348 少年の描いた夢
男はその豪快な見た目とは裏腹に、トリッキーな攻撃を得意としているようだった。俺の腹を薙ぐ一閃でも、一度として同じ軌跡が描かれることはなかった。振り抜くときに湾曲する刀身をわずかに逸らせるなどして、その変幻自在を実現しているのだと思われる。あるいは曲刀というのは、そういった業に適した武器なのかもしれない。
剥きだしの太陽が、俺たちの影を石畳の上に伸ばしている。くっきりとした濃い影だった。そして、命のやりとりを余すことなく反映する忠実な影だった。
男はじりじりと距離を詰め、それから大胆に一歩を踏み込んだ。また青い軌道が半円を描き、胴を刎ねるように俺の腰の辺りを通過していく。コンマ何秒か遅れて、現実の刃の軌跡が青い半円を塗りつぶす。
後ろに大きく跳ねてそれを避け、俺は男に言う。
「それ……その曲刀ってなんていうんだったか教えてくれないか? 実はあんたを屋敷で見てからずっと気になってたんだ」
男は構えを解かずに口を開く。この酷暑と運動量のわりにはほとんど汗をかいていない。
「我が得物は、シャムシールという」
「ああ、そうだったな。すっきりしたよ、ありがとう」
男の重心がわずかに右に傾く。影もきちんとそれに倣っている。
「オマエ、ずいぶんと、余裕みたいだな。もう、勝った気で、いるのか」
「いや、全然余裕なんかじゃないよ。あんたのシャムシールを全部かわして汗だくだくだ」
男は表情を崩さない。光の燈らない一対の目で、色のない視線を投げかけているだけだ。まるで機械生命体か何かと喋っているみたいだ。その表情のなさは、月の女神リアの無表情とは明らかに質が違う。
「『デザート・スコーピオン』だったか?」と俺は訊ねる。「あんたは子供のころからそこで訓練させられて、それでその強さを手に入れたんだよな? なのに、なんであんな男にこんな汚い仕事をやらされてるんだ?」
「オマエの言っていること、よくわからない」と男は言った。「我は、オヤカタサマに、買われた。オヤカタサマの命令に忠実で、何がおかしい」
何もかもがおかしいよ、と俺は思う。しかし言葉にはしない。そんなことを言っても、この南方の地は少しも変わりはしない。誰かがそれに気づき、高々と旗幟を打ち立てる必要があると思う。俺とアリスが暮らしていた世界だって、偉大な先人たちがそうやって少しずつ奴隷制を終わらせたのだ。
「じゃあ、最後に訊いてもいいか?」と俺は言う。「デザート・スコーピオンにはあんたより強い奴はいるのか?」
「いない」と男は抑揚を欠いた声で言う。「二人いたが、もう、死ビトになっている」
俺は男の足元を狙い、この男に対して初めて幻獣を使役する。
「出でよ影鰐!」
ズズズズズッ……!
男の鮮明な影に鮫のような幻獣が潜り込む。影が悲鳴を上げるように激しく点滅を繰り返し、やがて跡形もなく消え失せる。影鰐がすべてを喰らってしまったのだ。
男はサイド・スローのような姿勢のまま固まっていた。あの一瞬で、シャムシールを投擲しようとしたみたいだ。おそらく看過できない気配のようなものを感じ取ったのだろう。それは大きなごつい手から離れる寸前だった。
「目は見えてるし、耳は聞こえてるだろ? でも身動きひとつ取れなくて口もきけないはずだ」と俺は影のない男に言った。「だけど安心してくれ。俺がブルーニを手にここから遠く離れたころには、影鰐は俺のなかに還ってきて、影もちゃんと返還されてると思う。まあ……だいたい十分ってところかな」
男の簡素な衣服のなかをまさぐってみたが、ブルーニは持っていないようだった。俺はため息をつき、首を何度か横に振る。まだこのチンピラだらけのゴベア商会の敷地を出ていくわけにはいかなそうだ。
もう一度ため息を全身で吐き出すと、トゥモンが大きな声で俺の名を呼んだ。後ろから狙われているのを警告しくれているのだろう。青い軌道が俺の右肩から左脇腹にかけて斜めに引かれていくのが視える。剣を初めて振る素人なのか、いやにゆっくりとした軌道だ。ちょっと頑張れば午後のティー・タイムを楽しむ時間ぐらいあるかもしれない。先ほどまでの、視えていても小さなミス一つで命を持っていかれかねない戦いのあとだと、とくにそう思えた。
「加えて出でよ――鬼熊!」
ガルウウウウッ!
振り向きざまに目いっぱい手加減した鬼熊のフックをお見舞いする。吹っ飛んでいったのは背中に刺青のある若い男だった。それから何人かが目に殺意の色を浮かべて一斉に襲い掛かってきたが、鎌鼬・十六夜で剣やら斧やらを切断すると、示し合わせていたかのようにすっぱりと降参してくれた。力の差が歴然だとわかると大人しくなるのが、こういう連中の唯一褒められるべき点だろう。
俺は一番話がわかりそうな坊主頭に訊ねる。「俺は鑑定でここにまわされた首飾りを受け取りに来たんだ。どこにあるのか知らないか?」
坊主頭は黙って敷地の奥を指差す。バルコニーのある三階建ての建物だ。しかし、そこまで歩いていく必要はなかった。白髭を生やした貫禄のある老人がその建物の扉から出て、ブルーニを手に俺のところまでやって来たからだ。ただならぬ気配を彼から感じ取ることはそう難しくない。おそらくここのボスだろう。
「お前さんの望むものはこの首飾りだろう?」と言って、古老の男はブルーニを投げ渡した。「それを持ってとっとと帰るがいい」
「いやに聞き分けがいいな」と俺は言った。「あんたはこれを鑑定に出した男とグルになって、俺のロイヤル・ライセンスを奪おうと躍起になってるって考えてたけど、違うのか?」
男は仁侠映画に登場する抗争に辟易した組長のように首を振った。長い白髭がその分だけ相応に揺れ動く。
「そのとおりだったが、ウチの若いのをこれ以上壊されたらたまらんて。分け前なんぞ、どうせ雀の涙程度のもんでな。……だから早く帰ってくんな。それとも謝罪しろとでも言うのか?」
「いや、謝罪はいらないよ」と俺は重みを量るようにブルーニを手のひらに乗せながら言った。「俺だって、最初からロイヤル・ライセンスと交換するつもりなんてなかったからな」
古老の男はにやりと笑った。「ならお互い様だったってわけだ。戦いに勝ったほうが総取りのルールで、お前さんがそこで突っ立っている独活の大木に勝利した。それで文句はねえだろう?」
もちろん文句はない。しかし、男の態度がなんとなく気になる。何か見られたくないものがあって、それから俺をできるだけ遠ざけたく思っているように感じられる。気のせいだろうか? あまりにもあっけなかったので、俺がわざわざうがった見方をしているだけだろうか?
しかし、ここは素直に引き下がることにした。ちんたらしていたらシャムシールの男が影を取り戻してしまう。あんな手練れに同じ方法は二度通じないだろう。彼と最後までやり合ってしまったら、おそらく俺も無傷ではいられない。
トゥモンとともに出て行こうとすると、ボスの男は「待て」と鋭い声で呼び止めた。
「振り返らずともよい。だがこれだけは告げておこう」と老人は言った。「若い衆を退けただけで、ウチに間違った評価を下さぬことだ。ゴベア商会には実力者が数多くおる。とくにコロシアムが成り立たなくなるほどあまたの罪人闘士を殺し、そのため恩赦という形で放逐された『デストロイヤー』などは、南方の地に敵なしとの呼び声も高い。若造よ、このガイサ・ラマンダの裏社会を牛耳る我々を甘く見ないほうが身のためだ」
甘く見ているつもりなんてない。ただあまり興味がないだけだ。
俺は注文どおり、背を向けたまま老人に言う。
「そのデストロイヤーってのは、奥の建物からこっちを見てる奴だろ? 目にしてないけどいるのがわかるよ。俺の内奥に棲む幻獣たちがちょっとざわざわしてるんだ。そうだな……そこの独活の大木がざわざわレベル6だとしたら、あんたのお抱え選手は2ってところかな」
古老の男は何も言わない。長く生きているだけあって、言葉を形にすべきところをきちんと選んでいる。きっと老獪な男なのだろう。この自由都市の裏を支配するのなら、たぶん力だけでは足りないはずだ。
俺はデザート・スコーピオンの男に横目を向ける。シャムシールの影だけが、大海原で孤立した船のように石畳の上を漂っている。
「あんたとは、いつかもう一度ちゃんと戦ってみたいな。命の奪い合いなんかじゃなく、術式紙風船をつけてさ」
扉の前まで歩いていく。誰も開けてはくれないみたいだ。俺はトゥモンと一緒に重たい鉄扉を外側に押し込み、あいだを抜けてゴベア商会をあとにする。
*
帰り道。川沿いの道をトゥモンと並んで歩き、階段を一緒に上る。賑やかな街中を進んでいき、氷砂糖を売る屋台の前を通り過ぎる。
トゥモンは大通りのカーブに差し掛かると、俺に訊ね事をする。あの戦いのとき、なぜすぐに影を奪わなかったのか? という趣旨の質問だった。
「ちょっとデザート・スコーピオンの出身者がどれくらい強いのか見ておきたかったんだ」と俺は言った。「これからどっかでかち合ったとき、対処しやすいようにな」
奴隷の少年は返答に対して丁寧な礼を口にし、また前を向く。砂と埃にまみれた銀色の髪が陽の光に照らされ、部分的にではあるが美しく輝いている。
ガガル凱旋門の前まで辿り着くと、俺たちはどちらからともなく足を止め、お互いの顔を見る。少年の乾燥した頬は日焼けを何度も繰り返し、海岸に打ち捨てられた船舶の塗装のように皮膚がめくれている。衣類を纏わない上半身には細かい傷痕がいくつもあり、ミミズのように腫れて残っている。
「なあトゥモン」と俺は言う。「ブルーニを俺が取り返したことで、お前があの蛙男に八つ当たりされることはないか? また棒きれで叩かれたりしないか?」
少年はにこやかに微笑む。少年はこんな笑い方だってできる。
「お気遣いありがとうございます。ですが、それはウキキ様が心配するようなことではありません。僕は大丈夫です、どうか安心してください」
背を向けて立ち去る。一歩、二歩と離れていく。彼は帰りたくもない三親方のところへ戻ろうとしている。そこには小さな体を痛めつける暴力があり、心を深く傷つける蔑視がある。体の成長を促さない粗末な食事と、心の休まらない固い寝床が待っている。
「なあトゥモン!」と俺はもう一度彼の名前を呼ぶ。「お前のために、何か俺にできることはないか!?」
奴隷は三親方がいなくなれば自由を手にすることができる。かつてこの都市で呪術師の女性は決意し、奴隷の少年のために彼の三親方を殺害した。
ガガル凱旋門の二体のリア像が優しい笑みを浮かべて俺たちを見守っている。後ろを振り返るトゥモンの表情には、どこかリア像に似た微笑みがまだ宿っている。
「ウキキ様はもう、僕に素晴らしいものを二つも与えてくれました」
くすんだ鼠色のズボンのポッケから、小さなチョコレートが取り出される。トゥモンはそれをそっと握りしめ、静かに目を閉じる。甘い幸せが少年を包み込んでいる。
「早く弟にも食べさせてあげたいです。そしたら、きっと走り回れるぐらい元気になると思うんです。……あと、もし叶うのなら、少しずつお金を貯めて弟だけでも解放させてやりたいです。僕は今日、ウキキ様の優しさと強さに触れて、そんな夢を見るようになりました。とろけるように甘いチョコレートと、初めて描く僕の夢。これ以上、僕はなにを望めばいいのでしょうか?」
トゥモンはもう一度丁寧に頭を下げると、少し急ぎ足で通りを西に歩いていく。心なしか足取りが軽く、胸はうきうきと弾んでいるように見える。
*
飛空挺に戻り、俺はブルーニをよく観察しながら甲板を歩いた。銀の型に嵌め込められた赤い宝石がいくつかの数珠に挟まれ、金の鎖で吊るされている。クレオパトラがまばゆい金の装身具とともに身に着けていそうな首飾りだ。
階段を下りてラウンジのドアを開けたが、そこには誰もいなかった。話し声がどこからか聞こえる。一番最初に向かったアリスとチルフィーの部屋に、ウィンディーネを除く全員が集まっていた。
「ウキキ! アリスが大変なのであります!」
みんながベッドに眠るアリスを取り囲んでいた。チルフィーは戸口に立つ俺のまわりを飛びまわり、それから岩山に繋げた縄を手繰るように一生懸命俺のことを引っ張っていった。
アリスはすごく綺麗な顔をして眠っていた。肌は雪のように白く、唇は雪上の野イチゴのように赤かった。ちょっと不自然なくらい美しく見える。人の枠組みを越えてしまっているように思える。まるで穢れを知らない天使か、それでなければその妖艶な美しさで人を森の奥にいざなう邪悪な妖精のようだった。
「急に倒れてから、もうずっと目を覚まさんのだ」とアナは俺の隣で言った。「激しく揺り動かしても、耳元で大声を出しても、アリス殿は微弱な反応すら見せない」
上手く状況を呑み込むことができなかった。アリスの身体に何かが起こっている――漠然とした予感が濃い霧の向こうに蠢いているだけだった。
「おい……おいアリス!」、俺は華奢な両肩を強く掴み、かなり激しく揺さぶった。「何があったんだよお前! 起きろよ、どうしたんだよ!?」
すると、アリスはすぐにかっと目を見開いた。なんかすごく簡単に起こせてしまった。高まった感情の逃し先を見つけられずにいると、アリスは急に上半身を勢いよく起こした。
「あなたニンニク臭いわ! いったい何を食べたのよ!」
「えっ……ああ、昨日の夜ナルシードのところでニンニクパスタを……」
「ちゃんと歯を磨いたの!? あなた、たまに磨かずにベッド――」
終わりまで言わずに、またアリスは頭を枕に落として眠ってしまった。今度はグーグーといびきまでかいていた。
俺はアナの顔を見た。「な、なんなんだ? いきなり目覚めて俺をディスったと思ったら、また寝やがったぞ?」
アナは深刻そうな顔でアリスのことを見つめていた。長いあいだ顎に指をあてて考え込み、やがてその指をアリスの首元に持っていった。
「ウキキ殿、これを見てくれ。実は先ほど発見したんだ」、アナはそこに貼られた絆創膏を剥がし、その奥にある鋭いものに刺されたような小さな二つの痕跡を俺の目に映じさせた。
レリアがアナの思考を引き継ぐ。「アリスが持っていた大量の金貨。あれは、ブラッド・バンク――吸血鬼の住む城から持ち帰ったのではないかしら?」
点と点が結びつく。激しく感情がほとばしり、炎が噴き上がるように身体が熱を帯びていく。
「つまり――アリスは自分の血を担保にあのお金を借りたのではなくて? 状況的に、そうとしか思えませんわ」
アリスは吸血鬼になりつつあるのだ。




