349 血筋に重きを置く
今度はいくら揺さぶってもアリスは目を覚まさなかった。雪白の肌は温かみを失いつつあり、頬や額から熱を感じ取ることは難しくなっていた。アリスは吸血鬼になろうとしているのだ。
「ブラッド・バンク……アリスがザイルと行ったって話してた場所だよな!?」と俺は誰に言うともなく言った。
「ああ」とアナは答えた。「我々はそこまで行って吸血鬼に金を返す必要がある。でなければ、アリス殿は本当に吸血鬼になってしまうぞ」
アリスが血を担保に借りた金。それはつまり、アリスが今朝荷車ごと盗まれた金でもあった。吸血鬼に耳を揃えて返済するには、まずそれを見つけ出さなければならない。
「ウィンディーネは!? あいつ金を捜しに出ていったんだよな!? まだ戻ってないのか!?」
クラウディオさんが首を振る。「まだ帰ってません。それに、捜索を買って出てくれたというキケロ氏からも連絡はありません」
二人だけに任せておくわけにはいかない。俺はアナたちには残ってもらい、いま入ってきたばかりの部屋を飛び出た。手分けして捜そうという声も上がったが、上陸許可が下りているのは未だに俺とアリスだけだ。こんな状況で余計なトラブルを生みだしたくないし、なによりみんなにはアリスのそばにいてほしい。
しかし、いったいどこを捜せばいいのだろう。俺はエア・ポートを駆けてエレベーターに飛び乗り、あの大量の金貨が詰まっていた革製のトランクを頭に思い浮かべた。値の張りそうなアンティークものだ。だが、たとえ特徴的なトランクとはいえ、闇雲に捜して見つかるとは思えない。何はともあれ、先に捜索を開始しているウィンディーネかキケロと情報を共有したい。
「まずはどうするでありますか?」
真っ向から西日にさらされたエレベータのなかで、チルフィーは俺の頭の上に着地した。滑車が音を立て、内側に通す頑丈な縄をゆっくりと滑らせていく。
「おっ……お前ついてきたのかよ!」
「あたしもお供するであります! 飛べるので役に立つはずであります!」
まあチルフィーなら小さいので見つかりにくいだろう。というかウィンディーネもそうだが、人が精霊に上陸許可うんぬんというのがそもそも驕った話なのだ。
チルフィーと地上に降りるまでのあいだに大方の作戦を立てたが、しかしエレベーターから降りてすぐにそれも無駄になった。目の前にはキケロがいて、彼は俺に気づくと一瞬身体をびくつかせ、それから思いもよらない行動に出た。
「ウキキ殿、ワタシは大変に申し訳ないことをしてしまった。アリス殿の金はワタシが指示を出して、そして奪わせたのです……」
彼は突然膝をつき、土下座をして地面に額を擦りつけた。
*
キケロは頭を上げ、そして俺の目を真っ直ぐ見ながら経緯を話した。エレベーターを操作する奴隷の男が大変な現場を目撃するような顔で彼のことを見ていたが、キケロは少しも気にならないようだった。
話は極めて単純だった。今朝、トランクを荷車に載せてせっせと引いていくアリスに同行していると、彼は面識のある男二人とすれ違った。アリスを先に行かせてから男らを呼び止め、彼はアリスの小さな後ろ姿を眺めながら、上手く隙を作ってトランクを強奪するよう指示した。
「……アリスが荷車から離れたのは偶然じゃなかったってわけか」と俺は言った。アリスは男に突き飛ばされた老婦人に手を貸して、そのとき荷車ごとトランクを盗まれたのだ。
「もちろん、金には手をつけさせずにお返しするつもりでした……。だが、彼奴ら事もあろうにそんなトランクは知らないとワタシに言い放ったのです……」
どうしてそんなことを? と、たぶん俺は訊くべきなのだろう。彼は腕に怪我を負ってまでそんな自作自演じみた行為をアリスの前でやりきったし、それにこうして馬鹿正直に罪を告白しているのだ。それなりの理由があるのだとは思う。しかし、そんな質問をする気にはなれなかった。今は彼の動機よりも、トランクを持ち去った男らの居場所が知りたい。
「なあキケロ、土下座なんて意味のないことはやめて教えてくれ。そいつらは今どこにいるんだ?」
「まっ……まさかウキキ殿は取り返しに行くおつもりか!?」
あたり前だろ、と俺は言った。あれはアリスがこの地の奴隷を解放するために、自分を犠牲にしてまで吸血鬼から借りた金なのだ。無粋な輩がくだらないことのために使っていい金ではない。
キケロは立ち上がり、演説をするように両手を広げて迫ってきた。さすがに若い元老院議員だけあって、かなり勢いと迫力がある。
「それは危険すぎる、やめたほうがいい! ウキキ殿が危ない目に遭わずとも、元老院兵を倍増してワタシが奪取してみせる! こうなったら戦争だ、命を懸けてでもこのワタシが!」
「何者なんだよ、その兵士を倍増しなきゃ奪い返せない男らってのは……。戦争なんていいから、早くどこにいるのか教えてくれ」
彼はリンゴを握り潰すように拳を固め、言葉に熱を込めて言った。
「ゴベア商会……! 彼奴らはそこの構成員だったのです!」
俺は両手を腰にあて、何度か首を横に振った。数時間前にゴベア商会で起こった出来事が頭のなかに甦る。
「やれやれ……。あの爺さん、なかなかやってくれるな……」と俺は呟いた。
*
元老院兵の招集を待っている暇なんてもちろんなかった。俺はすぐにゴベア商会に向けて歩を進めたが、意外なことにキケロも覚悟を決めたような顔つきになって同行を申し出た。彼は携行する剣の柄をぐっと握りしめた。
「ワタシとて、剣の心得ぐらいは持ち合わせています。ウキキ殿と風の精霊殿の足を引っ張るようなことはないでしょう」
寄り道をしなかったぶん、トゥモンと出向いたときよりもだいぶ短い時間でゴベア商会に辿り着くことができた。
「静かですね……」とキケロは敷地を取り囲む高い黒壁を見ながら言った。
たしかに辺りはしんとしており、たむろするチンピラたちも消えていた。鉄扉が人ひとり通れるぐらい開いている。近づくと、複数の男の呻くような声が中から漏れ出てきた。
訝るキケロを先頭にして入ると、石畳の上に倒れ込む彼らの姿があった。目に見える範囲でざっと二十人、適当にあしらわれたみたいに手だけを負傷し、武器を傍らに落としていた。
キケロは辺りを見まわしながら口を開いた。「先客があった……ということでしょうか?」
「たぶんな……」と俺は言った。そして両側に建ち並ぶ長屋のずっと奥にある建物を見据えた。「何があったかわからないけど、とにかく進もう。あそこにトランクがあるはずだ」
そこに辿り着くまでにも、うずくまる男たちを何人も目にした。彼らは一様に四肢を損傷し、戦う能力を削ぎ落とされていた。こんな惨状をゴベア商会にもたらしたのが何者かはわからないが、命を奪うつもりは毛頭なかったみたいだ。そして、彼らとの実力差が天と地ほどあったのも、誰の目から見ても明らかだった。
建物の前まで着くと、チルフィーはひらひらと飛んで俺の頭の上に立った。「もしかして、ウィンディーネがトランクのありかを見つけて突撃したのでありますかね?」
「かもな」と俺は言った。「もしくは――」
閉ざされた扉が内側からゆっくりと開いた。そして、俺の想像した人物が俺の想像以上に爽やかな顔をして出てきた。
「やあウキキ君、それにチルフィーちゃんまで。また、おかしなところで会うものだね」とナルシードは左手に軽く握る魔剣を黒いもやもやに戻しながら言った。
*
革製の古いトランクは、屋敷の狭い地下にあった。すぐに開けて中身を確認すると、ちゃんと金貨がぎゅうぎゅうに詰まっていた。減ってはいないように見える。俺は金貨の山の上に降り立って恍惚とした表情を浮かべるチルフィーをどかし、蓋を閉めてロックをした。そして両手で抱えて階段を上っていった。
「お目当てのものはあったかい?」
「ああ。お前のおかげで、このとおり危険を冒すことなく取り返せたよ」
ナルシードの問いに背中で答え、俺は大蝦蟇を部屋の隅に使役してトランクを呑み込ませた。そして振り返り、あらためて周りを見まわした。
「だけどお前、またずいぶんと派手にやったな……」
部屋のなかは荒れに荒れていた。まるでランボーが暴れたあとみたいだった。小兵の男や熊のように大きな男まで、実に様々な体躯の男が五名ほど泡を吹いて倒れている。なかにはロバのような耳と尻尾を生やすビースト・クォーターもいた。
「正当な取引を持ちかけに来たにもかかわらず、手荒な歓迎を受けてしまったからね。僕としても致し方なかったのさ」
「取引? なんの取引だったんだ」
ナルシードは紫色の小瓶を胸のポケットから取り出し、軽く振ってなかの液体を揺らせた。
「ノベンタさんの解呪に必要な物だよ。ゴベア商会は裏社会の中枢だけあって、市場に出回らない貴重品が眠っていたりするんだ。……おっと、勘違いしないでおくれよ? 代金はきちんと支払ったよ、バルコニーで眠ってもらった頭領の手に握らせてある」
「な、なるほど」と俺は言った。あの見晴らしの良さそうなバルコニーで金を手に眠っているのなら、あの古老の男もさぞかしいい夢を見ていることだろう。
「あれ、そういえば『デストロイヤー』って強い奴がいたらしいけど、お前大丈夫だったのか? なんでも、コロシアムで無敗の王者だったらしいぞ?」
「へえ、それじゃあ僕の後輩にあたるってわけだ」とナルシードは言った。「けれど、どれがその『デストロイヤー』だったのかな? そんな強者がいたようには思えないなぁ……」
ヒントを得ようとするみたいに、彼は転がる五名の男たちを順番に見ていった。しかしやがて諦めたように首を振り、表情を真剣なものに戻した。
「それよりも、アリスちゃんはやっかいなことになってしまったね。ブラッド・バンク……訪れたことはないけれど、話は聞いたことがある。血統に応じて貸し出す金の多寡を決める吸血鬼――ハイデルベルクという男が住む城だよね?」
ああ、と俺は言った。
「僕とノベンタさんにもできることがあると思う。ホテルで待機している彼女を連れて、すぐにきみたちの飛空挺に向かうよ。アリスちゃんを冷たい吸血鬼なんかにしたくないからね」
俺はありがとうと言い、ナルシードと並んで屋敷を出る。太陽はまだ、西の空の奥深いところから強い陽を地上に落としている。俺の手が届く場所で、まだ太陽は太陽のままでいてくれている。
「それはそうと――」とナルシードは言う。チルフィーはいつの間にか彼の頭の上に座り、キケロは黙って俺たちのあとをついてきている。
「そんな血筋に重きを置く吸血鬼が、アリスちゃんにトランクいっぱいの金貨を融資する。……どうやら、アリスちゃんはただの転移者というわけではなさそうだ」
俺は何も言わない。ただ手を伸ばし、赤く燃える恒星にかざしてみる。輪郭が赤く染まり、流れる血潮が自分と遠い祖先との繋がりを暗示する。
「きみはその理由を知っている」とナルシードは言う。
俺は口をきかずに頷く。
「けれど、きみはここで言うつもりはない」
俺は少し考えてから、首を横に振る。
「べつに隠してるわけじゃねえよ。ただ、アリスに関しては複雑っていうか、ちょっと簡単に説明できそうにないんだ。それに……上手く言えないけど、語られるべき時がちゃんとあるように思える」
そして――その時はもうすぐそこまで迫っている気がする。ブラッド・バンク――吸血鬼の住む城で、きっとアリスは自分と家族についてもっと深く知ることになる。自分がアリシア・イザベイルの孫だということを。そして、生まれることのなかった妹は、炎に焼かれる寸前で母のお腹のなかからどこかに転移されたことを。
そんな予感をひしひしと感じる。




