35 ショッピングモールの空に
「私の名前の漢字? 私の名前は元々カタカナよ?」
俺は和室で食パンにバターを塗りながら、アリスに名前の件を聞いてみた。
「そうなのか、まあアリスって名前なら不思議じゃないよな。俺なんか自分の名前の漢字忘れちまったよ、ははは」
軽い笑い話のように俺が言うと、口元にパンカスを付けたアリスが驚愕の表情に変わった。
「あなたそれ、えらいこっちゃじゃないの! はははじゃないわよ! なんでそんなに呑気なのよ!」
「いや……そういうものなんじゃない? っていつもみたいに軽く言うクダリがやりたいんだ俺は」
「そういうもので済ませられる事じゃないわよ! 名前を忘れるって、名前を忘れるって!! はあああ!? えらいこっちゃだわ!」
「……」
やばい、アリスに重大な事のように言われて泣きそうになってきた。
父ちゃん母ちゃんついでに姉貴、すまねえ。俺は付けて貰った自分の名前の漢字すら忘れるような不出来な息子であり弟だ。
「えらいこっちゃよ! えらいこっちゃだわ!!」
「……お前ワザと俺を追い込もうとしてるだろ」
臭いフェチが俺にバレたから、それよりも重大な事柄を敢えて作ろうとしてやがるな。
危ない危ない引っかかるところだった。
と見破りながらパンを一口。
焼かなくても意外と食パンは美味しいという事に気が付いたのが先か後か、アリスが再び口を開いた。
「まあ……チョロイあなたを煽っても仕方がないから言うけれど、そういうものなんじゃない?」
「そういうものだよな! ああ安心した!」
11歳の子供に言われる事で泣きそうになったり安心したりで我ながら情けなかったが、それ程にアリスという存在が俺の中の多くを占めているのかもしれない。
そんなこんなんで異世界生活4日目の朝食を終え、俺達は使った皿やスプーンなどをプラスチックの容器に纏めて入れて2Fのトイレまで持って行った。
水道が使えるのはこの男女のトイレだけなので不便ではあるが、元の世界と同じように水が使えるだけありがたい。
「じゃあ洗っておくから、あなたは入って来ないでちょうだい。入っていいのはシャワーの時だけよ」
アリスはそう言い残し、女子トイレの中に1人で容器を持って入って行った。
「いや、洗っといてくれるなら文句ねーけど……」
特権階級だ高貴だ言う割には本当に下仕事をやってくれるな……。
こいつ意外といい嫁さんになるんじゃないか?
アリスが花嫁か……もしずっとこの異世界にいる事になるなら、俺は花嫁の兄貴役かな……。
……うわ、絶対俺泣くわ……。
と11歳の小学生の花嫁姿を想像しながら、俺は不覚にも少しだけうるっと来てしまった。
「まあ先の話すぎるか……」
俺はそのまま2Fの生活用品の陳列棚を見て回った。
「お、あったあった延長コード」
近くにあったカゴにあるだけの延長コードを入れ、それをレジカウンターにある電源プラグに挿した。そして延長コードを伸ばして更に延長コードを挿すという作業を行った。
「なにをしているの? 洗い物終わったわよ」
「ああサンキュー。いや、延長コード無双で和室まで繋げて快適空間にしようと思ってな」
「和室で電気が使えるようになるって事?」
俺は大きく頷いてから作業を繰り返し、アリスに見守られながら止まっているエスカレーターの下まで到達した。
「ダメだ、延長コードが足りねえ……」
「このままビイングホームでゲットしてくる? それなら私のリュック持って来るけれど」
「ああ、そうしよう。ついでに包帯も大量にゲットしてもっと噴水の水包帯を作ろう」
「噴水の水包帯……意味は分かるけれど、言いずらいわね……」
ネーミングでアリスは引っ掛かったようで、ゲットした物を入れる為のリュックを和室に取りに戻りながらウーンと唸っていた。
すると抜群のネーミングを思い付いたようで、自信満々に言い放った。
「アリス水の包帯しかないわね!」
「考えた結果がそれか……。なんにでも自分の名前を付けたがるのはいいけど、それだけは止めとけ」
俺はその案を即座に却下し、ビイングホームへ着く頃には噴水の水の包帯、或いは包帯と言えば意味が通じるからいいだろう。という、なんの面白味もない結論に落ち着いた。
「あったわよ延長コード!」
「お、コードが長いのもあるな、さすがビイングホームだ」
俺達はそのまま包帯も多めにゲットし、ジャオンへと戻った。
*
延長コード無双は大成功と言えた。
その大成功の証は再び冷蔵庫で冷やされたプリンだった。
だが、その立役者とも言える苦労してバックヤードへと運んだ冷蔵庫は、和室の中に置くと狭い部屋が余計狭くなるというアリスの苦情により、和室のすぐ外に設置する事となった。
和室には他にもテレビを置いてツゲヤのDVD鑑賞を行うという俺とアリス共通の野望もあったので、テレビもそのうち持ってくるとしよう。
延長コード無双の利便性はそれだけに留まらなかった。
ジャオン2Fから何個も繋がれた延長コードの挿し込み口には、適当な間隔で設置した剥き出しの照明器具のコンセントが挿さっており点灯していた。
外からの日差しだけが頼りのジャオン1Fやバックヤードだったが、これで夜になっても明るく照らされるので安心だ。
「じゃあ包帯浸すわよ?」
「ああ、頼む」
俺達は延長コード無双の後は噴水の水の包帯無双へと移行した。
これからは外に行く機会も増えそうなので、巻いておくだけでケガが治る包帯はいくらあっても困らないだろう。
「何分くらいし水に浸しとけばいいの?」
「だいたい10分ってとこだな」
俺は噴水の淵に座りながら、アリスの噴水の水の包帯の製作工程を見守っていた。
……やっぱ噴水の水の包帯は言いずらいな……。
もっといいネーミングはないかな……。
アリス水は無いにせよ、もっとこうビシっと来るよ――
「あっ!!」
と、俺がビシっと来るようなネーミングを考えようとしていると、急にアリスが短く叫んだ。
「どうした? ……なんで噴水の元で屈んでるんだ」
「包帯落としたから取ろうと思ったら、この隙間に落ちたのよ」
「どれどれ……」
俺はアリスが指さす噴水の元の石床に目をやった。
そこには丁度包帯が入り込む程の隙間があり、指を入れてみると奥に空間が広がっているような冷たい空気を感じた。
「この下……空洞になってるっぽいな……。ハンマーかなにかで石床を粉砕してみれば分かりそうだ」
「アイス・キューブ!!」
「えっ!」
ズドーーン!
「おい! やるならやるって言え! ズドーーン! じゃねえよ!」
「やる」
「言うのおそっ!」
アリスが氷の塊で無理やり粉砕した石床を撤去してみると、そこにはいかにも地下へと続いていそうな石の階段があった。
「お、包帯あったぞ」
俺は数段下に落ちていた包帯を手に取り、アリスに渡した。
「よし、一件落着だ。地下へと続く階段などなかった。いいな?」
ショッピングモールの空に浮かぶ3つの月とアリスの視線を無視し、俺は爽やかな顔でそう言った。
「よくないわよ! 冒険よ! 地下迷宮を冒険だわ!」
アリスはそう言いながら階段を下りて行った。
渋々俺も後ろを付いて行くと、下りた先にはアンティークと呼ぶに相応しいような古風な扉が、俺達を待っていたかのように佇んでいた。
「月かこれ……」
その両開きの扉には、名職人が生涯を掛けて彫ったような見事な月の彫刻が中央にあった。
――やっとみつけてくれたのかい? 待っていたよ。
その一つしかない大きな月が、俺にそう語り掛けて来たような気がした。




