333 アリス三番勝負
ハートの女王の恰好をしたアリスは、多くの観衆(それはダイヤマークのちょっと上品なトランプたちだった)の歓声を受けながら、グラウンドの真ん中でクローバーマークのトランプたちとゲートボールを楽しんでいた。もっとも、はしゃいでいるのはアリスだけで、順番にボールを打っているトランプたちは戦々恐々とした様子だった。
数字の『6』の番になると、彼は震える手でステッキを握りしめ、そしてぎこちない動きでスイングをした。だが、足元のボールにはあたらなかった。するとアリスはにこやかな表情を一瞬で豹変させ(俺に食ってかかってくるときの怒った表情だ)、高らかに宣言をした。
「空振りしたわね! 逮捕よ! 牢屋に連れていってちょうだい!」
俺が茂みに隠れて覗き始めてから何人目だろうか?『6』はクラブマークの兵士二人に脇を抱えられ、どっか遠くのほうまで連行されていった。
「みんなまだまだね! さあ今度は私の番よ!」とハートの女王アリスは張り切った声をあげた。「私のスパーク打撃をよく見てなさい!」
ルールはよくわからないが、アリスは大股で相手のボールと隣接する自分のボールを踏みつけ、そして大袈裟なスイングをかました。するとニュートンの揺り籠の要領で相手のボールが弾き飛ばされ、白いラインの内側ギリギリのところまで転がっていった。相手の邪魔をするナイスプレイといったところだろうか?
ハートの女王アリスは満足そうにガッツポーズを決め、往年のタイガー・ウッズのように振り返って観衆に手を振った。ダイヤマークのトランプたちは媚やご機嫌取りのしどころとばかりに両手を拍ち鳴らし、口々に見え透いた誉め言葉を言い合っていた。
「さあ次よ! 早く打ってちょうだい!」
しかし、コート内にはもうアリスしかいなかった。味方チームも敵チームも全員逮捕されてしまったのだ。アリスは不満そうに眉をハの字に曲げ、無人のコートを一望し、やがて審判役の兵士のところまで駆け寄っていった。
「これじゃ試合にならないじゃない! ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンなのよ!」
「そ、そう申されましても……」
「いいわ、牢屋から誰か出してきてちょうだい! けれど変態たちはだめよ、あれは終身刑と決まっているわ!」
「それでしたら……」
審判役の兵士は本のように厚い逮捕者リストを鞄から取り出し、それを眺めた。そのあいだ、ハートの女王アリスはダイヤマークの観衆たちに目を向けていた。プレイヤーとして徴集しようとしているらしい。観衆らは一斉に顔を背け、申し合わせていたかのように全員口笛を吹きだした。
「それでしたら……」と審判役の兵士はもう一度言った。「先日、劇場版サッキュン鑑賞会で眠った罪で逮捕した、眠りネズミはどうでしょうか?」
「だめよ!」とアリスは即座に答えた。「彼はあと百年は出してあげないわ!」
「でしたら……女王にヘンテコな帽子を献上した罪で逮捕した、帽子屋なんぞは……?」
「そうね、あれは今思えばそんなにヘンテコではなかったわ!」
ハートの女王アリスはそんな感じで九名ほどリストアップし、急いで連れてくるよう審判役の兵士に命じた。彼が走り去っていくのをなんだか申し訳なく思いながら見ていると、急に後頭部をチョップされた。
「うわああああ!」
思わず叫び声をあげる。しかし、その途中で小さな手が俺の口をぴったりと塞いだ。慌てて振り向くと、そこには幼いアリスが立っていた。
「おじい様、見つかっちゃうわ! 静かにしてちょうだい!」
足元にはクリスもいた。二人とも俺より到着が遅かったようだ。
注意深くまた茂みの陰から女王アリスを見やると、歌舞伎役者のように大袈裟に振り返り、矯めつ眇めつこちらを眺めていた。アリスの地獄耳は俺の悲鳴を聞き漏らさなかったようだ。とはいえ確信には至ってないらしく、首を傾げてから、暗闇の奥に怪しい音を聞いたゴリラのような顔で兵士に指示を出した。
「ちょっと見てきてちょうだい」
トランプの兵士が鉄槍を構え、ゆっくりと近づいてくる。幼いアリスは素早い動きで胸の谷間(のように機能するどこか)から百人一首の歌がるたを一枚抜き取り、天高く掲げる。
「カワエーナ・カワイイデス!」
召喚されたのはごく普通の白い子猫だった。上手いタイミングで鳴き声があがると、緊迫していたグラウンド全体の雰囲気が和やかなものになり、ハートの女王アリスもやっと先祖返りから解き放たれた。
「ただの子猫ちゃんだったようね! いいわ、帰って来なさい!」
俺は引き返していくトランプの兵士を見ながら、ほっと胸をなでおろした。しかし、しゃがみ込んでこれからどうするか話し合おうとすると、幼いアリスは勇ましい顔つきで草陰から飛び出していった。
「ハートの女王、私のおじい様は変態ではないわ!」と幼いアリスは敢然と言い立てた。「ちょっとボケてきて全裸コートになってしまっただけなの! だから逮捕しないでちょうだい!」
鉄槍に再び力がこめられ、鋭利な穂先が幼いアリスに躊躇なく向けられた。俺はその瞬間に手を取って引っ張り、小さな身体をぴったりと後ろにつかせた。
「なんでこうなるんだよアホ!」と俺は前を向いたまま言った。「じゃあ子猫の意味はなんだったんだよ!」
「だって、こうしないとおじい様が逮捕されちゃうじゃない! やっと帰ってきてくれたのに、またいなくなるなんて私は嫌よ!」
幼いアリスは俺の腰に両腕をまわし、身体を押し付けるようにしがみついた。もう絶対に放さない……そんな想いが震える――けれど力強い――両手にこめられていた。
俺は、片時も油断することなく命令を待っているトランプの兵を睨みつけた。それで半歩だけは退かせることができた。なかなか悪くない兆候だ。幻獣がいなくったって、アリスに刃物を向けるような奴は俺が倒してやる。
「武器を下ろしなさい!」
激しい滝が干ばつの大地を打ち叩くように、ハートの女王アリスは声を張り上げて響かせた。目の前の兵士は身体をびくっとさせたあとに槍を下げ、そして俺もびくっとしてから声の主に目を向けた。
「プリティー・リトル・アリス。招待はしていないけれど、あなたが来たなら無下にはできないわ。けれど――私たちが顔を合わせたら、先にするべき挨拶があるのではないかしら?」
そうね、それはそのとおりだわ、と幼いアリスは口にし、ハートの女王アリスの前まで歩いた。そして二人でがっちりと握手を交わした。
「ごきげんうるわしゅう、女王。今日も世界一可愛いわね」
「ええ、あなたも世界一可愛いわ」
「そんなに可愛すぎると、太陽が僻んで朝が遠ざかってしまうわ」
「そんなに可愛すぎると、月が拗ねて夜を迎えられなくなるわ」
「うふふふ」
「うふふふ」
これがこいつらの挨拶だろうか? バカ二人はお互いの可愛さを讃え合い、満足そうに口許を緩ませた。そして二人同時にドレスの裾を両手でつまみ、少しだけ持ち上げて、姿勢よく身体を軽く沈ませた。
「ところでプリティー・リトル・アリス――」とハートの女王は言った。「その男は紛れもない変態よ。あなたは騙されているのね?」
ハートの女王は憎しみのこもった目で俺のことを見ていた。少し遅れて幼いアリスも振り返り、不安げに俺のことを見つめた。だが、その瞳はすぐに光を取り戻し、口走る言葉に勢いを与えた。
「違うわ! おじい様は変態なんかではないわ! どうしたらわかってくれるのよ!」
憎悪の目はもう俺のことを貫いてはいなかった。またアリスたちは近いところで視線を交錯させていた。どうして俺は、ハートの女王アリスにあんな目で見られなくてはならないのだろう? 誰にも気づかれないよう振舞っていたが、あの眼差しは俺の身体から力を奪っていた。刃を突き立てられたように心が穿たれ、少しでも気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだった。あいつの目には、いつだって俺を生かしも、そして殺しもする力が具わっている。
かつてないほど心が動揺し、俺は話の流れについていけなくなっていた。意識に霞がかかり、四肢に血液が行き届かなくなっていた。これはちょっと普通ではないな、と俺は思った。アリスの精神世界なので、あいつの感情が俺に与える影響が大きすぎるのだろうか?
私たちがお互いを納得させるとしたら、方法は一つしかないでしょ? とハートの女王アリスは言った。ちゃんと聞き取れた自信はないが、たぶんハートの女王アリスが言ったのだと思う。幼いアリスは、もう少し舌っ足らずなはずだから……。
クリスに腕を噛まれたとき、俺は両手両足を縄できつく縛られ、グラウンドの隅で仰向けに寝かされていた。長い時間が経過したようだった。記憶の繋ぎ目を見出すことがどうしてもできずにいると、クリスは呆れた顔で腕をぴんと伸ばし、肉球で俺のおでこを小突いた。
「しっかりするのじゃ、この愚か者めが」
「あれ……俺なんでこんなことになってるんだ……?」
「魂が抜けたようになっておったぞ。その隙に、逃走を阻止するために縛られたのじゃ。勝負がつき、うぬが有罪か無罪か決するまでのあいだな」
「しょ、勝負……?」
クリスは黙って顔をグラウンドの中央に向けた。視線を誘導された場所で、二人のアリスが対峙していた。
「アリス三番勝負――とあやつらは言っておった。次がその三番め……勝敗を決する最後の召喚対決だそうじゃ」
クリスは俺の足元に移動し、丈夫そうな縄に噛みついた。
「じゃが、勝負などどうでもよいわ。わらわが縄を噛み千切り、それでここからおさらばじゃ」
「おさらばって……この世界から抜け出す算段がついたのか?」
「女王の城の一番高い尖塔を見てみろ」
俺は言われたとおり頭を傾け、天空に挑むように突き伸びる塔の先端を眺めた。違和感がすぐに俺の脳を揺さぶった。そこだけ波打つ鏡に映し出されたように歪んでいる。目を細めると、ときたまショッピングモールの和室の光景が浮かび上がることに気がついた。
「間違いない、あそこに現実世界へ繋がる出口がある。わらわたちは本当に最悪の状況で最良の運に恵まれた。つまり、この層は前髪ぱっつん娘の精神世界の最上層だったというわけじゃ」
そっか……、と俺は言った。「まあ、そんな気はしてたよ」
アリスたちは西部劇の決闘のように、長いあいだ突っ立ったままだった。精神を集中させているのかもしれない。最後の召喚対決だとクリスは言っていた。二人はいったい何を召喚するのだろうか?
「あれ、そういえばその前の対決はどうだったんだ? これから三番めってことは、一勝一敗なのか? ってかどんな対決だったんだ?」
「それはもうくだらない対決じゃった。そしてグダグダじゃった。『かぶって叩いてジャンケンポン対決』と『魔法少女サッキュンクイズ対決』がそれじゃ。結果は二戦とも勝負がつかずドローじゃった。詳しく聞きたいか?」
「いや、なんか想像つくからいいや……」
「ときに、『魔法少女サッキュンクイズ対決』で司会進行をこなした者が、うぬが回答席にいなくて残念がっておったぞ。血塗られた悪魔とか言っておったが、知り合いか?」
「ここってあいつまでいるのかよ! あんな目に遭ったのに、アリスはなに考えてんだ!?」
グラウンドの真ん中で、ふいに幼いアリスが動き出した。水色のドレスの襟ぐりに手を突っ込み、歌がるたを取り出した。
「カワエーナ・カワイイデス!」
召喚対決が始まったのだ。幼いアリスの前に5メートルほどに巨大化したブタ侍が顕現し、ゆったりとした動作で竹刀を構えた。現実世界では最弱の魔法人形なのに、なんだかたくましく、そして凛々しくもあった。きっとアリスの精神世界だから、救いのヒーローらしくしっかり強化されているのだろう。
幼いアリスは目を輝かせてそんな偉丈夫の背中を見ていたが、急に首をきっちり45度まわして俺のことを見た。「おじい様、気がついたのね!」とアリスは言った。
俺は縄で縛られた両手を振ってみせた。それからすぐに、恥ずかしさと申し訳なさを強烈に覚えた。きっと祖父が孫の前で手錠をかけられたらこんなふうに感じるのだろう。俺は腕を背中に隠し、できるだけ自然に見えるように微笑んだ。上手く笑えたかは自信がなかった。
幼いアリスはそんな俺の気持ちを汲むように、小指を立てて俺に見せた。「大丈夫よおじい様! 私が勝ってすぐに自由の身にしてあげるわ!」、相変わらず立てる指は間違っているが、本当に祖父想いのいい子だ。そして、本当に世界で一番可愛い。もし現実のアリスと取り替えられるとしたら、俺は迷うことなくチェンジを申し渡すと思う。
そんな幼いアリスを見て、ハートの女王アリスは不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「ブタ侍ちゃんがプリティー・リトル・アリスの最強の召喚獣ね? そうね、それも全然有りだわ。けれど、私の召喚する伝説の召喚獣に勝てるかしら?」
ハートの女王アリスの召喚は、現実世界のアリスとまったく同じ仕草だった。フィギュアスケートのようにその場でジャンプをしながらくるりと回った。 そして手を高く持ち上げ、真っ赤に燃える太陽をその手中に収めた。
「フェンリルちゃんいらっしゃい!」
最後の対決が始まった。




