番外編 ブラッド・バンク sideアリス
リアはもう、自分が双子の月の女神の妹だと名乗ったみたいだった。けれど、それにしてはザイル……なんとかオパルツァーの態度が素っ気ないように思えた。彼は相変わらずソファーに座って脚を組み、行間なくびっしり文字が詰められている本のページに目を落としていた。オパルツァー帝国の第一継承者が学んだ帝王学には、『汝、驚くべからず』という項目があるのかもしれない。
私はロールケーキを少しずつ食べているリアの隣に座り、ザイルに負けないほど高貴な家に生まれたスーパーお嬢様らしく、落ち着いてリアに尋ねた。
「リア、あなたいつの間にこの飛空艇に乗り込んでいたの?」
「さっき」
「さっきって、ずっと高い空の上を飛んでいるのよ!?」
「ツキのメガミにとってコウドはそれほどじゅうようではない」
「ジャンプしたということ!?」
リアは私の問いかけには答えず、フォークをお皿の上に音を立てずに置いた。そしてすっと視線を正面のザイルにもっていき、そこから少しだけ横にずらした。
「わたしがここにきたイミをかんがえるといい。ケイコクはいちどきり。にどめはない」
抑揚のない声は不思議とよく透り、シャボン玉が割れたようにぷっつりと残響なく消えていった。ザイルはページのあいだに栞を挟んで本を閉じると、ふっと笑いながら立ち上がった。
「幼き女神のありがたい啓示だ、しっかり脳に刻んでおけ」
状況がわからない。ザイルは今の発言を誰にしたつもりなのだろう? ここには私とリアとザイルしかいない。もしかして、私に言ったのかしら?
飛空挺がどこかに着陸したらしく、私とリアの体が同時に揺れた。ザイルはリアのことを青い目で一瞥し、ハンガーに掛けられているロングコートを素早く身に纏った。
「吸血鬼の城に到着したぞ、さあハイデルベルクとご対面だ」
そう言って、彼は黒いコートの裾を翻して部屋から出ていった。
*
ハイデルベルクというのは城の持ち主で、左右違う色の目が印象的な男性だった。瞳はどちらも象牙色なのだけど、結膜が綺麗に白と黒の対になっているのだ。まるでピアノの鍵盤のようね、と私は思った。年齢は四十ちょっとに見えるけれど、正確なところはわからない。
私とリアとザイルは門番のいない城門を通り、長い通路を歩いてこの謁見の間までやって来た。ここまで誰にも会わなかったけれど、数多くの蝙蝠に見られていたので無人という気はしなかった。蝙蝠は闇のなかを飛び回ったり、羽をたたんで逆さになって休んだりしていた。まあ、おおむね私のイメージしていた吸血鬼の城のまんまだった。
ハイデルベルクは玉座で私たちを待ち構えていた。「オパルツァー帝国の正当なる後継者よ、よくぞ参った……」と彼は言った。どことなく不安定な響き方をする声で、それは私に暗いトンネルの奥深くから聞こえてくる叙事詩を連想させた。
「それで、そちらのお嬢さん方はどなた……かな?」
彼は上唇を片方だけ釣り上げてにやりと笑った。覗かせた長い牙は、いつだって新鮮な血を渇望していることだろう。
ザイルは壇上に飛び上がり、玉座の前に立った。
「おれの連れだ、味見は許さん」
「まさか、まさか……。そんな下衆な真似を我がするとでも……?」
「したことがないとでも言うのか?」
ハイデルベルクは記憶を手繰り寄せようとするみたいに、あごを持ち上げて高い天井を見上げた。「なくは、ないな……」と彼はしばらく後に言った。
ザイルはそれに取り合おうとせず、手にしていた大きな布袋を彼の足元に放り投げた。コインのようなものの触れ合いと、ずっしりした重みのある音が同時に聞こえた。
「金だ、さっさと数えさせろ。利子を含めて金貨二千、銀貨七百五十ある」
興味のないものを見るような目で、ハイデルベルクはしばらく足元にあるものを眺めていた。
「ああ……いやだ、いやだ。ヒトはすぐに金の話をする……」
「そして吸血鬼は血の話をする」とザイルは言った。「戯言は抜きにしろ。おれは吸血鬼の眷族に成り果てるつもりはない。今日の日没が返済期限だったろう?」
不満げに眉尻を下げて、ハイデルベルクは仕方なくといった様子で頭上の蝙蝠を六匹呼び寄せた。蝙蝠たちは布袋に群がって噛みつくと、懸命に小さな翼を羽ばたかせて奥へと消えていった。
「ああ……惜しや、惜しや……」と手のひらで顔を覆って彼は言った。そして指のあいだからザイルのことを残念そうな目で覗き込んだ。「我はオパルツァー帝国の血脈が欲しかった……。そなたは、さぞや、良き眷属になったことであろう……」
ザイルは踵を返して壇上を歩き、縁まで行ってそこで片膝を立てて座り込んだ。返事をする気がないと見て取ったのだろう、ハイデルベルクはその背中にまた続けて語りかけた。
「しかし、かなりの物入りだったのだな……。そなたの血に融資した額は、街を一つ二つ買い叩けるほどであろう……。何にそんなに使ったのだ……?」
「屍教に用立ててやったのがほとんどだ。それでも半分も減らなかったがな」
「そして、皇帝陛下の金で返済か……。オパルツァー帝国の継承権は、その輝く白い髪のほかに、放蕩であることも条件なのかな……?」
「言ってろ吸血鬼。貴様は血を担保に金を貸し、利子でたんまりと儲ける。返済できなければ眷属として取り込む。どっちにしろ得るものしかないだろう、負け惜しみを口にする立場とは思えんが?」
私はザイルの話をなんとなく聞きながら、玉座の真ん前まで歩いてハイデルベルクの右目を熟視した。というのは、慧眼として名高いアリス・アイが、彼の白い眼球に奇妙な黒い筋のようなものを発見したからだ。
「これ、文字よね?」
「おお、よくお気づきで、お嬢さん……」
ハイデルベルクはわざわざ目を見開いて見せてくれた。石版を錐で削ったような細い文字が、乳白色の瞳を中心にして放射状に刻まれている。目を凝らすと、それが六人の名前だということがわかった。
「債務者の、名だよ……」と吸血鬼は言った。「ごらん……? そこの第一継承者の名も、ちゃんとあるだろう……?」
私は頷く。『ザイル・ミリオンハート・オパルツァー』としっかり刻み込まれている。
ハイデルベルクは唇をいびつな形に曲げて笑い、それからまた口を開いた。
「期日までに返済すれば、名はここから消失する……」
そう述べると、今度は左目を指で大きく開いて見せた。乳白色の瞳を除き、結膜全体が墨のように真っ黒い。
「返せなければ、こちらに移動する……。蟲のように、自律して動くようになるんだよ……」
そこで初めて気がついた。彼の左目が黒いのは、幾千もの名がそのなかでひしめいているからだ。よく見ていると、それぞれの名がかすかに蠢いて、全体的な黒みが変化していくのがわかった。まるで風が砂浜の砂を少しずつ吹き散らしているみたいだ。
「そして、名が右目から左目に移動すると――」
ハイデルベルクは人差し指をザイルに向け、先っぽをわずかに持ち上げた。ザイルのコートの襟がめくれ、首の付け根にある薄い吸血痕があらわになった。
「あの仮押さえの痕――甘噛みとでも思ってもらってよい――が、債務者を我が眷族へと変貌させる。めでたく……ね」
彼は鋭い牙の根元まで見せて愉快そうに笑った。そしてザイルが振り向くと、ぴたっと笑い声がやんだ。
「まるで、もうおれを手に入れたとでも思っているかのようだな。蝙蝠どもにゆっくり金を数えろと命じてあるのか?」
「まさか、まさか……。我は契約事には誰よりも真摯であるつもりだよ……。同時に、権利に対してもね……」
私の目の前にどこからともなく一匹の蝙蝠がやってきた。そして、私のまわりをぐるぐると周りだした。
「この蝙蝠ちゃん、どうかしたの?」と私はハイデルベルクのほうを向いて尋ねた。
「ナディアというんだ。彼女はヒトだったころ、南の国で歌姫と呼ばれていた……。今では血を鑑定する、優秀な我が眷族だよ……」
下げていた右手の指先にちくっとした痛みを感じた。手を持ち上げてみると、ナディアが私の中指に噛みついていた。
「ぎゃあああああああああ!」
手を必死にぶんぶんと振ったが、ナディアは放そうとしない。
「ちょっと! 噛みついてきたわよ!」
ハイデルベルクは私の訴えを無視してにやにやと笑い、ザイルはなんでもないことのようにこちらを見ていた。リアに至っては、もうずいぶん前からこの場所に飽きて、地面に指で絵を描いている。
私は新体操のリボン競技のように、動きまわって手をくるくると回転させながらザイルに大声で言った。
「ちょっとあなた! 見ていないで助けなさいよ!」
「みっともなく騒ぐな。おれたちはこのブラッド・バンクに足を踏み入れた時点で、血の鑑定を了承している。だいいち、たいして痛くもないだろう」
「聞いていないわよ、そんなこと!」
「訊かれなかったからな」
やっと私の指を解放すると、ナディアはすぐに丁寧な言葉使いで謝ってきた。蝙蝠が喋るということに少しだけ驚いたけれど、私ぐらいになると、こんなことでみっともなく騒いだりはしないのだ。
「それで――どうだね、お嬢さんの血の味は……?」とハイデルベルクが彼女に尋ねた。
「はい主さま。これはなんというか、とても不思議な味です。わたしはこれに近い血を味わったことがあると思います。けれど、いつだったかはわかりません。最近の気もしますし、遠い昔のような気もします」
「珍しく抽象的……だね?」
「ごめんなさい……。けどなんだかかすみがかっているんです。この世界には通常あり得ない血のような気がしますし、この時代には存在し得ない血のような気もします」
世界一可愛い特権階級のお嬢様、だからかしら? 私はうんうんと頷きながらナディアの鑑定結果を聞いていた。ハイデルベルクは次に血統のランクを訊ねた。SSSだとナディアは即答した。その上はもう存在しないらしい。うんうん、当然ね。
ハイデルベルクの私を見る目つきが、わかりやすいぐらいわかりやすく変わっていた。ハアハアと気持ちの悪い息を牙のあいだから漏らしている。彼は私をアルティメット・眷属として迎い入れたいのだ。まあ当然のことだけれど。
「主さま、あの幼女の血も鑑定しますか?」とナディアはリアのほうを向いて尋ねた。彼女の主は私に夢中でしばらく声に気づかなかったが、三回目の同じ質問でようやく落ち着きを取り戻して頷いた。
ナディアがゆっくりとリアのところまで飛んでいくと、リアはすっと立ち上がった。そして目の前までやって来たナディアを、躊躇なく手のひらでびたんと叩き落とした。
「わたしのチはすわせないほうがいい」とリアはハイデルベルクを見やって言った。「ヤミにぞくするモノにはドクでしかない」
涙目になったナディアがよれよれと羽ばたいて闇のなかに消え去ると、ハイデルベルクの視線がザイルに移った。
「何者なのだ……?」と彼は訊ねた。「どうやらヒトではないようだが?」
「本人に訊け。それでも名乗らんのなら、貴様が知る必要はないということだろう。おれには現れるなり言ってきたからな」
ふむ……、とハイデルベルクはつまらなそうに呟いた。「まあよい。なんにせよ、我はヒトではない眷族は望まぬ……」
彼は玉座から立ち、夜空の小さな星の光を求めるように、遠く手を差し伸べた。
「我が懇望するは、弱く儚き徒花が生まれ変わりを遂げ、誇り高く咲き誇るその姿なのだよ……」
まるで舞台劇を見ているみたいだった。台詞もポーズも表情もびしっと決まっていた。けれど、拍手をする気にはならなかった。吸血鬼の考えには賛同できなかったからだ。
ハイデルベルクがまた玉座に腰を落ち着けると、ザイルのお金を数えていた蝙蝠が一匹で戻ってきた。素早い耳打ちのあとに、ハイデルベルクは悲しそうに何度か首を横に振った。
「債務者ザイル・ミリオンハート・オパルツァーよ……」といかにも仕方なさそうに彼は言った。「我とそなたのあいだに結ばれた血と金の契約は、そなたの完済をもって終了とする……」
彼の宣言は薄らとした光とともにあった。右目が微弱な輝きを浮かべているのだ。そこから名が解放されようとしていて、きっとこの光は左目に移らなくて済んだ名前の喜びの形なのだろう。
私は近づき、光のおさまった右目を覗き込んだ。ハイデルベルクは見開きこそしなかったけれど、ちゃんと見やすいように顔を傾けてくれた。
ザイルの名前はなくなっていた。瞳から放射状に伸びていた六名の名は五名に減り、それにあわせてそれぞれの間隔も広がっていた。扇風機の六枚羽が五枚羽になったみたいな感じで。
私は振り返り、ザイルに言った。
「良かったわね! あなたの名前消えているわよ!」
ザイルはふっと笑い、壇上から飛び降りて謁見の間の扉まで歩いていった。「さっさと飛空挺に戻るぞ、爺やが遅い昼食を用意しているはずだ」と彼は言った。
リアのところまで戻って手を繋ぎ、私はザイルのあとを追って歩き出した。その瞬間、どういうわけか、私の注意が再びハイデルベルクの右目に引きつけられた。
知っている名前があった気がするわ……。
今になって、私の脳が五枚羽の一つに疑問符を貼り付けている。ちゃんと意識して見たわけではないので、はっきりしたことはわからない。それに、ファミリー・ネームだけで、それも偶然でしかないかもしれない。あるいは気のせいかもしれない。
もう一度見せてもらおうかしら? と私は思う。けれど、すぐにリアが私の手を引っ張って歩を前に運びだす。
「あのロールケーキはなかなかわるくない」とリアは言う。「アリスはふりかえらないほうがいい。それはウキキのやくめ。アリスはつきすすむべき」
リアの言葉は不思議と私を納得させる。私とあの人、それぞれにちゃんと役割があるのだ。そう考えていると、私はたまらないぐらいあの人の声が聞きたくなってくる。そして、私が感じている以上に、あの人も私の声を聞きたがっているのだと私は確信することができる。
扉から出ようとすると、ハイデルベルクが私の背中に声をかけてきた。
「SSSのお嬢さん……。もしご入り用になったら、ぜひこのブラッド・バンクを頼っておくれ……。第一継承者より多くの融資も、お嬢さんなら可能だよ……」
*
飛空艇がオパルツァー帝国に到着したのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。私は空から発着場にいるみんなの姿に手を振った。アナが小さく手を振り返し、レリアがつんとした表情の隅っこに笑みを浮かべ、スプナキンがトンガリ帽子を風に揺らせて丸眼鏡の縁に手を添えていた。チルフィーは蝶のような羽根をぱたぱたとさせ、いち早く私を迎えに来てくれた。
「おかえりであります!」とチルフィーは私の頭の上に座って言った。「ウキキたちはもうルザースから戻ってるであります!」
ええ、見えているわ! と私は言った。ガルヴィンと並んで、あの人は心配そうな顔をして私のことを見つめていた。
空高くから小さなあの人のことをアリス・アイに映していると、私はなんだか心から安心することができた。ふわふわな毛布を一枚体にかけてもらっているような気持ちだ。豆粒大でも私にそう思わせることができるのだからなかなかたいしたものだわ、と私は思った。そろそろアリス・スペシャルズのナンバーを与えてあげてもいいかもしれない。
そして、なぜかリアも既に発着場にいた。私は彼女が言っていたことを思い出し、驚かないことにした。
そう、月の女神にとって、高度はそれほど重要なことではないのだ。




