番外編 二人の冒険手帳 sideアリス
うしろから、そっと肩に手を置かれた気がした。けれど振り返ってもそこには誰もいなかった。
私とあの人の囁きが風に乗って届けられなくなった原因は、きっといま感じたことにあるのだろう。だから私は目を凝らしてそこに『いる』ものを見ようとした。けれど、それを目に捉える前に機械室の扉が開いた。
「隠れているのはわかってる。泳がせておくつもりだったが、気が変わった。外に出て来い」
私は少し迷ってから、ぴんと伸ばした腕を声のほうに向けて物陰から飛び出た。輝くような白い髪を私は目にした。私がこの飛空艇に忍び込んだ目的の相手、ザイル……なんとかというオパルツァー帝国の第一継承者だ。オールバックから漏れた前髪の一部が、まるで稲穂のように垂れている。後ろ髪は腰に届くほど長い。
「私をどうするつもり!? 捕まるぐらいならここで戦うわ!」
「戯言を聞くのは時間の無駄だ。ついて来い、客としてもてなしてやる」
「どうやってもてなしてくれると言うの!? オレンジジュースはあるのかしら!?」
ある、とザイルは言った。だからというのではないけれど、私は大人しく従うことにした。油断させておいたほうが色々と聞き出すことができるだろう。うふふ、あの人は知らないけれど、私は頭脳プレイも得意なのよ。
何人かのクルーに好奇の目で見られながら、私はザイルのあとをついていった。甲板に出て白い雲の真横を歩き、船体の一番奥に位置する階段を下りてこじんまりとした部屋に入った。
ザイルは革張りのソファーに腰を下ろし、私にはガラスのテーブルを挟んで正面のソファーを勧めた。座ると、すぐに質問をしてきた。
「まず聞いておく。アリス、お前は何故この飛空艇に忍び込んだ?」
「私の名前を憶えているのね。ということは、あの屍教の砦であなたに酷い目に遭わされたのが私たちだとわかっているのね?」
「当然だ。あれから何が起こったのかもおおよそ把握している。ウキキ――といったか? あれが元いた世界に一度還り、また戻ってきたこともな」
「そこまで知っているの? 調べたということかしら?」
ザイルは黙って長い脚を組み、冷たい光を宿す一対の目で私のことを見た。感情を宿さない、あるいは宿していても最後まで隠し通すことのできる瞳だ。
「いいわ、まず私がここに忍び込んだ理由を答えてあげるわ」と私は言った。「昨日の夜、ステレイン家の家督があなたとの会談を私たちに約束してくれたの。けれど、しばらくしてから今日明日の話ではないことがわかったわ。あなたと公式の場で話をするのは、どんなに早くても三か月後になってしまう。……第一継承者って随分と忙しいみたいね。けれど、私たちはそんなに待っていられないわ。公式が無理なら、非公式で会うしかないじゃない。だから私は夜のうちから機械室に隠れておいたの。あなたは今日、この飛空艇でブラッド・バンク――吸血鬼の住む城に向かうという情報を手に入れたからよ」
目が細められ、かすかに頷くみたいに顎が少しだけ引かれた。感心するように腕を組んだ。
「その幼さにしては、それなりに筋道を立てて話ができるみたいだな」
「馬鹿にしないでちょうだい! テストでは百点しか取ったことがないわ!」
ドアがノックされ、飲み物や厚く切られたロールケーキが運ばれてきた。私は執事のような恰好のおじいさんにお礼を言ってからオレンジジュースをひと口飲み、また静かにコップをコースターの上に戻した。ロールケーキには手をつけないでおいた。
「おれの前だからと子供が遠慮をするな」とザイルは言った。「古くからオパルツァー帝国の名物とされているものだ。おれの口には合わんがな」
「べつにあなたに遠慮なんてしていないわ。まだ話が終わっていないだけよ」
「ならば訊こう。では何故あそこに隠れていた? おれと話をしたいなら、正面から飛び込んでくる無鉄砲娘だと理解していたが?」
「甘いわね、私は日々進化しているの」、私はソファーから立ち、右手で包んだ左手の人差し指でザイルを指差した。「帝国の第一継承者が吸血鬼の城に朝から出向くなんて、怪しい匂いがプンプンするわ! 城に着いたら尾行して、そこに隠された陰謀をあばくつもりだったのよ!」
彼は変わらない表情で私のことを見ていた。きっと悪事が私に悟られて、内心ひやっひやなのだろう。私は腰を下ろし、またオレンジジュースをひと口飲んだ。
「陰謀とは大きく出たものだ。その冒険心を踏みにじりたくはないが、お前の期待していることなど何もない。ブラッド・バンクはあの屍教の砦で例え話に引用したとおりの取引相手だ。覚えていないのならもう一度教えてやる。ただ血を担保に金を貸す男がいるだけの場所だ」
「血を吸わせてお金を借りるということ?」
「まあそんなところだ。あとは実際にその目で確かめろ」
十秒か十五秒、沈黙が続いた。私はそれを望んだわけではなかった。話そうとしていたことが、すっぽりと頭から抜け落ちているのだ。それに気づくのに、それだけの時間が必要とされた。
「どうした?」とザイルは言った。「会談を望んだなら、おれに用があるということだろう。今ここで話してみたらどうだ?」
私は腕を組んでソファーからすっと立ち、空いたスペースまで歩いてそこでアリス体操を行なった。そしてまたソファーに戻り、ゆっくりと深呼吸をしてからザイルの目を見た。
「駄目だわ! まったく思い出せないわ!」、私は水平の手をおでこの下のあたりにあてた。「このへんまでは出ているのだけれど!」
奇妙なことが起こっている。飛空挺に忍び込んでまで訴えかけなければならないことがあったはずなのに、それがなんなのか忘れてしまっている。四大精霊、精霊王、ガーゴイル……そんな字句がまるで星屑のようになって、夜空に散りばめられている。私はそれを繋ぎ合わせることができない。それに、ついさっきあったおかしな現象もなんだったか覚えていない。うしろからそっと肩に手を置かれた気がした。だからなんなのかしら? と私は思う。
「オンジョージ・アリス」とザイルは一音いちおん確認するように私のフルネームを口にした。「ならばおれが訊ねよう。お前はここではない世界で生を受けたはずだ。だが、お前からはこの星に住む者と似たマナの流れを感じる。これはどういうことか説明できるか?」
「マナの流れ? それは私がどこの世界でも世界一可愛いことに関係しているのかしら?」
ザイルは何も言わずに脚を組み直し、テーブルの上の本を手に取って読み始めた。「まあいい。ブラッド・バンクで明らかになるかもしれん」とページの端に目を落としたまま彼は言った。
そのために私をお客として迎え入れたのかしら? けれど、もう何を訊いてもまともな返答はなかった。私は仕方なくロールケーキを食べ、それからその美味しさを語彙豊かに表現して彼に伝えた。彼はかすかに頷き、細い指先でまたページをめくった。
「ちょっとあなた! それがお客に対する態度なの!? 全然おもてなしできていないじゃない!」
「おれは無駄なことは聞かんし喋らん」
「砦であなたが見捨てたガルヴィンのことは気にならないの!? あなたの弟子だったんでしょ!?」
「契りを結んだわけではない、ただの暇潰しだ。屍教の姫には精霊士の才覚があった、それだけのことだ」
私は深いため息をついた。どういう教育を受けたらこんな傲慢な人間が出来上がるのだろう? きっと、すごく甘やかされて育ったのね。
「まあいいわ」と私は言った。「じゃあ文烏を飛ばしてもらっていいかしら? 鳥籠のなかにいるのを見たわ。一応アナに書置きを残したけれど、ちゃんと現状を伝えておきたいの」
彼は指をパチンと鳴らし、老執事を呼びつけた。ずっと扉の向こう側で待機していたみたいだ。
「烏の用意を」と視線を移動させずにザイルは言った。「それからブラッド・バンクに着くまで相手をしてやれ」
見られてもいないのに深く一礼し、老執事は黙って私を併設する客室まで連れていった。
*
ずいぶんと無口なおじいさんだった。私がアナに手紙を書き、それを彼が文烏の足に括りつけて甲板から飛び立たせるまでのあいだ、彼はかすかな声すら漏らさなかった。私の問いかけにはにこやかに微笑み、私の話を笑顔で聞いて頷いているだけだった。
その理由は、彼が内ポケットから白革の手帳を出し、万年筆でさらさらと文字を綴ったときに判明した。
『とても賑やかで楽しいお嬢さんだ。ワタシは生まれつき口がきけなくてね、話ができなくてとても残念に思う』
すぐ真上にある太陽が、柔らかな光を私たちのところまで降ろしていた。白革の表紙が反射し、まるで輝いているみたいに見えた。
私たちはまた階段を下りてザイルの部屋の前を横切り、客室に移動した。彼は私をソファーに座らせると一度出ていき、数分後にトレイを持って戻ってきた。マグカップに温かいハニーオレンジが注がれ、すぐに部屋のなかに蜂蜜と蜜柑の香りが広がっていった。
「とても美味しいわ!」と私はひと口飲んでから言った。「どちらもファングネイ王国の名産品を使っているわね? 取り寄せているの?」
執事のおじいさんは頷き、手帳に文字を走らせて私に見せた。ザイルも子供の頃はよく飲んでいたので、いつでも給仕できるよう個人で輸入しているらしい。
「そんな小さいときからずっとあの人に仕えているの?」
『六歳のころからだね、もう二十年になる。もっとも、最初は剣術の指南役としてお仕えしていたんだ。けれどワタシは死ビトとの戦いで負傷し、まともに剣を握れなくなってしまった。普通ならそれでお役御免なわけだが、ザイル様が引き留めてくださった。これからはおれの執事として仕えろ、とね。ザイル様が十一歳のころの話さ』
十一歳、と私は思った。今の私と同じ年齢のときだ。剣の師だった彼のこれからの生活を考えて引き留めたのだろうか? あんな傲慢な人にも、そんな優しい少年時代があったということだろうか?
手書きの文字から目を上げると、彼は手帳の最初のほうのページを私に見せてくれた。剣術を学ぶあの人の成長記録のようだった。繊細なタッチでイラストも添えられている。白い髪の少年が剣を斜め下に構え、画のこちら側にいる相手のことを真っ直ぐな目で見据えている。
ほかのページも見せてくれた。二人で色々な場所を訪れた記録だった。なかには散々な目に遭った出来事もあったみたいだ。伝説の剣が眠るとされる遺跡でミイラに追いかけまわされたり、伝説の海賊が残した宝を探しに小さな舟で漕ぎ出でた挙句、すぐに海の藻屑になりかけたり。
執事のおじいさんは顔をほころばせ、懐かしそうな目で1ページ1ページ眺めていた。記録が終わって白紙になると、また最後のほうのページを開いて言葉を紡いでいった。
『ザイル様は幼少の頃から侍従をとても嫌っていたが、どこへ行くにもワタシの同行は許してくださった。十五になり、継承者の儀を終えてからはそんなことも少なくなったが、それでも半年に一度、ワタシと家内を自室に招いて食事を振舞ってくださるんだ。美味いか? ならばもっと食え、とね』
私は厚い手帳を持たせてもらい、またぱらぱらとページをめくってみた。私とあの人のものと同じくらい想いがこめられているように感じられる。宝物なのね、と私は思う。
私は丁寧に表紙を閉じ、執事のおじいさんの手のひらに載せた。
「これはあなたたち二人の大事な冒険手帳なのね!」
彼は嬉しそうに笑い、内ポケットに手帳をしまって私の頭を何度か撫でた。ハニーオレンジの優しい香りが私たちを包み込んでいた。
*
もうじき吸血鬼の住む城に着くというので、私はザイルのいる部屋に戻った。扉をノックすると、すぐに「入れ」という声が聞こえてきた。本に印刷された文字に集中する彼の横顔が目に浮かぶ。きっと、彼の視線は少しもこの扉に投げかけられなかったことだろう。
扉を開けると、私はソファーの端っこにちょこんと座るリアの姿を目にした。銀のショートヘアーが肩口で揺れ、扉を閉めるとしばらくしてからぴたっと止まった。
「ちょっとリア! あなたどうしてここにいるの!?」と私は二度見をしてから言った。私ほどの注意深い人間が、一度めは素直に受け入れてしまったのだ。
リアは緋色の瞳でじっと私のことを見つめていたが、やがてテーブルの上のフォークを手に取り、小さくカットされたロールケーキにすっと刺した。
「ここにいたほうがいいとおもった」
平板な声でそう言って、リアはゆっくりとロールケーキを口まで運んだ。




