340 そんなことは何度でもある
その現実は、アリスからあらゆる言葉をもぎ取ってしまった。小学校の校庭ほどの広さの場所で、数多くの人々が窮屈な檻に入れられ、無言で自分の境遇を嘆いていた。
いや、嘆くことなんてとっくに飽きているのかもしれない。彼らの眼差しには、運命を呪うだけのかすかな光すら残っていなかった。誰もがそこに空虚を浮かべ、砂ぼこりの舞う宙にあてもなく視線を散らしていた。
アリスは無言で歩きだした。人々はまるで運動会の会場に入ってきた野良猫を見るように、扇状に配置された一つひとつの檻のなかから、奥行きのない一対の目をアリスに向けていた。
左端の檻の前にアリスが立つと、すかさず奴隷商の男がそばまでやって来た。
「へえへえ、お客さん。今日はどのような奴隷をお探しで?」
唇がうっすらと上下した。しかし、アリスはそこから音にならない空気を漏らしただけだった。俺はそこまで歩き、ちょっと見てるだけだと代わりに伝えた。奴隷商の男はあからさまな舌打ちをして、テント小屋の奥に引っ込んでいった。
小さな声でアリスは言った。「ここの人たち、みんな奴隷なの……?」
たぶんな、と俺は答えた。少なくとも貴族には見えない。すると、アリスは力なく鉄格子を握り、なかにいる人たちに満遍なく視線を漂わせた。
「どうして人が売り物になっているの? まだ幼い子だっているじゃない、こんな私よりも小さな子を買ってどうしようっていうの?」
俺には何も答えることができない。心情的にも道徳的にもとても許せることではないが、それは海の向こうから来た俺たちの倫理観でしかない。ここではこれが許されており、これがあたり前なのだ。人に値段をつけ、人を売り、人を買い、人を賎民として扱う。これが、この異世界の南方の地における現実だとしか言いようがない。
アリスは長いあいだ檻のなかをじっと見ていた。俺は直視していられず、ボロを纏う痩せこけた男と視線が交わったところで外に逸らした。彼は俺を見て、何を思ったのだろう? 俺の清潔な衣服や血色の良い肌を自分のものと比べたのだろうか? あっち側の人生を歩みたいと神に乞い、俺をこっち側に引きずり込んでやりたいと悪魔に願ったのだろうか?
視線が彷徨うと、俺の意識はふと隣の檻に囚われたビースト・クォーターの老女に行き着いた。犬のような耳はへなへなとしおれ、長い尻尾は使い古された箒のように毛がところどころ抜け落ちていた。その檻はどうやらビースト・クォーター専用のものらしかった。他にも数人いて、檻の外側にぶら下がる木片には他よりも安めな値段が記されていた。
奴隷市場の中央には、木箱を並べて造った小さなステージが設けられていた。その端には立て札があり、赤色で枠いっぱいまで文字が書きなぐられていた。『エルフ入荷 競売は明日の正午より』、まだ二十時間近くあるというのに、すでに何人かの目の腐った連中が席を確保していた。
こんなところにいつまでもいる気にはなれない。檻の内側の人々のことを想うとやり切れない気持ちになるし、外側の奴らを見ると怒りがふつふつと湧いてきてしまう。やっぱり、ここは俺やアリスが来るべき場所ではなかったのだ。
小さな肩を叩いて帰ろうと口にしたが、アリスは動き出そうとしなかった。ただ一点を黙って見つめていた。檻の扉を堅く閉ざす、頑丈そうな錠前だ。
嫌な予感がした瞬間、アリスは手のひらをそこにかざした。
「アイス・アロー!」
氷の矢が的確に錠前の中心を捉える。粉砕こそしないものの衝撃でピンが外れ、自然と扉が数センチだけ外側に開く。すぐに全開まで開け、アリスは檻のなかの人々に向かって声高に語りかける。
「今のうちに早く逃げるのよ!」
アリスはそれから、脇目も振らずに隣のビースト・クォーターの檻の前に駆け込む。このバカは一つだけじゃなく、三十ほどもある檻からすべての人々を解放するつもりでいるのだ。
「やめろバカ! 無理に決まってるだろ!」、俺はまた鍵を破壊しようとするアリスの腕を掴む。
「無理じゃないわ! あなたも見ていないで手伝ってちょうだい!」
「手伝うかアホ! こんなことしたってなんにもならねえんだよ!」
アリスの肩に手を押しあて、無理やり最初の檻に体を向けさせる。その中を目にすると、アリスは眉間に深い皺を刻みこむ。
「どうしてみんな逃げないのよ!」
檻からは誰ひとり抜け出していなかった。開け放たれた扉から距離を取るように、全員が端っこでうずくまっていた。扉が軋み、アリスをあざ笑うようにぎいぎいと音を立てる。俺は扉を閉めて黙らせ、錠前を拾って元通りに鍵をかける。
「みんな、逃げて捕まったらどうなるかわかってんだ。……お前が思ってるほど単純な話じゃないんだよ」
奴隷商の男がテント小屋から顔を出し、疑り深い目でこちらを見ていた。しかし幸い、鍵が一度開いたことには気がついていないようだった。
「もし檻が開いてるのがバレてたら、この人たちが酷い目に遭ってたと思わないか? お前がやろうとしたことは、ここにいる全員にとっていい迷惑なんだ。それがわからないのか?」
アリスは岬から大海を眺めるようにいくつもの檻を見渡した。そしてすぐに悲しそうな表情を浮かべ、遠くの水平線に沈んでいく太陽みたいにゆっくりと目を伏せた。
「……わからないわ」
わからなくてもいいよ、と俺は言った。ブルーニさえ取り返せばこんなふざけた土地からはすぐに離れるので、思弁の必要性なんて少しもない。それに正直な話、俺だってこんな馬鹿げた現実なんてわかりたくもない。もし可能なら彼らを檻から解き放ち、どこへなりと自由に駆けだしてもらいたい。しかし、実際的にはそんなこと不可能だ。彼らは籠の中の鳥ではない。大空へと羽ばたく翼を持たないし、どこまでも飛んでいける青い空と違って街は彼らに味方しない。住む場所も、食べるものも、まともな衣服さえもない。その先に待っているのは冷ややかな死だ。あるいはそれに準ずる何かだ。おそらく、それを一番理解しているのは彼ら自身なんだと思う。
「この都市で俺たちにできることなんて何もないんだ」と俺はアリスに言った。「……ほら、飛空挺に帰るぞ」
俺はアリスの手を取り、檻のなかの虚ろな視線から逃れた。アリスはずっと俯いたまま、意志のない人形のようにただ引っ張られて歩を運び続けた。
*
奴隷市場をあとにしてからも、アリスはしばらく口をきかなかった。だが、こいつがいつまでも沈んだ気持ちのまま黙っていられるわけがなかった。
「わかったわ!」と街中で突然アリスは大声をあげた。「私が全員引き取ってあげればいいのよ!」
立ち止って赤いリュックに手を突っ込み、アリスは可愛らしい桜柄の巾着袋を取り出した。おっぴろげて中を覗き込み、それから俺の顔を熟視した。
「銅貨が八枚もあるわ! これで足りるかしら!?」
「足りるわけねえだろ……。ってかその金どうしたんだよ」
「前に月の欠片を換金した残りよ! あなたもいくらか持っていたら出してちょうだい!」
仕方なく大蝦蟇を使役して財布を吐かせ、札と小銭を数えた。元の世界で姉貴から交通費を借りたままなので、思ったよりも纏まった額が入っていた。
「一万四千……五百円ちょっとだな。ふふ、小金持ちな気分だ」
アリスは前のめりになり、財布のなかを秘密兵器を発見したような目で見つめた。「これでみんな助け出せるかしら!?」、希望を抱き、目を一番星のように明るく輝かせた。
俺は吐息をつき、財布をジーンズの後ろポッケにしまった。
「いや、つっこめよ……。日本円がここで使えるわけがないだろ……」
アリスは思い切り顔をしかめ、無言で巾着袋を赤いリュックにしまい込んだ。そして澄ました表情を横顔に浮かべ、そのまま俺の脇を通り過ぎていった。
「要するに、あなたは無一文ということね?」とアリスは振り返らずに言った。「ホントに使えない男だわ。帰ってアナやレリアに相談するしかなさそうね」
どうしてだろう? この程度のことを言われるのはもう慣れっこのはずなのに、今回は無性に腹が立ってしまった。聞き流すことも、軽口を返して受け流すこともできなかった。
「お前のバカな思いつきに協力できなくて悪かったな」と俺はアリスの後ろ姿に言った。「でも、お前がやろうとしてることは無謀だし、無駄なんだよ。さっきも言っただろ? ここで俺たちにできることなんて何もないんだ」
「何もないことなんてないわ!」、アリスは歩みを止め、全速力で俺のところまで戻ってきた。「お金を払えば外に出してあげられるじゃない!」
必要以上に首を振る。そしてため息を吐き出す。口を開く前から、語気が強まってしまう予感がある。
「じゃあ全員をあの檻から出したとして、その後のことはどうするつもりなんだ? お前が住む場所を与えてやるのか? 死ぬまで飯を食わせてやるのか?」
「ショッピングモールに連れて帰ればいいじゃない! アリス王国は困っている人には誰にだって手を差し伸べるわ!」
「いくらなんでもそこまでの食料があるわけないだろ!」
「なくなる前になんとかするわ! みんなで協力すればどうとでもなるはずよ!」
何をどう協力するのだろう? 何がどうやってどうとでもなるのだろう? こいつは今でも世界は自分を中心にしてまわっていると本気で思っているのだろうか? 少しも成長できていないのだろうか?
「……そんなのが上手くいくわけないだろ。それに、奴隷はあそこの檻にいるのだけじゃないんだぞ? お前が全員買ったとしても、またすぐにどっかから連れてくるだろうし、既に買われて、自由な奴らのために不自由な思いをしてる人が大勢いるんだ。その人たちはどうするんだ? それも全部、お前が金を出して引き取るって言うのか?」
唇をぴくぴくと震わせて、アリスは言い淀んだ。知恵熱で顔を赤らめ、目には煌いたものが溜まりかけていた。俺たちにだって、できることとでできないことがある。いや、むしろできないことのほうが圧倒的に多い。いつになったら、こいつにもそれが理解できるようになるのだろう?
「……もうわかっただろ? 奴隷に関するあれこれなんて、違う世界から来た俺たちが気軽に触れていい問題じゃないんだよ。これもさっき言ったけど、お前が思ってるほど単純じゃないんだ」
煌いたものは形となり、それがついには大きな目からたっぷりと零れ落ちた。だけど、優しい気持ちでそれを拭ってやる気にはなれなかった。泣いても何も解決しないということを、そろそろこいつも学ぶ必要がある。
アリスは両手の甲で目元を拭い、さっきよりも必死の形相で猛々しく口を開いた。
「単純よ! あなたが複雑にしているだけよ! けれどもういいわ、あなたにはホントにガッカリしたわ!」
がっかりされたことだって何度もある。けど、本当にどうしてだろう? それは俺をよりいっそう苛立たせる一言になった。アリスがあまりにも現実を見ていないからだろうか?
「……じゃあ、まずは奴隷を買う金をどうにかしてみろよ」と俺は言った。自分でも驚くほど冷たい口調になっていた。「なんでも買ってくれる大金持ちの爺さんのいない、この異世界でな」
アリスは言われなくてもそうするわと言い残し、グリフィンを召喚して俺の前から去っていった。さっき言っていたように、まずは飛空艇に戻ってアナやレリアに相談してみるつもりだろう。あいつらからも同じことを言われ、涙に掻き暮れる様子が目に浮かぶ。
さてどうするか、と俺は思った。このまま飛空艇に帰っても、またバカアリスと言い合いになってしまうかもしれない。十一歳の小学五年生とまともに口論してどうする。ちゃんと大人としてバカな発言を右から左に流せるように、少し気を鎮める必要があるかもしれない。
少し迷ってから、俺はこのままナルシードとノベンタさんが宿泊するホテルに向かうことにした。夕食にはまだ早いが、積もり積もった話をするにはいくら時間があってもあり過ぎるということはないだろう。
都市の喧騒や楽しげな声を耳にしながら、俺は洒落た煉瓦造りのアパートが建ち並ぶ道を歩いた。角を曲がり、東に進路を取った。
道が細くなり、辺りが薄暗くなってくると、急にアリスが隣にいないことに寂しさを覚えた。どこかで犬が鳴き、がんぜない子供の笑い声が響いた。
もっと上手い諭し方があったはずだ……。どうして俺はあのとき、あんなに気が立っていたのだろう……。
ぱっと明かりの灯った窓を見ると、雪だるまのような形をしたサボテンが出窓のちょうど真ん中に置かれていた。頭上に咲かせる黄色い花はまるでバケツをかぶっているみたいで、とっても可愛かった。
現実が見えていないアリスに腹が立ったんじゃないことに、俺はふと思いあたった。俺はたぶん、現実が見えすぎている自分に対して腹が立っているんだ。アリスと違って何もできないと決め込む、どこまでも物分かりのいい俺自身に……。
やれやれ、と俺は思った。歩きながら頭をかき、時間とともに主張を強める西の空の紅い月を見上げた。とりあえず、帰ったらアリスの頭を撫でてやろう。いつもより、少しだけ長めに。




