗り込もうとしている。
「ガーゴイル起動の阻止は、精霊王の存在が絶対条件の一つなんだ。その誕生には、その時代でもっとも力を持つ大魔導士と召喚士の認印がいる」
ナルシードは黙って頷く。アリスと違って、彼は口を挟まないでほしいときはちゃんと黙っていてくれる。
「大魔導士は問題ない、今ごろザイルたちが北の国でアリューシャ様と話をしてるはずだ。だけど、召喚士のほうは手掛かり一つない。今この世界で一番強大な召喚士は誰なのか? そもそも、召喚は今どれほどいるのか?……それすらわかってないんだ」
「それで――」とナルシードは言う。「亡国グスターブの皇子にその資格がある。あるいはその資格があり得る。きみはそう考えているのかい?」
俺は頷く。彼は言葉の受け継ぎも、その引き渡しも完璧だ。
「そういうことだ。だからあいつらには悪いけど、この機会を利用させてもらう。四日後に東の国『タマハガネ』まで来い……そうザイルに文烏を飛ばしておくよ」
*
飛空艇のベッドにもだいぶ慣れ親しんできた。俺は夕食と風呂を済ませ、すぐに一人っきりの自室に戻ってふかふかな布団に身をくるんだ。緊張した日々が続いていた。そして、これからも体を締め付けるようなプレッシャーや危険と隣り合わせの毎日だろう。脳と肉体が休むことを求めていた。俺はその誘発的な眠りに素直に身をゆだねる。
ドアの開く音で目を覚ましたのは深夜だった。いや、確実に深夜だと言い切ることはできないが、かなりの確率で深い夜であるはずだった。物音ひとつしないなかでガチャッとドアが開き、人影がなかに入ってきた。足音もなく、それは幽霊のようにすーっと俺のベッドの脇まで移動してくる。言うまでもく、少なからずの恐怖を俺は覚えていた。
それは真上から俺の顔を見下ろしてきた。びびって叫び声を上げようとした瞬間、「眠れないわ」と声は言った。真顔のアリスが、心地よい睡眠をとっていた俺を恨めしそうに見つめていた。
「マッ……お前かよ! 毎回びっくりさせんなよバカ!」
「マッ?」
アリスは何を言うでもなく、向かいのソファーまで歩いて座り、持参した赤いリュックをテーブルの上に乗せた。そしていくつもの魔法人形を取り出し、ひとつずつ並べていった。
「いや何してんだよ……」と俺は体を起こして訊ねた。
「眠れないから、ここでアリス戦隊のチェックよ」とアリスは事もなげに言った。
「そりゃあんだけ寝れば眠れないだろ……。ってか、なんで俺の部屋でやってんだよ……」
「私の部屋だと、チルフィーを起こしちゃったらかわいそうじゃない」
俺ならかわいそうじゃないらしい。俺はまた枕に後頭部を落とし、横を向いて、熱心に作業しているアリスを眺めた。
「アリス戦隊のチェック? チェックってなんだ?」
「このあいだ月の迷宮に行って、この子たちに頑張ってもらったでしょ? あれからずっとリザルトの確認をしていなかったのよ。経験値がたまってレベルが上がっているはずだわ」
「ああ、そういや魔法人形って育成要素があったんだったな……。どうだ? けっこう死ビトとか食人花を倒したし、かなりレベルアップしてるんじゃないか?」
アリスは神妙な面持ちでライオンやゴリラの腹やら背中を弄りまわし、それから眉をハの字に曲げてリュックに戻した。そしてぼそっと嘆くように呟いた。
「レベルが下がったわ……」
「いや下がるとかあるのかよ!」
「NGモンスターを倒しちゃったみたい……」
「なんだよNGモンスターって! てか、今どうやって魔法人形のリザルト確認したんだよ!」
テーブルには精巧なフィギュアだけが残された。長い銀髪の美しい幼女――アリューシャちゃん人形だ。
「あれ、お前それまで持ち歩いてるのか?」
「あたり前でしょ? ひとりだけ残してきたらかわいそうじゃない」
「ま、またいきなり動きだしたりしないだろうな……」
しばらく見守っていたが、急に可動したり口をきいたりはなかった。アリスは両手で包み込むようにそれを手に取り、丁寧にリュックにしまった。
なんだか目が覚めてしまった。俺はベッドから起き、明かりをつけてアリスの隣に座った。シャンプーのいい香りがする。俺も同じものを使っているのに、不思議と自分から匂ってくることはなかった。
仕方ないのでアリスに付き合ってやろうと思い、俺は台所でコーヒーを淹れてこようと席を立った。飲み物ならあるわ、とアリスは言った。赤いリュックから小さな魔法ビンが取り出され、二つのカップに均等に注がれた。湯気が昇り、寒かった俺の部屋をハニーオレンジの甘い優しさが満たしていった。
俺はハニーオレンジをひと口飲み、アリスも飲んだ。上品にソーサーの上にカップを置くと、アリスは明かりを消してちょうだいと俺に言った。言われたとおりにスイッチを切ると、蒼い月明かりが窓から差し込んできた。ちょうど雲の切れ間から、三の月が顔を覗かせていた。
「思ったとおり、とても綺麗だわ。まるで深海にいるみたい」
「ああ、たしかに」と俺は言い、またソファーに腰を下ろした。たしかに青く染まった部屋は深い海の底にいるようだった。魚が泳いでいても不思議じゃないぐらいだ。
俺たちは目をつむり、肩と肩を寄せ合って、しばらく音のない海底で潮の流れに身を任せた。小さな魚の群れが海面からの太陽光を反射させながら、俺たちの目の前を横切っていった。白いさらさらとした砂が洗われ、姿をあばかれた星形の貝が慌ててさらに奥深くへと潜っていった。
目を開けると、アリスも目を開いていた。そして俺のことをじっと見ていた。
「私は檻のなかの人たちのことを、絶対に諦めないわ」とアリスは言った。「今の彼らだけじゃない、十年後や二十年後のみんなも見捨てたりしないわ」
長い時間をかけて、俺はゆっくりと頷いた。アリスから学ぶことは意外と多い。こいつが文字通り自分を投げ打ってでも彼らを救おうとしたことは、とてもじゃないが肯定してやることはできない。だけど、俺もその熱意や真剣さを少しぐらいは分けてもらってもいいかもしれない。
あの奴隷の少年のために、俺に何ができるだろう?
別れの時が近づいていた。潮流が俺の手の届く場所からトゥモンを引き剥がそうとしている。そろそろ決断しなければならない、と俺は思う。彼のために俺がしてやれること。それは本当に、いったいなんなのだろう?
アリスは結局すぐに眠気に誘われ、そそくさと俺のベッドに入って数秒で寝息を立てた。俺はひとり、ソファーに座って窓の外を眺める。いつまでも蒼い三の月の光にあたっていると、だんだんと自分が冷酷な人間になっていくような気がした。あるいはその必要があるのかもしれない。誰かのために何かをするというのは、ときとして自分の手を汚す必然性が生じるのかもしれない。
俺は生唾を呑み込む。それでも、まだ覚悟を決められないでいる。
*
ガイサ・ラマンダに帰着したのは昼を過ぎたころだった。ここで一日飛空艇の整備と色々な補給を兼ねた休息を取ってから、俺たちはまた空の旅を続ける。次の目的地はもう決まっていた。しかし、あれこれ考えるよりも、まずはトゥモンに別れを言いに行きたかった。俺はお土産に、アリスからたくさんの種類が入ったアソート・チョコレートを一袋受け取った。
「あれ~ウキキ君~。どこかおでかけ~?」
飛空艇のデッキから降りようとすると、ノベンタさんが声をかけてきた。ちょっと顔見知りの男の子と会ってきます、と俺は言った。詳しく説明しなくても、ノベンタさんにはわかっているようだった。暇だし~わたしも一緒に行っていい~? と彼女は尋ねた。いいですよ、と俺は言った。断る理由はとくにない。
エレベーターが地上まで俺たちを運んでいくあいだ、ノベンタさんは俺にトゥモンとのことを色々と聞いてきた。蛙のような肥えた男の屋敷で働いていること、日常的に暴力を受けているであろうこと、金持ちの子供たちから石を投げられたこと、そして、小さなチョコレートをあげて、食べたら涙を流したことを話した。
「二つあげて、もう一つは病気の弟に食べさせてあげるって言ってました」と俺は言った。「こんなもので元気になるなら、いくらでも持ってってやりたいですよ」
ふ~ん、と言って、ノベンタさんはエレベータから先に降りた。優しいんだ~ウキキ君~、と振り返らずに彼女は言った。
俺はなんとなく、その後ろ姿を眺めた。こんなおしとやかで綺麗な女性が、かつてのナルシードを奴隷という身から救うために殺人を犯したのだ。奴隷は三人の親方がいなくなれば自由になれる。それをノベンタさんは実行に移したのだ。
ガイサ・ラマンダの街はとても暑かった。太陽がぎらぎらと照りつけ、俺の肌を容赦なく焼いていた。吸血鬼の住む城から帰ったあとだと、余計にその酷暑が身に染みた。俺は歩きながら薄手のシャツを脱ぎ、それを小脇に抱えてTシャツ一枚になった。
一筋の汗が目に沁み込んできた。ぼやけた視界はガガル凱旋門を映し出していた。二体のリア像が俺に向かって微笑みかけている。目をこすると、さらに不明瞭になった視野に遠くから走ってくる人の形を捉えた。
「ウキキ様!」と声は言った。トゥモンの声だった。歳の離れた友達と会うような、嬉々とした感情が俺の胸をいっぱいにした。こいつのために何かをしてやりたい。けどその前に、袋いっぱいのチョコレートをあげて喜ばせたい。
「ウキキ様!」とトゥモンは俺の前に立ち、肩で息をしながらもう一度声を上げた。なんだか逼迫しているような声だった。彼は俺に布に包まれたものを差し出すと、すぐに膝をついた。そしてあろうことか、土下座をしだした。
「なっ……どうしたんだよお前! なんでそんなことしてんだよ!」
彼は地面に額を擦りつけていた。だんだん視界が良好になってくると、俺の手にある布っ切れが赤く染まっていることに気づいた。明らかに血の色だった。顔を上げると、トゥモンは泣き腫らした目で俺のことを見つめた。きちんと揃えられた両手は、どちらも雑に包帯が巻かれていた。
「お願いですウキキ様! あのチョコレートをもう一つ頂けないでしょうか!? 前に貰ったものは親方様に取り上げられてしまって……どうしても弟に食べさせてあげたいんです!」
俺は恐るおそる布をめくり上げた。変色した小さな指が二本、俺の目に飛び込んできた。
『奴隷はお願い事をするとき、小指を差し出さなければなりません』と醜い親方は言った。『相手が三親方なら一本、他人様なら二本と決められております』
何が起こっているのか、俺はしばらく理解することができなかった。やがて頭が現実に追いついてくると、事実がありのままに描き出された。トゥモンは他人様である俺にお願い事をするために、その指を切り落としたのだ。まだまだ成長の過程にある、小さな小さな二本の小指を……。
俺はいつまでも声を出せずにいる。しかし、頭はどこまでも冷静に働いている。どうしてこんなことをするのだろう? なんでたかがチョコレートのためにこんなことができるのだろう? 太陽がずっと遠くで身勝手に燃え盛っている。それすら、今の俺には憎くて憎くてたまらない。
トゥモンのためにしてやれること? と俺は考える。そんなものは、本当はもうずっと前から決まっている。




