351 世界に禍事がもたらされる日
夜を一つ越えた先で、雷を伴う雨降りの朝が俺たちを待ち構えていた。ラウンジからでも飛空艇の甲板を激しく叩く音が聞こえ、ときおり雷鳴がその旋律を乱していた。
吸血鬼の城が見えてきたのは七時少し前だった。アリスが吸血鬼になってしまうタイム・リミットまではまだ九時間ほどある。時間の余裕を実際に肌で感じると、心の中心を搔き乱していたざわめきのようなものがすっと消えていくのを感じた。あとはあの城の主にアリスが借りた金を叩き返すだけだ。
城は崖の上で孤立したように聳立していた。遠景には険しい山々が連なっており、空と山稜のあいだで稲妻が龍のように駆け巡っていた。早朝だというのに、ラウンジの窓から眺望する風景は深い夜のように暗然としている。束の間の稲光が城郭の周りを飛ぶ蝙蝠を闇から引きずり出していた。
飛空艇が着陸し、手早く用意を済ませて下船する。金貨の詰まったトランクを俺が抱え、熟睡しているアリスをノベンタさんがおぶり、アナを先頭にして城門の前まで歩いていく。そのころにはもう雨は上がっていた。代わりに濃い霧が吸血鬼の住む城を不吉を示唆するように覆っていた。
開く気配のない門扉を前に、俺たちはそれぞれ顔を見合わせた。チルフィーが飛んで中の様子を見てこようとすると、機先を制するように一匹の蝙蝠がぱたぱたと飛んでやってきた。
蝙蝠はぞろぞろとやってきた俺たちのことをまず咎めた。マナーがなっていない、と。盟主様は大勢の来客を歓迎しません。謁見は四人までと決まっています。蝙蝠が人語を話すことに、今さら誰も驚かなかった。
俺は少し考えてから、レリアとサラマンダーとノベンタさんとキケロには飛空艇で待っててもらうことにした。もしもの場合に備え、アナとナルシードに同行を頼んだ。戦闘力を考慮したのだとレリアはすぐに気がつき、面白くなさそうにジト目で俺を睨んだが、すぐにいつもの澄ました表情に戻した。そして力を分け与えるみたいにアリスの背中に手を置き、また俺の顔をじっと見つめた。
「アリスはわたくしの親友ですわ」とレリアは言った。そしてしばらく視線を交錯させてから、ふっと表情をほころばせた。俺の顔つきを見て、それ以上言う必要がないと悟ったのだと思う。任せとけ、と俺はレリアの頭を撫でながら言った。
アナの背にアリスを移動させ、俺たちは吸血鬼の住む城に足を踏み入れた。長い廊下を多くの蝙蝠に見守られながら――あるいは見張られながら――歩き、アンティークな扉を開けて謁見の間に辿り着いた。
玉座にはオッド・アイの吸血鬼――名をハイデルベルクという――の姿があった。アリスから聞いていたとおりだ。瞳は象牙色で、左右の結膜がそれぞれ黒と白の対になっている。白い右目には数人の債務者の名が刻まれており、金を返せずに眷属になると名は左目に移動する。そして、永久にそこに囚われてしまう。左目が黒く見えるのは、幾千の名が蠢きひしめき合っているからなのだ。
ハイデルベルクは眠っているアリスを見ると、唇をいびつな形に曲げて笑った。
「SSSのお嬢さん、よくぞ参った……」とハイデルベルクは言った。
*
「おや、眠っているようだね……」
まるでたった今気がついたかのように、吸血鬼はアリスを見て鋭い牙を覗かせながらそう言った。『そうなんです』とも、『あなたは吸血鬼なのに、こんな朝早くから起きてるんですね』とも言う気にはならなかった。俺たちは世間話をしに来たわけではない。
俺はトランクをハイデルベルクの前に横にして置き、キケロから渡された備えの利子分を筒に入れたまま五本その上に並べた。
「アリスが借りた金を返しに来たんだ。必要なら、利子はその筒の中のを抜いてくれ」
「ふむ……残念だ」と吸血鬼はとても残念そうに言った。「SSSのお嬢さんは我が最高の眷属になっていただろうに……。とても残念だよ……」
何匹かの蝙蝠が天井から降り、金を裏手の幕の奥に運んでいった。蝙蝠がどのようにして金貨を数えるのか気になったが、それは薄闇のなかでひっそりと行われるようだった。
ハイデルベルクは同じように蝙蝠を使い、どこからか簡素なベッドを運ばせた。アリスをそこに寝かせとけということだろう。吸血鬼の城で、棺桶ではなくベッドを用意されるのは少なからず残念な気持ちを覚えた。あるいはアリスを自分たちの側に引き入れることを諦めたということなのかもしれない。
アナは丁寧にアリスを寝かせ、布団の代わりに黒い革のコートを脱いでアリスにかけた。帯剣するオウス・キーパーの鞘がベッドの木枠に触れ、消息が途絶えた船の最後のモールス信号のように一度だけ厚みのある音を立てた。
「奴隷を解放するために、まさかこのような場所で金を借りるとはな」とアナはアリスの寝顔を見つめながら言った。「病的な博愛主義者か、錯乱した篤志家か、判断が難しいところだ」
「ただの健全なバカだよ」と俺は言った。「後先考えず、自分が正しいと思ったことに突っ走るしか能がないんだ」
ふと後方に気配を感じた。慌てて振り向くと、一匹の蝙蝠がすぐ目の前で羽ばたいていた。これから俺たちの血を鑑定するつもりらしい。アリスもそれをされて、ハイデルベルクの興味を惹いてしまったのだ。
しかし、俺のコートのポケットからひゅっと飛び出したチルフィーがそれを阻んだ。どうせついてくるだろうと、あらかじめ入れておいたのだ。
「そうはいかないであります!」とチルフィーは両手を広げて敢然と言った。「あたしがみんなを護るのであります!」
「傷つけるつもりはありません。少し指先がチクッとするだけです」と蝙蝠(たしかナディアといったはずだ)は綺麗な声で穏やかに言った。「それに、あなたたちは盟主様の領域に入り込んだ時点で、血の鑑定を了承していることになります」
しかしチルフィーも引き下がらなかった。額と額をぶつける勢いでナディアと論争を続け、最後はナディアが埒が明かないという風に、はあっと吐息をついた。
「どうしましょう盟主様?」
ハイデルベルクは頬づえをついて、にやにやと二人を眺めていた。玉座の上で姿勢を変えて脚を組み、そして一呼吸置いてから口を開いた。
「どうしましょうも何も、ナディアが人の姿になれば容易に振り払えるだろう?」
「……あの姿にはなりたくありません」とナディアは一音一音に感情を込めるようにはっきりと言った。本当に、高原を流れる雪解け水のような澄んだ美声の持ち主だった。
脚を組みかえ、ハイデルベルクはいかにもつまらなそうな顔をして言った。
「ふむ……まあ良い。見たところ、我の魂を震わす血脈の者はいなそうだ……。放っておけ」
チルフィーのおかげで血を味見されずに済んだみたいだ。ドヤ顔で振り返ったチルフィーに、俺もアナもナルシードも頑張りを称える微笑みを返した。
それからしばらくすると、奥から蝙蝠がぱたぱたと一匹で戻ってきた。蝙蝠はハイデルベルクに耳打ちをして、そしてまた天井に吸い込まれるように昇っていった。
気になったのは、ハイデルベルクが報告を受けてからずっと黙っていることだ。瞑想するように目をつむり、ときおり口の端を密かにひくつかせていた。明らかに、笑いだすのを必死に堪えているようだった。
あの胸のざわめきが倍になって帰ってきた。心臓が何度も早鐘を打ち、どこかに飛んでいってしまうんじゃないかと思うほど大きく波打っていた。吸血鬼が醜い笑みをこぼすとき、そこには必ず災いが伴う。世界に禍事がもたらされる。
やがてハイデルベルクは目を開き、黒と白の双眸で俺のことをじっと見た。そしてにやっと笑った。
「足らぬな……全然足らぬ……。SSSのお嬢さんに融資した金は金貨三千。その日から憎き太陽が二度昇り、二度忌々しい神父が朝の務めで十字を切った。まるで足らぬよ。完済するには金貨が九千枚ほど足らぬ……」
最初から、ハイデルベルクはアリスを諦めるつもりなんてなかったのだ。




