341 それなりに幸せだったころ
そのホテルは都市を堅く護る高い壁の近くにあった。石造りの古い建物だったが、外観はなかなかお洒落で、一階は小さな礼拝堂になっていた。
階段まで歩きながら中をちらっと覗くと、数人の男女が跪いて女神像に祈りを捧げているのが見えた。この南方の地で唯一の月の女神とされている、リアの像だろう。やっぱり本人と違ってたわわに実る胸があり、人々に向かって優しく微笑みかけていた。
二階に上がり、聞いていた番号の部屋をノックすると、すぐに扉が開いてナルシードが顔を覗かせた。
「やあウキキ君、早かったね。あれ、アリスちゃんは一緒じゃないのかい?」
俺はアリスがいない理由を適当に言い繕い、部屋のなかに足を踏み入れた。二十一歳の俺が十一歳のアリスと奴隷についての意見の相違で喧嘩をしただなんて、とてもじゃないが言えやしない。
八畳ほどの簡素な部屋だった。ノベンタさんはベッドに寝っ転がっており、入って来た俺を季節外れのフルーツを見るような目で見た。
「あれ~、ウキキ君もう来たの~?」と彼女は言った。「晩御飯の用意まだだけど~? ま~いいわ~座って座って~」
ノベンタさんは俺にソファーを勧めると、テーブルにあったメガネをさっとかけて、正面の椅子に腰を下ろした。そしてこじんまりとした台所でアイスコーヒーを淹れようとするナルシードの後ろ姿に目を向けた。
「じゃあ、ナルシード~。買い出しよろしくね~」
「了解、ウキキ君は何か食べたいものはあるかい?」と振り返って彼は言った。イケメンが台所に立つとよりいっそう格好よく見えるのはどうしてだろう?
「あ、外に食べに行くんじゃないのか?」
「ウキキ君とアリスちゃんはどうやら違うようだけれど、僕とノベンタさんは密入国者だからね。目立たないようにする必要があるのさ」
「え、そうなのか? どうやって入り込んだんだ?」
アイスコーヒーの入ったコップを二つテーブルに置くと、ナルシードは爽やかな笑みを浮かべた。そしてベッドの上で折り畳まれている薄手の白いマントを羽織り、フードをかぶった。
「お互い、聞きたいことは山ほどあるよね。けれど、まずは僕に質問させてほしいな。久々に会った親友の食べたいものを作ってあげたいからね」
「あ、じゃあええっと……この都市ならではのものが食べたいかな」
任せておくれ、と言ってナルシードは部屋を出ていった。廊下を歩く音が響き、だんだんと遠ざかっていった。
部屋に二人になると、ノベンタさんはアイスコーヒーをひと口飲み、服の袖で濡れた唇を拭った。二十代後半ほどの巨乳美女と対面するのは少し緊張したが、彼女のほうはそんなこと露とも思っていないようだった。しばらくすると彼女は俺を見て、ふふふ~と笑った。
「あの子が親友だなんて言う相手、ウキキ君が初めてだよ~」
「え、そうなんですか……。あんな社交的な奴なのに、なんか意外ですね」
「それで~、どうしてウキキ君はガイサ・ラマンダにいるのかな~?」
俺は簡単な経緯と滞在理由を話した。ガーゴイルの件はもう知っていたようで、彼女の理解はとても早かった。
「ふ~ん、そういうことなのね~」と話しを聞くと、彼女は指先をあごにあてて言った。「サラマンダーちゃんの首飾りね~。それがあれば、先代の記憶が甦るのね~?」
俺は頷き、続けて質問をした。
「ノベンタさんはナルシードからガーゴイルのことを聞いてたんですか?」
「違うよ~? 副兵団長から~。わたしたちがここに来たのは、わたしの呪いの反動を解くためだってナルシードから聞いたでしょ~?」
少しだけ間を置いてから、ノベンタさんは言葉を継いだ。この部屋だけ時間の流れが緩やかだと錯覚するような、相変わらずのゆったりとした口調だった。
その説明によると、動作が鈍重になってしまったノベンタさん(今は薬で反動を抑えつけている)を快復させるのは、彼女を俺たちに協力させるためだということだった。ガーゴイルの起動と、そののちに控える最後の飛来種の襲来。俺とアリスの訴えによりこの惑星の危機を知った副兵団長は、俺が思っていた以上に真剣に取り組んでいたみたいだ。
「だから、ここでウキキ君とアリスちゃんに会ったときは~、驚いたよ~。治るまでは別行動だと思うけど、これからよろしくね~」
「こちらこそ」と俺は言った。「呪術師のギルドマスターが力を貸してくれるなんて、すごい心強いですよ」
ノベンタさんはまたふふふ~と笑った。
「そんな堅苦しく話さないでいいよ~? それに、全然頼りにならないかも~? 呪いの反動をこんなまともに受けちゃう呪術師なんてね~」
体を左右に揺らしながら話す彼女を見ていると、あのひどく散らかったギルドで彼女から聞いた話を思い出した。呪いが強ければ強いほど、その反動で自分に災いが降りかかってしまうのだと彼女は言っていた。どんな呪いをかけたんですか? と俺はあのとき何気なく聞いてみた。すると、ノベンタさんは昨日の昼食を質問されたみたいに躊躇なく笑って答えた。
『人を呪い殺したんだよ~。ナルシードの両親をね~』
それ以上は何も話さなかったので、俺も訊かなかった。今にして思えば、あれは俺を笑わそうとする冗談だったのだろうか? しかし、すぐにノベンタさんは俺の希望的観測を打ち砕いた。
「あの話、憶えてる~? わたしがナルシードの両親を呪い殺したって話~」
冗談ではなかった。俺は顔が引きつるを感じながら頷いた。
「この部屋から呪いをかけたんだよ~。呪詛陣を描いて、その中で三日三晩呪ったの~。うふふ~懐かしいな~」
彼女はハネムーンの思い出が詰まった南国の宿を見るような目で、部屋のなかをぐるっと見まわした。
「あの……」と俺は言った。「今更ですけど、なんでそんなことしたんですか?」
ぴんと立てた人差し指を唇にあて、ノベンタさんはメガネの奥から俺の目をじっと見つめた。
「ウキキ君はナルシードがちっちゃいころ~、この南方の都市で奴隷だったって知ってるんだっけ~?」
「え? ああ、そういえばあいつの同僚の騎士がそんなこと言ってましたね……」
「じゃあ~、『三親方』って聞いたことある~?」
あります、と俺は言った。『常に一女神・三親方に感謝を』。元老院議員のキケロが奴隷の少年に向かって発した言葉だ。だけど意味はわかりません、と俺は付け加えた。
「三親方っていうのは、三人の主人のことなの~。奴隷は買われると、解放されない限り一生この三人の共有物なんだよ~」
席から立ち、ノベンタさんは本棚に立てかかる黒ずんだ表紙の本を手にして戻ってきた。腰を下ろし、本をテーブルの真ん中に置いた。
「ナルシードは、この都市の名家の生まれなの~。でも七歳のころ、本当の家族を死ビトに喰われて亡くしちゃったんだ~」
メガネを外し、彼女はそれを黒ずんだ本の上にレンズを下にして載せた。そして、おそらくは俺の質問の答えに帰結するであろうナルシードの昔話を続けた。
父と母、そして二歳下の弟を失い、ナルシードは母方の叔父に引き取られた。ファミリー・ネームの違う両親と五歳違いの兄。それが、幼いナルシードが望まずに手にした新しい家族だった。
広い部屋が用意され、食卓で豪華な食事をともにした。兄と同じ師のもとで剣術を学び、高名な哲学者から付きっきりで高水準の教育を受けることができた。彼はそれらを砂漠の砂のように余すことなく吸収していった。もともと出来が良かったというのもあるし、意識から悲しみを追いやりたいく、がむしゃらでもあったのだろう。しかし、夜は一人っきりで泣いてばかりいた。
すると新しい両親はナルシードの寂しさを紛らわすために、子犬を彼に買い与えた。ナルシードはその雄犬を『ラル』と名付けた。死んでしまった弟と同じ名だ。どこに行くにも一緒で、ラルはずっと彼のそばを離れようとしなかった。
悲しみは少しずつ癒されていった。笑う回数もだんだんと増えてきた。俺は内奥に棲まう八咫烏を通じて、幼いナルシードの笑顔を目にすることができた。どこか憂いげな笑い方だが、それでもこれからずっと続いていく人生に前向きになったように見受けられた。
ノベンタさんは再びメガネをかけると、息をすうっと吸い込んだ。
「あの頃はそれなりに幸せだったんじゃないかな? って、あとになってナルシードは言ってたよ~。面白いよね~。自分のことなのに、どこか客観的~」
しかし、それなりの幸せも長くは続かなかった。三か月も経つと新しい両親は彼を疎ましく思うようになり、与えたすべてのものを取り上げてしまった。そして、所有する奴隷と同じように、七歳の彼を下男として働かせるようになった。
それは晴天の霹靂というほどの出来事でもなかった。今にして思えば、兆候はたしかにあったんだ、とナルシードはノベンタさんに語ったそうだ。兄を差し置いて剣術の師に褒めそやされる彼に新しい両親は良い顔をしなかったし、彼の明晰な頭脳を喧伝してまわった哲学者に突然暇を与えたりもした。端正な顔立ちと子供ながらに達者な話術が社交界で話題になると、しばらく口をきいてもらえないこともあった。それらすべてが不遇の前触れだったのだ。
その少年は、この家の養子となるにはあまりにも優秀すぎた。近い将来、実子が踏みにじられ、家が乗っ取られると危ぶまれるほどに。
しかし新しい両親の心は、ナルシードから自由を奪っても不安に駆られていた。戸籍に養子とある限り、いつでもその種は芽吹いてしまうかもしれない。歪んだ精神はそう思慮し、あぶら汗を垂らしながら思索する。いびつな答えに辿り着くまでに、そう時間はかからなかった。
「あの二人は、ナルシードを奴隷商に売り飛ばしちゃったの~」とノベンタさんは変わらぬ口調で言った。「それで、すぐに買い戻したの~。はい、これでなんの権利も有さない奴隷の出来上がり~」
薄暗い倉庫で粗末な食事をし、冷たい床に座って、奴隷になった少年は考える。僕がちゃんと気をつけていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。もっと上手くやれば、彼らはいつまでも優しくしてくれたんだ……。
だけど、何もかもが遅かった。ラルまで奪われてしまった。兄は世話を買って出てくれたが、任せて大丈夫だろうか? そして、僕はこれからいったいどうなってしまうのだろう?
七歳の少年は横になり、カーテンの隙間から漏れる一条の光を見つめる。労働の疲れが、少年を夢のない深い眠りに引きずり込んでいく。
「それからわたしがこの都市に足を運ぶまで、ずっとあの家で奴隷として働いてたの~。五年間かな~。わたしはね、ナルシードの本当の母親に師事してたことがあるんだ~。呪術の権威とまで呼ばれた人なんだよ~」
ノベンタさんはナルシードの本当の家族に起こった出来事を知り、十二歳になっているはずのナルシードの行方を追った。それはすぐに突き止められた。敬愛する師匠の弟一家に引き取られ、奴隷として虐げられた日々を送っている。彼女はそれを知り、すぐに屋敷に向かった。そして鉄柵の外から噴水の掃除をしている彼を発見し、注意深く観察した。
面影は残っている。ナルシードが四歳か五歳のころに何度も遊んであげたことがある。イメージしていた姿とだいたい同じだ。しかし、動的なものすべてに興味を注いでいた目の輝きは失せている。静的なものすべての構造を解き明かしてやろうという意欲的な眼差しもなくなっている。
ノベンタさんは許可なく門を抜け、少年の前まで歩いていく。色のない視線が彼女を捉える。
わたしのこと、覚えてる? と彼女は問いかける。唇をかすかに開いたあとに、少年は小さく首を振る。奴隷は三親方の許可なく口をきいてはならない。
「そう、じゃあ初めまして。わたしはノベンタ。オクタヴィア・トメウス・ノベンタ。キミの名前は?」
少年は口を閉ざし、深く屈んで噴水の底にタワシを擦りつける。奴隷は三親方の許可なく名を告げてはならない。
メガネの奥の瞳が悲しそうにナルシードを見つめる。彼女の感情らしい感情をはっきり見て取るのはこれが初めてだ。やがて私兵らしき男が彼女をひっ捕らえ、無理やり門の外まで放り出す。
男は罵詈雑言を口にしている。しかし彼女にはそれが聞こえていない。ただ遠くの噴水を目にし、そこを磨きあげる少年のことを想っている。幼いころ、あの子はどんな声をしていたっけ? 考えたが、彼女にはもう思い出すことができない。すべては上書きされてしまった。思い出せない声は物言わぬ声に。そして利発そうな顔は、鬱屈とした表情に……。
彼女はずれたメガネの位置を直し、屋敷をあとにする。胸には強い決意が秘められている。




