327 SOS
視線は交錯したままだった。猿の幻獣――イチムネは俺の目の奥に見定めるべき何かがあるように執着し、俺はそれから目を逸らすことができなかった。
ある考えが浮かんでくる。いや、順序が逆かもしれない。思いついたことがあったから、俺はイチムネに目を向け続けていたのかもしれない。どっちでもいい。
「どうかしたんですの?」、レリアは俺の隣にすっと立ち、視線をともにして尋ねた。「イチムネがどうかしまして?」
俺はやっとのことで引きずり込まれるような視線から目を切り、レリアの横顔を覗いた。
「いや、ちょっと思ったんだけど……イチムネを通してカイルと連絡を取れたりしないかな? ほら、あいつってカイルの幻獣だろ?」
レリアは俺の顔を見てから、もう一度イチムネに視線を戻した。
「無理……だと思いますわ。わたくしも同じことを考えて、前に実行しましたの。けれどそれらしき反応はありませんでしたわ」
「そっか……」
「ウキキ様はカイル様に何か伝えたいことでもありますの?」
伝えたいこと……。SOSとでも言えば一言で理解されるのだろうか?
ガーゴイルの起動と、そしてその先に待ち受ける最後の飛来種の襲来。そしてザイルを宿主とするホワイトの存在……。カイルがいてくれたら相当心強いのにな、と俺は思う。しかし、未来から届いた十八歳のアリスの手紙によると、カイルがこの異世界に戻ってくるのは七年後と判明している。
俺が遠い未来まで敷かれたレールを切り替えられたように、うまくこの異世界の状況を伝えることによって、カイルの帰還も早められないものだろうか?
「ウキキ様?」とレリアは言う。思ったよりも考えに耽ってしまっていたらしい。
俺は何度か首を横に振る。「いや、なんでもないよ」
カイルが俺たちの世界にいることは(そして姉貴の夫になっていることは)、まだレリアには教えられない。具体的にいつなら彼女を傷つけないで済むかはわからないが、少なくとも今ではないと思う。
「変なウキキ様ですわね」とレリアは言う。そしてテーブルに戻り、幼さの残る唇をティーカップの縁にそっと添える。
アリスはシュリイルと一緒にハクを椅子に座らせ、両側に分かれて白く長い髪をツインテールに結んでいた。
「ハクはこれが一番似合うのです」とシュリイルは言った。「毎日ちゃんと自分で結ばないと駄目なのです」
「シュリとお揃い嬉しいでありんす~」とハクは手鏡を見るように、手に載せた眼球で自身を見つめながら言った。「でも自分でやるのはめんどくさいアル~」
その輪のなかにサラマンダーが加わった。シュリイルが手を振って呼んだのだ。ハクのツインテールと同じく、サラマンダーの突然の清楚な三つ編みも彼女の考案らしい。
「髪は女の子にとって命そのものなのです。大事にしなきゃいけないのです」
そう言って、シュリイルはアリスを椅子に座らせた。そして隣でよく見ておくようにサラマンダーに告げ、アリスをモデルに髪の毛の手入れの仕方を教えはじめた。まるで美容師の先生と生徒みたいだ。長いストレートの黒髪に櫛が入り、柳を通り抜ける優しい秋風のようにとかしていく。サラマンダーは熱心に実演に目を注ぎ、シュリイルの語る一言ひとことに耳を傾けていた。
そんな少女たちのやり取りを眺める、落ち着いた一対の蒼い目があった。ウィンディーネのものだ。俺は彼女の隣の席に腰を下ろし、何かが語り出されるのを待った。サラマンダーについて、いくらでもウィンディーネなりに言いたいことがあるはずだった。しかし、彼女はいつまでも沈黙を守っていた。肘をつき、手のひらに頬っぺたを乗せて、俯瞰的な眼差しを向けたままだった。
「サラマンダーと話したんだろ?」と根気負けして俺は尋ねた。「やっぱりお前のことも記憶にない感じか?」
ああ、と短く一言だけウィンディーネは口にした。それから組んでいた右脚を床に下ろし、すぐにまた左の脚を組んだ。
「ありゃ別の誰かだな。アタイの知ってるサラマンダーじゃねぇ。『お姉さんがウィンディーネなんだ! すっごく綺麗な人!』だってよ。気持ちが悪くて倒れちまうところだったぜ」
「そ、そりゃ記憶がないんだからしょうがないだろ」
「まあそれはどうでもいいさ、きっちりと役目を果たせる火の精霊でありさえすればナ。それより、アタイはあのシュリイルって皇女に関心してるんだ。サラマンダーが中途覚醒してからずっと隷属的な扱いを受けてきたことは誰も言ってねぇ、なのにそれを察知して、ああやって色々と教えてやってんだ。テメェとアリスが帰ってくる前にレリアとかいうのも誘って、風呂まで一緒に入ってたぜ。身体の洗い方やら、歯の磨き方やら……。あんな皇女がいるなら、このオパルツァー帝国はアタイが思ってたより良い国なのかもナ」
俺は曖昧な返事をして頷いた。しかし、どんなに立派な皇女だとしても、シュリイルが皇位を継ぐことは絶対にない。金色の髪とともに生まれた時点で、継承権を与えられる立場にはない。きっとカイルと同じく、今よりもっと幼いころに放棄させられたのだろう。あるいは劣等感のようなものさえ植え付けられたかもしれない。
しかしいずれにせよ、そのことは彼女の心に大きな影を落とし込みはしなかったようだ。だってシュリイルは言っていた。「髪は女の子にとって命そのものなのです。大事にしなきゃいけないのです」、と……。
白を良しとする皇室で生まれ育った少女が、あたりまえのようにこんなことを口にするのだ。金髪の自分を好きになれていなければ、決して出てこない言葉だろう。もしかしたら幾千年の時を生きるウィンディーネを関心させるのは、そういう強さがあってこそなのかもしれない。
カイルの少年時代はどうだったのだろう? と俺は思う。すぐ下の弟のザイルが第一継承者となり、恨み辛みの一つや二つは吐き出したのだろうか。そして髪色になぞらえて『金獅子のカイル』と呼称されはじめたとき、彼は何を思ったのだろう? 俺は義理の兄について、ほとんど何も知らない。
ウィンディーネはまた無言で少女たちを眺めていた。その先に、サラマンダーの屈託のない笑顔があった。
「気に入らねぇナ」
真っ白い画用紙に墨を一滴たらすように、ウィンディーネはぽつりとそう吐き捨てた。「気に入らねぇ……」
そのようにして、黒鉄城での最後の昼食会は幕を下ろした。
*
俺たちはこれから、ザイルが昨夜のうちに手配した飛空挺に搭乗し、ショッピングモールに戻ることになる。二日ほどかかってしまうだろう。時間がもったいないわね、とアリスは顔を大袈裟にしかめて口にする。アリスは自分の部屋で準備を済ませ、赤いリュックを背負って大広間でみんなを待っているところだった。
俺は顔がにやけるのを我慢しながら、アリスの顔を間近で目にしながら言った。
「って……思うだろ?」
アリスは眉を寄せて、俺の顔を見返した。「何がよ?」
「いや、時間がもったいないってことだよ……。そう思うだろ?」
しかし、アリスが返事をする前に真っ白いガウン姿のザイルが大広間に姿を見せた。シャム猫と赤ワインが似合いそうな恰好だ。輝くように白い髪は風呂上りのように、また一段と艶めいて見える。実際に目覚めてから優雅にシャワーを浴びていたのかもしれない。
彼はシュリイルと手を繋いでいた。こんな傲慢な男でも、歳の離れた妹とそんなことをするのだと俺は妙に感心してしまった。シュリイルは逆の手に小さな銀の水筒のようなものを持っていた。しかし、当然それは水筒ではなかった。
「昨晩、地下の技師が完成させた」とザイルは主語を省いて述べた。「あの馬車のように、月の欠片を切らさなければ死ビトの目を欺くことができる。試作品だが、効果は実証済みだ」
それはシュリイルの手からアリスに渡り、そして砲弾を扱うように慎重にリュックに収納された。下手をしたら爆発するとでも思っているみたいだ。
「ありがとう」と俺はシュリイルの頭を撫でながら言った。それからザイルに視線を移した。
「んで……いまだにそんな格好ってことは、あんたは一緒にショッピングモールに行かないのか?」
「無論だ。おれは北の大地に至急向かわねばならん」
「精霊王になるために、大魔導士アリューシャ様から認印を貰いに……ってことだよな?」
ザイルはそれについて何も答えなかった。きっと言うまでもないことなのだろう。
アリスとシュリイルはまだ集まらない連中の様子を見に、大広間から出ていった。広い空間に俺たちだけが取り残され、熾火が暖炉のなかでいやに大きな音を鳴らしていた。
長い時間が経ってから、ザイルは決意を打ち出すように声をあげた。
「死ビト除けなど必要ない。元来おれはそう考えている」
死ビト除け……たぶん銀色の筒のことだろう。彼は続けざまに短い問いを投げかける。ウキキ、お前はおれが言ったことを覚えているか? 覚えている、と俺は言う。この世界の人々を一段上に引き上げ、死者に勝る強さを獲得させるという、彼の行動理念のことだと思われる。無駄話を聞かないのと同時に、無駄な説明も省くことを信条とする男なのだ。そういう意味では、月の女神リアと少し似ているところがあるかもしれない。
「魔光銃は良い、あれは打ち勝つための武器だ。しかし死ビトから逃げるための装置をおれは好かん。それでは強さに辿り着くことはできん。戦って勝利する、あるいは敗北する。紙一重の生と死を繰り返して人は強さを獲得する。それが種としての力になっていく……。お前はそうは思わんか?」
言っていることはよくわかる。言っていることはよくわかるよ、と俺は言う。「でも、どうしたって得手不得手は存在すると思う。戦うことが苦手な人にとって、それを強要されるのは死ねって言われてるのと一緒だろ? 全員が強くなれるわけじゃないんだ。そして、あんたの表現を借りるなら、『弱き者』にとって死ビトを寄せつけない装置は生きる確率を上げるすごくいいものだと俺は思う。もちろん戦う力がある人間にとっても便利なものだ。……だから、あんたは出来立てホヤホヤのあれを俺たちにくれたんだろ?」
もしかしたら、と俺は考える。このオパルツァー帝国に降り立って、俺とアリスが感じたこと。ここの人々はミドルノームやファングネイ王国の民と比べて、円卓の夜だというのにどこか楽観的に映った。笑顔の質がとても高い位置にあった。それはザイルが言っていることに通じているのかもしれない。なまじ便利な馬車があるので、恐怖を忘れてしまっているのかもしれない。それは強くなるための原点を失っているのと同じだ。良し悪しはともかく、ザイルの言いたいことは本当によくわかる。
ザイルは俺が話したことについて返事をしなかった。ふっと笑い、背中を向けて俺の前から離れていく。そしてすぐに立ち止まる。長い後ろ髪を振って身体ごと振り返る。
「強き者――ウキキ。しかし戦えば得られる命もあった。逃げなければ、後ろから剣で心臓を一突きされることもなかった。おれは考えを変えるつもりはない。人々は鞭で打たれながらも強くなるべきなのだ」
後光が彼の背を眩しく照らし出す。黄金色の意志だ。ザイルのそれはあまりにも美しい。きっと天国みたいなところは、こういう光に包まれているのだろう。俺は声を失ってしまいそうになる。しかし、自然と言葉が形成される。自分の口から発せられたとは思えないぐらい、とても滑らかに。
「あんたはそうやって大事な誰かを失ったのか? だからそんなにも頑ななのか?」
やはり返事はなかった。光が遠ざかっていき、扉を開けて、扉を閉めた。
アリスとシュリイルがみんなを引き連れて戻ってきたのは、それからすぐのことだった。
――そしてその五分後、俺とアリスはショッピングモールのゲームコーナーに立っていた。




