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俺とアリスの異世界冒険手帳~ショッピングモールごと転移したのはチートに含まれますか!?~  作者: 底辺雑貨
六部 第一章

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329 アリスの世界

 そこは見晴らしのいい丘の上だった。大きな樹木がすぐそばにあり、傘をさすように突き出した枝がぎんぎんと照らす太陽の光を遮っていた。重なる枝葉の隙間に、わずかに青い空を見ることができる。まるでヒマワリとともに描かれる絵画のような、完璧な蒼穹だった。


 俺の足元にはクリスがいた。四本足でしっかり大地を踏みしめ、駆け抜ける風に白い体毛をなびかせていた。やがてクリスは首を何度か横に振り、俺の顔を見上げた。


「わらわは巻き込まれてしまったようじゃな」とクリスは言った。「うぬが前髪ぱっつん娘の意志に呑み込まれるのに……」


 そう、俺たちはアリスの黄金色の意志に呑み込まれたのだった。





 この状況について、多くの説明が必要とされた。クリスはそんな俺の問いにわかる範囲で答えてくれた。


 ここはアリスの精神世界のようなもので、あいつの顕在的な意識と潜在的な意識が混ざり合ってできている。階層構造となっており、潜在意識の占める割合が高いほど下層に位置するようだ。何層まであるかは人によって異なるが、下に降りれば降りるほど白濁としたものになることは共通している。潜在的な意識が支配する最下層は、ほとんど何も形を留めない空白の世界らしい。


「最悪のなかで幸運に恵まれたな」とクリスは最後に言った。「天地が定められている以上、ここはだいぶ表層――つまり外の現実世界に近いじゃろう。心の奥底に潜在する意識が濃ければ、もっとあやふやな世界じゃからな。意識に取り込まれる前に抜け出せるかもしれぬ」


 抜け出せなかったら? という質問に、クリスは即座に返事をした。意識が泡のように消えてなくなり、魂の抜けた身体だけが外の世界に取り残される……。それが答えだった。


「OK、じゃあすぐに行動に移ろう。上を目指せばいいんだろ? 層のどこかに階段があって、それを上るイメージか?」

「階段かどうかは知らぬが、まあそんなところじゃろう。……にしてもうぬ、なんだか落ち着いておるな」


 たしかにそうかもしれない。こんな危機的状況だというのに、自分でも驚くほど心に乱れが生じていない。それどころか、外のどこよりも心地良くさえ感じられる。

 きっとアリスのなかだからだろう。あいつの精神が形作る世界が、俺にとってアウェイであるはずがないのだ。


「まあよい」とクリスは言った。そして一方向を肉球で指し示した。「あの森の奥に煙突が見えるじゃろう。民家のようじゃ。まずはそこまで向かうぞ」


 クリスはとてとてと歩きだし、丘の坂道を下りていった。さっきまでカラスに怯えていたのが嘘みたいに落ち着き払い、俺を導いてくれている。自分でも気づかないようだが、クリスにとってもここは温かいホームなのだろう。

 こいつが一緒で本当に良かった。リアはこうなることがわかっていて、クリスをショッピングモールの和室に連れてきたのだ。


「って……民家? おい、ここって人が住んでるのか!?」

「いても不思議ではないじゃろう。人の精神が創造する世界なのじゃからな。言わば夢のようなものじゃ」


 十分不思議ではあったが、クリスと歩いているうちに、だんだんとそんな些細なことは気にならなくなってきた。坂道の両脇に植えられている花が、方々でべちゃくちゃ喋っていたからだ。


 『やあ、元気?』とチューリップに挨拶されたり、『やあ、調子はどうだい?』とユリが尋ねてきたりした。よく見れば、バラの葉に腰かけて水タバコを吸っているイモムシもいた。それに考えてみれば、クリスも普通に話している。背反するアリスの二つの精神が生み出す空間なのだから、入り込んだ俺が世界観を気にしても仕方がない。


 森に入るまでそんな不思議な光景は続いた。のどかな草原のいたるところで様々な種類の花が軽快なトークを繰り広げていたし、ネズミとトリたちの井戸端会議も見かけた。懐中時計を手にして慌ただしく走るウサギが視野を横切ることもあった。


 しかし、一歩森に踏み入ると、雰囲気ががらりと変わった。コミカルな動植物の楽しげな声は届かなくなり、風に揺られる無数の葉のさざめきだけが密やかに音を立てていた。


 俺もクリスも自然と口数が減り、視線が辺りを泳ぎまわった。木々の枝先に大蛇が巻きついていても不思議ではないし、草むらからいつライオンが飛び出してもおかしくなかった。あるいは、ジャヴァウォックやバンダースナッチのような怪物が森を徘徊している可能性もある。アリスのことだから、きっといろいろ盛ってるに違いない。


 しかし、俺とクリスの足を止めたのはそんな異形の存在ではなかった。とつぜん獣道から躍り出たのは、虎の毛皮を胸と腰に巻き、丈夫な枝を削って造ったような槍を携える少女だった。


 切り揃えられた前髪の下で、気の強い眼差しが真っ直ぐ俺の目を射抜いている。耳にぶら下がる大きな円のアクセサリーが、威嚇するように鈍色に光っていた。


「アリスは通さない。ココ、モリとともにいきるヒトの、ばしょ。すぐ、ひきかえす、あなた」


 野生のアリスが現れた。





 槍を前に構え、アリスは警戒するように俺の全身を眺めまわした。一歩近づき、尖った槍の先端で薄手のコートの裾をめくった。


「あなた、みなれない、カッコウ。あなた、どこから――」


 急にアリスは黙り込み、全身を硬直させた。それから盛大に鼻を膨らませ、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。繋がれた糸を辿るように、アリスは匂いを遡上して俺の胸元に鼻を押しつける。そしてそこが匂いの発生源と認めると、ひゅっと後ろに飛び退り、また槍を傾ける。


「あなた、におい、イイ。きているモノ、ぜんぶぬぐ。ぜんぶ、私が、もらう。アリスは通さない」

「なに言ってんだお前……。それより、表層までどうやって――」

「ふく、ぬぐ。ぜんぶ、私が、もらう」


 クリスが小さな声で口を挟む。おいうぬ、言われたとおりにするのじゃ。創造主と同じ姿をした者に逆らえばやっかいなことになるかもしれぬ。


 アリスはじれったそうに手を伸ばし、要求を強める。


「はやく、ぬぐ。ぬがない、私ぬがせる。アリスは通さない」

「通さないのはわかったよ……。お前それ気に入っただろ……」


 俺はちょっと考えてからコートとシャツを脱ぎ、ぴんと伸びるアリスの腕に洗濯物を干すようにかけた。


「これだけでいいだろ? 現実世界じゃなくても、さすがに真っ裸になりたくねえよ」


 しかしコートの匂いを嗅ぐと、アリスはすぐにそれをゴミのようにぽいっと投げ捨てた。匂いが全然なかったみたいだ。だけど、俺のシャツを洗顔タオルのように顔にぴったり押しあてたあとのアリスは、本当に幸せそうだった。目を半分閉じ、恍惚とした表情で匂いの饗宴に身を投じていた。やがてその場に横たわり、アリスは愛しそうにシャツを抱きしめて、匂いを嗅ぎながらそこらじゅうをごろごろと転がりまわった。そして五分ほどすると、俺の前で電池が切れたようにぴたっと静止した。


 静かになった森のなかで、喜劇の幕をそっと下ろすようにクリスは言った。


「今ほど前髪ぱっつん娘をバカだと思ったことはないが、自爆してくれたのは幸いじゃ。早く進むぞ、起きたらまた面倒じゃ」


 俺はコートを拾って裸の上半身に纏い、ちょっと待つようにクリスに言ってしゃがみ込みこんだ。そして、仰向けになって寝入ってしまったアリスの頭を優しく撫でた。やれやれ、本当にこいつ、俺のこと大好きすぎるだろ……。


 幸福感に包まれた寝顔を見ていると、なんだか俺まで幸せな気分になってくる。心に火が灯ったように、温もりがそこから直に伝わってくる。俺は顔をほころばせ、もう一度手をアリスの頭に持っていく。そして十分撫でてやってから、毛皮の腰巻をじっと見つめる。


 念のために、ぺろっとめくってみた。ちゃんと純白のブタのおパンツ様を穿いていた。良かった……、と俺は心から思った。野生のアリスとはいえ、おパンツ様を着用する常識を捨て去ってはいなかったようだ。あいつが現実の世界で、俺と同様いかにおパンツ様を愛しているかがわかる。


 俺は『ショーシャンクの空に』を観たあとのように晴れやかな気持ちで立ち上がり、クリスを横に伴って山道を歩きだした。すぐにここから脱出して、お前の現実のおパンツ様を愛でてやるからな。そう俺は胸に誓った。


「うぬのことも、今ほどどうしようもないと思ったことはないな……」、少しすると、クリスは憐れむようにそう呟いた。





 そこからは特に変わった光景を目にすることもなく、俺たちは森から突き抜けるように伸びる煙突の元に辿り着いた。絵本に出てくるような、煉瓦造りの小さな家だった。


 玄関に面した庭で、小さな女の子が物干し竿から白いシーツを取り込んでいた。木漏れ日が少女の笑顔を眩しく照らし、籠に放られたシーツを金色に染め上げていた。


「あれもアリスか……」と俺は草陰から覗きながら言った。「いや、小さいころのあいつか……?」


 小学五年生の現在のアリスと比べると、ずいぶんと幼い。一年生か二年生ぐらいに見える。しばらく注視していると、小さなアリスは身体をこちら側に向けて、大きな籠を両手で抱き上げるように持った。しかし籠の編み目の隙間から目ざとく俺の顔を発見すると、黙ってそれを真下に落とした。


「帰ってきたのね!」とアリスは驚くように声をあげた。そして駆けだし、巨大な木の根につまづきながらも、真っ直ぐ俺の胸に飛び込んできた。


 どういうことだろう? 俺はアリスを抱きしめながら、この歓喜の理由や、この世界で造り出された(らしい)俺の役割を考えた。帰ってきたのね? しかし、それらしい答えを導き出せないまま、アリスは俺の胸から頭を離し、そして見上げた。


「帰ってきたのね、おじい様!」


 そう言って、幼いアリスは泣き腫らした目を手の甲で拭った。


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