324 この手に太陽
サラの意識が明瞭になったのは、自分の首に巻かれた拘束具が引っ張られたときだった。
ここはどこだろう? あたちは誰だろう?
何も思い出せない。少女には、さんさんと照りつける太陽だけが懐かしく思える。そのほかはいっさい憶えていない。いや、そもそも最初から記憶なんて何もないんじゃないかと少女は感じる。
サラは小さな台に乗せられている。大勢の人々から様々な種類の視線を投げかけられている。珍しいものを見るような目もあれば、食い入るようなものもある。奇跡を目の当たりにしたときのようなものもある。それに、畏怖するように目を細め、『化物』と口走る者もいる。
しかし、サラには自分がそんな目で見られる理由を思いつけない。自分の頭の上あたりに視線が集中していることに気づき、そこに触れてみようと考える。だが、鉄製の錠がその動きを阻んでいる。あたちのここにいったい何があるんだろう?
やがて、横に立つ男が声を張りあげる。
「さあさあお客さん方、いつまでも見てるだけじゃ日が暮れちまうよ! そろそろ値をつけてくれ、なんてったってあの四大精霊のサラマンダーだ、金貨五枚からのスタートだよ!」
サラはだんだんと上がっていく金額を聞くともなく聞きながら、自分が今どういう状況にあるのかを悟る。
ああ、あたち売られようとしてるんだ……。
そのことは特に少女を絶望させない。現在に絶望することができるのは、なんらかの過去をしっかりとその手に握りしめている者だけだ。自分のことが何ひとつわからないなら、ただ漠然と未来を潮流にのせるしかない。
しばらくすると、少女は熱狂する人々を見ながら、心からの疑問を覚える。
なんで自分が誰かもわからないヘンテコなあたちを、みんなこんなに欲しがってるんだろう?
五十数枚の金貨が支払われ、サラは肥えた醜い男に買われる。男はサラの首輪から伸びるチェーンと手錠の鍵を受け取ると、足早にサラを連れてその場所を後にする。
しかし、男はサラを自分の所有物にするつもりはなかった。使った金額よりも高い金で売りに出すことを目的としていた。
「海の向こうなら、この三倍はつくだろう……」、サラに聞かれているのを知ってか知らずか、男は緩慢に歩を進めながらこんなことを呟く。
サラはそれから二日間、男の豪邸の地下に閉じ込められる。自分の記憶の器は本当にからっぽなんだと思い知るには十分な時間だった。頭にあるものにもやっと触れられた。サラには最初それがなんなのかわからなかったが、桶に張られた濁り水に映った自分を見て、それが角であることを知った。
こんなの誰の頭にもなかった。あたちにしか生えてない……。だからあたちは『バケモノ』なんだ……。
奴隷商の男らに引き渡されたのは、三日めの早朝だった。サラは小さな檻に入れられ、船に運ばれた。これから海を渡り、この南の国以外のどこかで降ろされるのだ。そして、そこにいる誰かに金貨百五十枚以上で売られるのだ……。
どこだろう?
どんな人だろう?
あたちはそこでどうなるんだろう?
サラの心臓が急激に鼓動を速めた。血液が身体のなかを急速に巡回し、隅々まで酸素を運び入れた。そして、少女の小さな身体に変化の兆しが顕れた。
奴隷商の男が(それは俺が火傷の治療をしてやった男だった)檻から立ち昇る蒸気に気づき、怪訝な顔をして近づいた。こもった煙をうっとうしそうに手で払い、檻のなかを覗き込んだ。
そこにはトカゲがいた。男は驚いて声をあげ、じりじりと後ずさった。それから少しすると平静を取り戻し(あるいは取り戻したふりをして)、また檻に近寄った。顔をしかめて鉄柵を蹴飛ばし、「化物め……」と吐き捨てるように男は呟いた。
サラはそれを薄っすらとした意識のなかで耳にした。バケモノ……、と内奥の少女は繰り返した。意識がだんだんと遠退いていく。醜いトカゲが地べたを這いずりまわり、少女の身体が天に召されるように空高くまで昇っていく。失いつつある意識のなかで、サラはそんな情景を目にする。
あたちがバケモノだから、きっと神様が偽物の身体を取りあげたんだ……。
そして、サラは気を失う。これが少女の経験した最初の変貌だった。
*
サラはそこまでを話すと、おぶられている俺の背中で小さく息をついた。首筋に湿った吐息を感じた。それと同時に、八咫烏によって物語を鳥瞰していた俺の意識も表面に浮上し、やがてコーヒーに注がれたミルクのように現実性と混ざり合っていった。
俺は一度立ち止り、背中からずり下がってきたサラの身体を持ち上げ、安定させた。そして再びレリアが懐中電灯で照らす坑道を歩いた。
「それからあたちは――」
また俺の意識はこの世界から乖離し、物語のなかに深く沈み込んでいった。
船が出港してから十八日が過ぎた。サラはそのあいだ、ずっと柔らかな陽のあたる甲板の狭い檻に閉じ込められていた。食事も水もろくに与えられていない。唇は渇き、頬からは赤みが失われ、目に沈んだ影がたたえられている。頭の角は干乾びた大地に横たわる死んだ枯木のように、本来そこにあるべき潤いを奪われていた。
あるいはそれは、サラの力を抑えつけるためなのかもしれない。サラマンダーがいつ自分に牙を剥くかわからない、奴隷商は実際に目の前でトカゲになった少女に対し、そんな恐れを抱いているのかもしれない。取引相手に渡すまで死んでさえいなければ、商品の価値は損なわれない。きっとどこかの段階でそういった判断を下したのだろう。
サラは檻の端に脚を伸ばして座り、自分の特異性について考えていた。しかし、もう上手く思考の中心を捉えることができなかった。奴隷商の男が生死確認のために、棒きれでサラの肩を激しく打っても、その感覚はサラの脳に正しく伝わらなかった。男はサラのまぶたがかすかに動いたのを見ると唾を吐き、口元に歪んだ笑みを浮かべて去っていった。
その男の後ろ姿に、虚ろな視線が投げかけられた。
あのヒトにはツノがない……。あたちにしかない……。
あたちは醜いトカゲ……。あたちはバケモノ……。
衰弱した少女のなかから、生きようとする意志が確実に消えつつあった。それに手を伸ばし、引き戻す術を少女はまだ身につけていない。力なく身体を横たえ、サラは硬い床に頬を落とした。
あたちはこれからもずっとひとりぼっちなんだ……。ナカマも、トモダチも、ミカタも、きっとこの世界のどこにも――
そのとき、少女は自分の頬に温かい光を落としている存在に気がついた。空に燦然と輝く太陽だった。手のひらをかざし、指の隙間から目を細めてそれを覗き込む。少女の赤い目に煌めきが宿り、自然と口許がほころんだ。
ずっと、あたちに降り注いでくれてたんだ……。
身体を起こし、サラは太陽を見上げた。その眩しさは少女にとって、どんなに深いところでも照らし出す祝福のように感じられた。自分のことがわからない、こんなバケモノのあたちでさえも……。
仲間とは呼べないかもしれない。友達になれるとも思えない。味方でいてくれるとも限らない。だけど……、とサラは思う。
だけど、ずっとあたちのすぐ近くにいてくれる存在があったんだ……。
射し込む眩しい光を見ていると、サラは突然この世界のどこかから発せられる気配を感じ取った。それはちょうど三角形のように、三方向に別れていた。
サラは静かに目を閉じ、意識を集中させる。気配はより強く、より鮮明に頭のどこかに描き出された。
あたちと同じ感じがする……。誰だろう? 会いにいかなくちゃ……。
それは少女にとって初めて心に灯った希望の火だった。あたちは一人じゃないかもしれない。あたちがなんなのか、このヒトたちが教えてくれるかもしれない……。
しかし、檻の内側の少女にはどうすることもできなかった。
だから、懸命に耐えることにした。それが今、サラに唯一できる前向きな行動だった。空腹と喉の渇きを我慢し、絶望をどこかに追いやる。生きる意志をなんとか奪い返す。それができたからといって、何がどうなるわけでもない。しかし、それでもサラは目の前が少しだけ明るくなったのを感じた。
荒れ狂う嵐が船を転覆させたのは、その日の夜だった。
*
坑道の外から漏れ入る陽光を目にしたころ、サラはもう話を終えてすやすやと眠っていた。レリアは少し背伸びをしてその寝顔を見つめ、やがて安心するように微笑んだ。
「ウキキ様の背中は寝心地がとってもいいようですわね。今度わたくしも試させていただこうかしら?」
「ああ、いつでも歓迎するよ」と俺は言った。そしてサラの寝息を聞きながら続けた。
「サラが流れ着いたのがシルフ族のいるミドルノームって、なんか運命めいたものを感じるな……」
「そうですわね」とレリアは言った。「けれど、アリスに保護されたショッピングモールから抜け出しても、そこまで辿り着けずに奴隷商に捕まってしまった。そしてまた鎖で繋がれた……。ツイてなかったと言えばそれまでだけど、アリスを信頼して打ち明けていれば、また酷い目に遭うこともなかったですわね……」
「まあ、急にそこまで人を信用しろっていうのも無理な話だったのかもな……」
ミドルノームで捕えられたあと、サラは海を渡ってこの帝国領の西南端の街に連れてこられた。しかし隙を見て逃げ出すことに成功し、今度は一番近くにあるウィンディーネの気配を辿った。だが奴隷商にまた捕獲され、そして今に至る。
レリアは悲しそうな顔で俺の首にまわされたサラの腕に触れた。そしてそこにある傷や打撲の痕を、まるで魔法の薬を塗り込むように指先で撫でた。
「わたくし、許せませんわ」と静かにレリアは言った。「こんな小さな女の子を売り物にするなんて……。あの男たちを痛い目に遭わせないと気が済みませんわ」
「お前が手を出すこともないだろ。南の国以外じゃ、奴隷制度はとっくの昔に廃止されてるんだろ? だったら帝国兵にでも突き出せば、罪人として――」
俺はそこで口を閉ざし、レリアと目配せをして頷いた。坑道の入り口に置いてきた奴隷商の男二名が消えているのに気づいたからだ。噴水の水の包帯の効力で怪我が癒え、逃げ出したのかもしれない。あるいはサラを取り戻そうと、その辺に身を潜めて襲撃の機会を窺っているのかもしれない。
俺たちは相手を油断させるために自然な会話を続け、慎重に外に出た。
しかしそこにいたのは、綺麗な音を響かせオウス・キーパーを鞘に収めたアナだった。
「心配したぞ、二人とも。無事サラマンダーを救出できたのだな?」
アナはなんでもなさそうな涼しげな表情でそう言った。その足元で男らが剣を落とし、腹痛にもがき苦しむ人のように膝をついて呻いていた。「それで、この者たちは叩きのめして良かったのだろうか?」
レリアは楽しそうにふふっと笑った。「ええ、おかげでスカッとしましたわ」と彼女は言った。




