342 自分を勝ち取る
ノベンタさんの話に耳を澄ませる。優しい息遣いと穏やかな声。そして特徴的で緩慢な口調。しかし、その内容は殺伐としている。彼女は人を呪い殺すに至った経緯を語っているのだ。まるで、少女だったころの楽しい思い出話をするように。
『どうしてナルシードの両親を呪い殺したのか?』、彼女の長い話の発端となった俺の質問は、どうやら正確ではなかったみたいだ。俺はナルシードが淹れていったアイスコーヒーをひと口飲み、同じように小休憩して息をつく彼女に尋ねる。
「呪い殺したのは、ナルシードを奴隷に仕立て上げた新しい両親だったんですね?」
「そうだよ~」と彼女は言う。「あの子を解放するには、それしかなかったから~」
「解放? 奴隷から解放ってことですか?」
「そうそう~」と彼女は言う。そしてコップをテーブルのコースターの上に置き、話を再開させる。
深く聞き入るうちに、また八咫烏が俺の胸の奥で熱を強めていく。そして、俺は彼女の物語る世界を鳥瞰する傍観者となる。
*
血の繋がりのない両親の屋敷で奴隷として働く十二歳のナルシードを目にしてから、ノベンタさんは急ぎ足で宿泊するホテルへと戻った。いま俺と彼女がいるホテルで、部屋まで一緒だ。まったく同じ椅子に座り、酷似した朗らかな表情を浮かべている。しかし、内心はどこまでも冷徹に殺しを画策している。母のように慕っていた師匠の息子が、あんな目に遭っている。その根元にいる腐敗した偽りの両親を、いかにして殺害するか。
『呪術』。それが呪術師である彼女にとって、もっとも自然で確実な方法だった。しかし、人を二人いっぺんに呪い殺すには念入りな準備が必要だ。用意しなければならないものが数多くある。彼女はそれをリストアップし、メモ帳に書き取る。虚空を眺めるような目で自分を見ていた、ナルシードの姿を脳裏に思い浮かべながら。
次の日、彼女は朝から市場に向かう。錦蛇と雨蠍の干物を買い、活きの良い鶏を籠ごと譲ってもらう。砂狼の牙とヤデオ・トカゲの目玉も必需品だし、斑蜘蛛の毒液もあれば越したことはない。しかし、隅から隅まで歩いてもそれらは発見できなかった。その日は諦め、彼女は市場をあとにする。
ホテルに帰る前に、ナルシードのいる屋敷に寄ってみる。箒で掃いている彼の姿が、広い庭の隅っこにある。ノベンタさんは柵の外から近づき、声をかけてみる。
「遊びに来たよ、わたしとお話しよ?」
少年は遠くで振り返り、怪訝そうに眉をひそめる。口元を引き締め、綺麗に一本に結びつける。奴隷は勝手に喋ることを許されていないのだ。
「わたしのこと、憶えてる?」とノベンタさんは語りかける。少年は小さく首を傾げてから、かすかに頷く。四歳か五歳のときのことは覚えてなくとも、昨日顔をあわせたことは記憶に留めてくれている。彼女はそのことを何よりも嬉しく思う。
爽やかな風が吹く。庭の常緑樹の葉がそよめき、ナルシードが腰に巻くボロが控えめにはためく。昨日と違い、彼はそれしか身に着けていない。体は痩せ細り、肋骨が皮膚のすぐ下まで浮き出ている。
その日の邂逅はそれで終わる。少年は無言でちり取りを手にし、庭の奥に去ってしまう。彼女はその後ろ姿をいつまでも見守っている。見えなくなっても、しばらくそこに佇んでいる。
それからしばらくのあいだ、彼女は似たような生活を送り続ける。鶏の鳴き声で起床し、餌を食べさせる。お目当てのものを求めて、朝早くに市場まで出掛ける。そして、帰りにナルシードに会いに行く。
彼は必ず午前中は庭で労働に勤しんでいた。ノベンタさんはなるべくペースを変えずに、同じ時間に彼に会いにいった。何日かすると、ナルシードはノベンタさんを見ると会釈をするようになった。凪いだ海辺の船の舳先のようにかすかな動きだったが、それでも彼女は胸に温かいものを感じた。
七日めになると、ノベンタさんは彼の血の繋がっていない兄を初めて目にした。ナルシードより五歳上で、十七歳の青年だ。その兄の弟に対する行動を見たとき、ノベンタさんは我が目を疑った。達人を気取るみたいに大仰に腰の剣を抜き、刃を滑らせるようにナルシードの小さな肩をかすめ斬った。そして、刃先を幼い喉元に接触させた。
何か会話が行われている。しかしここからでは聞くことができない。兄がへらへらと笑いながら何かを言い、弟が肩の傷を手で押さえながら返答する。剣が鞘に納められ、ナルシードが深く頭を下げる。兄は弟がせっせと集めた落ち葉を足蹴にし、そこから去っていく。
ノベンタさんはその一部始終をまばたきもせずに瞠目する。しかし、涙が頬を伝うことはない。胸に怒りの炎が渦巻くことも、頭に血が上ることもない。彼女は口元をゆるめ、ただ冷酷な微笑みを浮かべる。
それでいい、と彼女は思う。それでいい。あの子自身の手で自由を勝ち取らせるためには、相手がクズであればあるほど……。
その日はナルシードに会わずに帰路に就いた。このガイサ・ラマンダを訪れてから、ナルシードに声をかけなかった日は今日が初めてだ。そもそも、どうしてわたしはこの南方の地に帰郷したんだっけ? と彼女は思う。そうだ、師匠に――ナルシードの本当の母親に――ファングネイ王国の呪術師ギルドマスターに就任したことを報告しに来たのだ。偉大なあなたの卓越した呪術は、海の向こう側でも認められました、と……。
彼女はホテルの前で、東の空に浮かぶ蒼い三の月を見上げる。胸に手をあて、そこで安らかに眠る大切な人のことを――そしてその家族を――心から悼む。
彼女はそこに幻を見る。蒼白い微光を背景に、幼いころの自分の姿が映し出されている。何かの調合に失敗したのだろうか? 少女は泣きべそをかいている。ノベンタさんはその出来事を記憶していないが、少女を優しく見つめる女性の笑みだけはいつまでも覚えている。
紺色の髪の美しい女性はしなやかにかがみ込み、少女の肩に手を載せる。
「なりたい自分を勝ち取りなさい。そこに手を伸ばし続けなさい」
何度も語りかけられた言葉だ。わたしが師匠からもっとも色濃く継承したのが、この想いだ。それがなかったら、わたしなんてすぐに駄目になっていた。いや、それどころか、とっくに崖の下にでも命を投げ捨てていただろう。
ナルシードにも伝えてあげなくてはならない。彼の母親から受け継いだものを、息子にもちゃんと届けてあげたい。
彼女はそっと呟く。「なりたい自分を勝ち取る。手を伸ばし続ける」
そのために、ナルシードは自身の手で兄を抹殺しなければならない。
*
アイスコーヒーの入ったグラスを、ノベンタさんはゆっくりと口元で傾けた。俺の意識が表面化し、現実の光景が雨の上がった新しい朝のように柔和な光を帯びて飛び込んできた。
「抹殺?」と俺は口走った。「どうしてナルシードが兄を殺す必要があるんですか?」
きょとんとした顔になり、ノベンタさんは首を傾げた。
「奴隷から解放されるためだよ~? 決まってるじゃない~?」
「いや、なんで兄の殺害が自由に繋がるんです?」
また逆の方向に首を傾けた。それから、手のひらを拳でぽんと叩いた。
「ああ~、ウキキ君はまだ奴隷と三親方の仕組みをちゃんとわかってないんだね~」と彼女は言った。「買われると、奴隷は三人の親方の共有物になるって言ったの~、憶えてる~?」
憶えている、と俺は言った。
「じゃあ話は簡単だよ~。奴隷は自分の持ち主が全員いなくなれば、誰のものでもなくなるの~」
「なるほど……」と俺は言った。「じゃあつまり、兄も三親方の一人だったってことですね?」
「そうそう~」とノベンタさんは言った。「役所にある登記簿の両親の名前の横に、綺麗な字でしっかりとサインしてあったよ~」
しかし、ただ三親方が死亡すれば奴隷に自由が与えられるという簡単な話ではなかった。彼女はフレーム・レスのメガネを再び本の上に載せ、物語の続きを語り始めた。
奴隷が解放されるためには二つの道があった。一つは自分が買われた金額を、十倍にして三親方全員に支払うという無茶苦茶なものだ。自分の価値が金貨五枚だったとしたら、計百五十枚もの金を用意しなければ自由にはなれない。主人らが気まぐれで与える駄賃程度では到底不可能だろうと、ノベンタさんは言った。
二つめの道。それは登記簿にある三親方がいなくなれば自然と自由になれるという、ある意味で事務的なものだった。ただし、それには条件がある。日が沈んでから昇るまでのあいだに――つまり、一晩のうちに三親方全員が消えなければならない。
「朝になって役所の門が開くとね~、例えば一人だけ残った親方が、死んだ二人の代わりを連れて行って登記簿に名前を書かせちゃうの~。新・三親方誕生、ってところだね~」
その厳しい条件はノベンタさん一人では達成できそうになかった。彼女が一度に呪い殺すのは二人が限界であり、どうしても残った一人をナルシードが始末しなければならなかった。いや、あるいは、もし呪術で三人全員を殺害できたとしても、それはやらなかっただろうとノベンタさんはにこやかに言う。『なりたい自分を勝ち取りなさい。そこに手を伸ばし続けなさい』、それは自由とともに、ナルシードが受け継がなければならない大切な想いなのだ。
市場で運よくヤデオ・トカゲの目玉を買うことができたが、とうとう斑蜘蛛の毒液だけは入手できなかった。それを体中に塗れば呪いの反動を最小限に抑えられるのだが、ないものは仕方がない。人を二人呪い殺すためのものは揃った。帰り道、ノベンタさんはいつものようにナルシードのいる屋敷に寄った。
「ここにこうして来るのは、今日で最後なの」と彼女は鉄柵の奥の少年に打ち明けた。「キミは自由になりたい?」
ナルシードはすぐそこで梯子に登り、庭木の枝を小さなノコギリで切り落としていた。こんなに近くで彼を目にするのは、初めて会った日以来だ。細かい傷がいくつも胸や背中や腕についている。ノベンタさんはそれを見て、なぜかヒビが無数に入った陶器製の小ぶりな湯呑みを連想した。
突然耳に入り込んだ声に、彼は振り返って眉根を寄せた。そこには本当に少しだけ、悲しみを思わせる色が漂っているように見受けられた。
「わたしはキミのお母さんに代わって、キミを助け出したいの。ねえ、自由になりたい?」
ノベンタさんが見つめる先で、ナルシードは不思議そうな顔をしていた。この人はいったい何を言っているのだろう? しかし、突然フレームから外れるように彼女の視野から幼い姿が消失した。梯子が兄に蹴飛ばされ、3メートルほど下の地面に落下したのだ。
「おいアンタ」とナルシードの血の繋がらない兄はノベンタさんに向かって言った。「ここ最近コイツに構ってるようだけど、ウチの奴隷に許可なく近づかないでくれるか?」、そして腰の剣をさっと抜き、倒れ込むナルシードの裸の上半身を剣先で撫でた。
夜空を横切る流星のように、ノベンタさんは瞬時に頭を働かせた。この男の息の根を、今ここで止めてしまうのはそう難しいことではない。しかし、それをやったらすべでが台無しになってしまう。
彼女は長いあいだ目をつむり、そして開いた。瞳には呪詛が展開されていた。瞳術とよばれる呪術の一種らしい。紫色に光る妖しげなその目を、ナルシードの兄は綽然と覗き込む。すると急に表情を脱ぎ捨て、虚ろな目をしてどこかに歩き去っていった。
ノベンタさんはいつもののほほんとした双眸に戻り、起き上がるナルシードを見つめていた。不意の落下による怪我はないようだが、持っていたノコギリが頬をかすめたらしく、薄っすらとした線とともに血が滲んでいた。
「わたしはキミのお母さんの弟子だったことがあるんだよ?」とノベンタさんは言った。「誰よりも優しくて、すごく素敵な人だったよね? キミはどれくらいお母さんのことを覚えてる?」
少年は真っ直ぐな目でノベンタさんを見つめ返した。何かを我慢するように顔を赤らめ、身体を小刻みに震わせた。しかし、胸に溢れる死んだ母への想いは、幼い少年に堪え切れるほど小さなものではなかった。すぐに大きな目から涙がこぼれ落ち、母と父から譲り受けた鮮血と混ざり合った。
「ねえ、自由になりたい?」とノベンタさんは尋ねた。ナルシードは血と涙を擦るように手のひらで拭い、真っ赤な顔のまま頷いた。
「そっか。じゃあ、キミも行動しなくちゃね?」
ナルシードはもう一度深く頷く。明るい空でそれぞれの色に輝く3つの月が、これから行われる密談にそっと耳を澄ませる。




