336 ホシとのキズナ
食堂で夕食を食べ終えるまでのあいだ、俺は離れたテーブルで子供たち三人といるアリスのことをちらちらと見ていた。アリスの精神世界から帰還して、ずっと気になっていることがあったからだ。しかし食事風景からは、俺の知りたいことは窺えなかった。アリスたちは食事が済むと、次はお風呂だと言って、パーテーションのあいだを抜けてフードコートを横切っていった。
精神世界で起きたことを、現実のアリスはどのくらい認識しているのだろうか? お前の妹はたぶんどっかで生きている、と俺は鏡の女王アリスに言った。お母さんが炎に呑み込まれる寸前にお腹から転移させたんだ、と……。
それをこちら側で聞いたのなら、あんなふうに普通でいられるはずがない。ということは、認識できていないのだろうか? 現実世界と精神世界のリンク具合が、いまいちよくわからない。
風呂に向かうアリスたちをなんとなく尾行していると、アリスと手を繋ぐ一番年下の男の子(たしか五歳だと言っていた)に目がとまった。彼の存在は、俺に代用ウミガメの言葉遊びを連想させた。
アリスはあの言葉遊びを知っていたのだろうか? 代用ウミガメはアリスの精神世界の住人なので、そうでなければ話がややこしいことになる。しかし、試してみる価値はあるかもしれない。その結果うんぬんで、いろいろと推察できるだろう。
俺はゲームコーナーまで後をつけ、『ショッピングモールの湯』という暖簾のかかる女子トイレに消えていくアリスたちをUFOキャッチャーの陰から見送った。そして暇つぶしにドルアーガの塔をプレイしていると、七面の最初の辺りでアリスたちが頭から湯気を昇らせて出てきた。
先に声をかけてきたのはアリスだった。「ちょっとあなた! メダルを無駄遣いしたら駄目だって自分で言っていたでしょ!」
「あ、ああ……まあ一枚ぐらいいいだろ?」
「いま七面ね!? ストックを壊せば宝箱が出るわ!」
「なんで詳しいんだよ……」
そのまま席からどかせられ、プレイ権を奪われてしまった。俺は子供らと同じようにアリスを囲んで画面を眺めながら、言葉遊びを仕掛けた。
「おいアリス、ちょっと『雲雲崖にこんちたびなし』を逆から言ってみろ」
アリスは特にいぶかる様子もなく、ギルを華麗に操作しながら、詩吟のように独特の節をつけて逆さから口にした。そしてすぐにはっと気づき、顔を真っ赤にして、メイジの魔法をもろに喰らった。
俺はすぐにその場から立ち去り(だって逆襲がうざい)、動かないエスカレーターで一階に下りながら考えた。アリスはあのネタを知らなかった。それはつまり、どういうことだろう?
「こういうことだす」とチェシャ猫は俺の隣をぷかぷかと浮遊しながら言った。「アリスはあの言葉遊びを昔どこかで聞いて、潜在意識として眠らせていたんだす」
「なるほど、そういうことか……。なら、妹の件もそんな感じであやふやになってるっぽいな……」と俺はあごに指をあてながら言った。「……ってチェシャ猫!? なんでお前がここにいるんだ!?」
その理由をチェシャ猫は、一階に降りてペットフードのコーナーをうろつきながら教えてくれた。彼はもともとこの異世界の住人で、アリシア・イザベイル(アリスの祖母だ)と園城寺譲二の旅の途中で出会い、それ以来アリシア・イザベイルの守護獣を務めていたらしい。そして地球への転移にも同行し、園城寺家で楽しく暮らしていたそうだ。
しかし、アリシアの娘――アリアがアリスを生んだ日から一年後、チェシャ猫は守護対象を失った。アリシアが亡くなったのだ。
空がどんよりと曇り、一日中雨が降り続いていた日、チェシャ猫は葬儀の音色を遠くに聴きながら、ひとり彼女を偲んだ。
どうすればいいだすか? チェシャ猫は色のない空を見上げながら呟いた。なあアリシア、わてはこれからどうすれば? 冷たい雨が涙の代わりとなって、エメラルドグリーンの瞳から滴り落ちていた。
そこに、一歳のアリスがよちよち歩きでやって来た。もちろん傘なんて差してないし、靴さえ履いていない。それに何度も転んだのか、全身泥まみれになっている。雨が心ばかりに、赤い頬っぺたの土を洗い流していた。
「にゃーにゃ!」と小さなアリスは言った。なんだか怒っているみたいだ。
「ろこにもいっりゃ、いやりょ!」
小さなアリスはそこで膝をつき、チェシャ猫に覆い被さるようにして、きつく抱きしめた。
そうだすな……、とチェシャ猫は思った。ここにはアリシアが残した宝物がいくつもあるだす。わてはそれを護る、園城寺家の守護獣になるだす――
「いっりゃいやりょ!」
アリスがもう一度そう叫ぶと、小さな背中に後光が射し込んだ。驚くことに、それは紛れもない黄金色の意志だった。
チェシャ猫はそれを見て、必死に手足をばたつかせた。このままでは意志の光に呑み込まれてしまう――しかし、アリスのナチュラル・ヘッドロックは彼を逃そうとはしなかった。混濁する意識が最後に見たものは、アリシア・イザベイルの太陽のような笑顔だった。
「そうやって、わてはアリスの世界に迷い込んだんだす。わてはもともと霊体だから、脱け殻の肉体すら残さず……。精神世界で時間が経っても消滅せずに存在できたのは、やっぱり霊体だからという理由だす」
俺はこめかみを指で押さえながら、頭を何度か軽く振った。八咫烏が視せるチェシャ猫の物語から還って来るのに、少しだけ時間がかかっていた。
「そっか、そりゃなんていうか、災難だったな……」
小さなアリスはびえーんと大声で泣いていた。チェシャ猫がいなくなってしまったからだろう。やがて喪服姿の女性数人に連れられ、俺の視野から外れていった。
あんなようやく歩けるようになったばかりの赤ん坊が、どうして黄金色の意志なんて纏えるのだろう?きっと小さなアリスはこう言っていたのだと思う。『どこにも行っちゃ嫌よ!』、と……。
浮遊感がなくなり、地に足が着く感覚が戻ってきたころ、チェシャ猫は既にペディグリーチャムを三缶たいらげていた。そして三日月のような口の端を満足げに釣り上げ、大きな登山用のリュックに同じものを手当たり次第放り込んでいった。
「あれ、もしかしてどっか行くのか?」と俺は尋ねた。リュックの横で、シルバーのコップが所在なげにぶら下がっていた。
「さっきも言っただすが、わてはもともとこの世界に住んでただす。だから一度、里帰りをしておくだす」
「里帰り? 里ってどこだ?」
「もう行くだす。猫様の時間は貴重なんだす」
そう言うと、チェシャ猫はまたすぐに透明になった。俺はしばらくその場に留まって返答を待ったが、いつまで経ってもそんなものは与えられなかった。もう行ってしまったみたいだ。
俺はチェシャ猫が散らかしていった缶を拾い集め、食堂のゴミ箱の前まで歩いた。そして捨てる前に、あらためて缶を眺めた。
里帰り?
俺は腕を組み、首を傾げた。
里帰りって、チェシャ猫はいったいどこに帰郷するというのだろう?
そしてペディグリーチャムは犬用だが、あいつはそれをわかっているのだろうか?
なんだか釈然としなかったが、俺は缶を一つずつ潰してから投げ捨て、それから和室に向かった。
*
アナたちとショッピングモールで合流できたのは、それから二日後の昼過ぎだった。オパルツァー帝国からファングネイ王国を経由してハンマーヒルまで飛空挺を飛ばし、そこからショッピングモールの近くまで馬車を走らせ、そしていつもどおり馬車の往来がきかない盆地状の草原を歩いてやって来た。
ザイルから譲り受けた死ビトを寄せつけない例の装置が、大いに役にたったそうだ。おかげで道中、円卓の夜にもかかわらず、死ビトとの交戦は最小限で済んだとアナは言った。
「そっか、忘れずに渡しておいて良かったよ」と俺は言った。「それで、ガルヴィンとスプナキンがいないみたいだけど、どうしたんだ?」
国王ぶったアリスの歓迎の挨拶を遮ってアナにそう訊くと、彼女はエントランスホールのベンチに手荷物を置きながら答えた。
「二人とも北の大地までザイルに同行することになった。『勝手にチーム分けをしてすまんな』、というのがザイルから預かっているアリス殿への伝言だ」
アリスはそれを聞いて偉そうに頷き、それから村の子供たちに目配せをした。するとクラッカーやくす玉が盛大に割られ、華やかな紙吹雪がショッピングモールを訪れた大事な仲間たちの頭上を舞った。
チルフィーとアナとレリア、そしてウィンディーネとクラウディオさんとサラマンダー。その全員の顔を順番に見てから、俺もアリスに負けないぐらい力強く頷いた。
「よし、じゃあ精霊王案件はあいつらに任せて、俺たちは明日にでも南の国に出発しよう」
みんなの頭の上に疑問符が浮かび上がった気がした。「南の国でありますか?」と代表してチルフィーが訊ねた。
「ああ、目的地は自由都市――ガイサ・ラマンダだ」と俺は言った。留めた視線の先で、褐色肌の少女が不吉な響きを耳にしたように表情を曇らせた。サラマンダーにとって、そこは良い思い出が何一つない場所だ。だけど、同時に掘り起こすべき思い出が眠る地でもある。
「……そこで、サラに記憶を取り戻してもらう必要があるんだ」
彼女の黒髪に降りた折り紙の一片が、窓からの日差しを受けてきらきらと輝いていた。
*
みんなと再会するまでのあいだ、俺とアリスは当然遊んで暮らしていたわけではなかった。それどころか、転移スキルによって稼げた時間をかなり有効的に使えた。噴水の水の包帯の補充。月の欠片の獲得を兼ねた、月の迷宮六層までの攻略。転移スキルの検証(俺とアリスであいだに挟めば、一人だけ追加が可能だということがわかった)。そして、シルフの族長との作戦会議。
俺たちのこれからを決定付けたのは、シルフの族長の言葉だった。
『この目で見なければはっきりしたことは言えないのですじゃが、おそらく、今のサラマンダーは四大精霊として認められないのですじゃ』
この惑星の自浄機能であるガーゴイルの起動を阻止するには、そんなものはなくとも、ここに生きる者たちの手で最後の飛来種に対抗できるのだとわからせる必要がある。俺たちはそのために、四大精霊に真の力を取り戻してもらおうと行動している。
しかし、先代の記憶をまったく継承できずに覚醒してしまったサラマンダーでは、この惑星の信頼を勝ち取るのは難しいと族長は言う。脈々と受け継がれてきた惑星との絆が、断ち切られている状態ですのじゃ、と。
俺は不安そうに目を伏せているサラマンダーから視線を移し、平たいベンチに我が物顔で腰かけているウィンディーネに問いを投げる。
「お前言ってたよな?『サラマンダーのアホは首飾りをしてたか?』って……。シルフの族長もサラに記憶がないと知って、俺に同じことを訊いたよ。あとになってその首飾りが『ブルーニ』って呼ばれてることと、それがあれば徐々にだけど記憶が甦るかもしれないってことを教えてもらった。……お前はそれを知ってたのか?」
ウィンディーネは後ろに手をついて脚を組み、そして俺を一瞥した。
「アタイはそこまで知らなかったナ。ただ代替わりをしても毎回つけてたから、それなりの意味があるとは思ってたぜ。……まあ、どうせ奴隷商の糞野郎が金欲しさにパクッたんだろ」
「いや、盗まれたのはあってるけど、犯人は奴隷商じゃないよ」と俺は言った。「五十枚ちょっとの金貨でサラを買った、富豪の男だ」
あの坑道で視たサラの物語の断片を、俺は思い浮かべた。族長に聞いたブルーニの特徴に当て嵌まるものを、肥えた醜い男が腕輪にして装着していた。現場は視ていないが、きっとサラの首に巻かれた拘束具の下にそれを発見し、自分のものにしたのだろう。
あの男の顔も豪邸の外観も、描き出せるぐらいはっきり覚えている。ブルーニを奪い返すのはそう難しいことではない。
乾いた空でぎらつく太陽が、遠く離れた俺の肌を焼いていた。俺の意識の一部は、すでに南の国の都市にあった。
そこには豪奢な衣装に身を包み、くすんだ黄金の器でブドウ酒をあおる男たちがいる。煌びやかなドレスを着て、互いに身につけた色彩のない宝石を品評しあう女たちがいる。甘ったるい、かぐわしい香りが立ち込めている。山盛りになったフルーツが、その瑞々しさを少しずつ損なっていく。
そしてその一方で、錆びた狭い檻に囚われる人々がいる。からからになった喉の奥で小さな音を立て、恨めしそうに虚空を睨む少年がいる。潤いを失った動かぬ母に――あるいは母だったものに――しがみつく少女がいる。檻には、彼らの値段が雑に表記された木片が提げられている。命の雨を呼び込む雲が、彼らの頭上をゆっくりと通り過ぎていく。
『自由な国では自由な人が自由に暮らしています。ですが、それは人口のおよそ三割程度です。残りの七割はどんな人だかわかりますか?』『不自由な人です。世界一自由な国には、世界一不自由な人が数多くいます』
自由都市ガイサ・ラマンダ。そこについて、いつか誰かがこんなことを言っていた。誰だったろう? と俺は考える。しかし、思い出すことはできない。
気がつけば、もうみんな北メインゲートのエントランスホールから移動していた。夕食はアリス王国の名シェフおばあちゃんが腕によりを賭けたご馳走よ! と先頭を歩くアリスが楽しそうに振り返って口にしていた。それまで、王の私みずからこのアリス王国を案内するわ! どうしてもここがアリスの王国だと認知させたいみたいだ。
アリスたちを追いかけようとしたが、ちょっとまともに歩けそうになかった。南の国の毒牙に侵されているみたいだ。ブドウ酒の匂いが俺の鼻先をかすめ、醜悪な笑い声がいつまでも耳の奥で蠢いていた。
『おいアリス』といつかどこかで俺は言った。『この異世界は、俺たちが思ってる以上にヘビーみたいだぞ』
それでも、俺たちは立ち止るわけにはいかない。




