316 アリスのいる場所に
朝の酒場には一夜のうちに溜め込まれた様々な匂いと、行き場のない空気が充満していた。カウンター席の男がバーテンダーのような恰好の店員とカウンター越しに激しく罵りあっており、髭を生やした老人客が隣で必死になだめていた。
グスターブ皇国の大男は離れた丸テーブルの席におり、正面に座った俺のことを不思議そうな目でしばらく見ていた。いや、おととい聞いた彼の説明に則するなら、今はまだ“元”グスターブ皇国の大男としておくべきかもしれない。
「おおっ? なんだ小僧、こんなところでどうした?」と彼は何度かまばたきをして言った。
「あんたに会いに来たんだよ。ここにいてくれて良かった、行くあてなんて全然わからないからな」
口が緩慢な動きを見せかけたが、俺は機先を制するように先に声をあげた。
「嘘だったんだな、ラウドゥルと袂を分けたっていうのは。あんたは今もグスターブ皇国の再建を夢見るあいつの仲間ってわけだ。あんな仲間割れをして、しかも殺し合いまでしてたっていうのに」
口元がきっと引き締まり、視線が店内を流れて入り口に素早く飛んだ。左腕がぴくりと僅かに動いた。俺に連れがいるのかを見分け、そして左手で帯剣を確認したのだろう。
「大丈夫、心配しなくても一人だよ」と俺は言った。「それに剣を抜く必要もない。だって俺たちが争う必要はどこにもないだろ?」
「どうしてわかった、小僧」と大男は尋ねた。一瞬の緊張が解かれ、剛毛の密生する右手が大きなグラスを掴んだ。
「単純なことさ、レジスタンスのアジトにラウドゥルがいたからってだけだ。そしてあんたもこの街にいる。偶然のわけがない」
「アジトで団長を見たのか? 小僧の気配を悟って、すぐに奥の部屋に引っ込んだって言ってたぞ?」
「いや、俺は見てない。俺の内に棲む幻獣が感じ取ったってだけだ。めちゃくちゃいきり立って、油断するなよって教えてくれたんだよ。けど、そのときはラウドゥルだとは思わなかった。あいつだと知ったのは、ツンツンヘアーの若者の首に月の女神の首飾があるのを見たときだ。……ほら、あんたのところの導術師って、治癒してやった相手に啓蒙活動かなんかであれを贈るだろ? それでアジトにいる『導術師』がラウドゥルやあんたの仲間だって気づいたのさ。んで、やっと幻獣の警戒とラウドゥルが結びついたってわけだ」
付け加えるなら、幻獣たちがあれだけ警鐘を鳴らすほどの相手とは、俺はまだ多くは出会っていない。せいぜいラウドゥルやナルシードや金獅子のカイル、それにあるいはザイル・ミリオンハート・オパルツァーぐらいなものだろう。今にして思えば、俺は最初からその枠に行きあたるべきだったのだ。
「小僧が彫刻家に探偵だってうそぶいて近づいたのはこっちもキャッチしてるぜ? 名推理の披露ありがとうよ、えせ探偵さん。それで、なんの用なんだ?『はい、団長を激しく憎んでおりましたが、私は今では彼の理想を実現したいと本気で願う部下の一人です』って認めればお前は去るのか?」
「去らないね。もう一つだけ確認しときたいことがあるからな」
大男はグラスの中身を一息で飲み干し、打ち据えるように大きな音を立ててテーブルに置いた。
「どうした、訊きたいことがあるなら訊いてみろ。酔っぱらってる今ならチャンス――」
「なんでレジスタンスのアジトにいたんだ? あんたらグスターブ皇国の人間がこの国の転覆に手を貸してるのか?」
大男は目線を下げ、グラスの縁に残る泡を眺めた。蝦蟇口のような大きな口は一本に結ばれていた。
「俺はこう考えてる。ラウドゥルは言ってたよ、『グスターブ皇国は別の地で甦る』ってな。だからシナリオは単純明快さ、あんたたちはレジスタンスと協力してこの国の王を討ち、ここをグスターブ皇国として乗っ取るつもりなんだ……。違うか?」
にやりと笑い、少し間を置いてから蝦蟇口が広げられた。
「たいした空想家だな、小僧。だが見当違いもいいところだ、おれたちはこんな帝国の属国なんざ欲しかねえよ。ラウドゥル団長たちがレジスタンスのアジトにいたのはもちろん理由がある。でもそれを小僧が知る必要はねえな。偉大なる酒の力を持ってしても、それはおれの口を割らせるに至らん。どうだ? これでおれの前から消えてくれるか?」
彼はまたグラスを持ち上げ、口元で傾けた。中身がないと思い出すのに多少の時間が必要とされた。
「あんたがクラウディオさんのアトリエにいた本当の理由は?」
「ああ、それなら教えてやれるぜ。あのとき用心棒を申し出たって言ったよな? あれは嘘じゃねえ。ただし金のためじゃなく、団長の命令だ」
「ラウドゥルの?」
「ああ。レジスタンスの下っ端連中がしょうもねえ嫌がらせをしてるんでな。警護しろって任を与えられた。まあ、本人に断られちまったがな」
それなら納得がいく。ラウドゥルは亡国グスターブの再建のためなら手段を選ばないかもしれないが、それでも無関係のところで人が傷つけられているのを良しとできる男ではない。
伏せられてしまった部分もあるが、まあだいたいこんなところだろう。俺は立ち上がり、最後に一つだけ言い添えた。
「なんにしろ、これだけはラウドゥルに言っておいてくれ。グスターブ皇国は薄汚い真似をしてまで再建されるべきじゃない。それに、今この世界はあんたたちの遊びにかまけていられるほど安定していない。だから余計な面倒を起こさないでくれ……ってな」
「おれとお前のよしみだ小僧。だからありのまま伝えておいてやるよ。……でもちょっと納得いかねえことがあるな――」
そこで口をつぐみ、同時に鞘から切っ先が放たれた。剣閃の途にあったグラスが上下真っ二つになり、俺の鼻先数センチの位置で刃先が停止した。少し遅れて、グラスの滑らかな切り口が俺のほうを向いた。
「小僧……お前、おれのことを自分より格下に見てねえか?」と大男は言った。切っ先は空中で微動だにしていなかった。
今度は俺がにやりとする番だった。剣の腹を指で押し込んで剣先を下げ、口元を緩めた。
「いや、あんたは格下だよ。少なくとも、俺のなかの幻獣が原っぱで呑気に日向ぼっこをしてるぐらいにはな」
認めたかどうかはわからないが、剣が大人しく彼の腰の鞘に収められた。もう話すこともないので、俺は背を向けて入り口まで歩いた。だが、大男のほうはまだ何か言い足りないようだった。
「よう、待てよタフ・ボーイ」と彼は言った。「影鰐とかいう化物からレジスタンスの連中を救ったんだってな。女や一部の連中が、お前のことをヒーローみたいだって言ってるらしいぜ」
俺は足を止め、前を向いたまま言った。「そりゃ嬉しいな」
「そんなヒーローに一つ教えてやる。ツンツンヘアーの小僧……彫刻家の腹をナイフで刺した小僧のことなんだが。あれからアジトに戻ってすぐに勝手な真似をした罰で、片目を潰されたらしいぜ」
振り返らないわけにはいかなかった。しかし言葉は出てこなかった。目を……潰された?
「どうしたよヒーロー、お前の立場ならざまあみろってところだろ? なのにショックみたいじゃねえか。逆恨みで誠実な一般市民を殺っちまうところだったんだ、当然だろ? ああ、でもそうか。ヒーローなら、たとえ敵でも窮地に陥れば助けようとしちまうもんな。だったら急いだほうがいいぜ、逆上してボスに楯突いたのを理由に、残ったもう一つの目も焼かれて死ビトのうろつく門の外に放り出されたからな。もちろん助けに行くんだろ、ヒーロー? 半刻ちょい前に東の門からだ、今ならまだ間に合うかもしれねえぞ?」
俺は少し考えてから、ゆっくりと首を横に振った。
「どうして俺が? ざまあみろとは思わないけど、助ける義理があるとも思えない」
大男は何も言わなかった。最後に主導権を握った満足感からか、まだカウンター席の客と揉めている店員に大声でおかわりを言い付け、どかっと椅子に座って背もたれにもたれかかった。
俺は扉を開けて外に出た。妙に落ち着かない気持ちが、自然とみんなのいるところに戻る足を速めていた。俺には関係ない……、何度かそう頭のなかで繰り返した。
でも駄目だった。しばらく歩くと、足はもうそれ以上先に進むことを拒み、心は既に身体を後ろに引っ張っていた。
「……くそっ!」
俺はすぐに踵を返し、酒場の扉の前を横切って東の門まで走った。助ける義理があるとは思えないが、助けてやりたいとは思ってしまった。クラウディオさんを刺した、身勝手で馬鹿なあいつのことを。
東の門に辿り着く。門の開錠を仕切っている兵士の男がじれったいことを言ってくる。円卓の夜の真っ最中に許可なく開けられるわけないだろ、さあ帰った帰った。それならと、俺は木霊を使役して門を飛び越える。着地してすぐのところに死ビトが四体かたまっている。
「出でよMAX狐火!」
ボオオオオオオオォォォ!!
まわりを見まわす。街と外界を隔てる堅固な壁からずっと先の地平線まで、どこを切り取っても死ビトがひしめいている。枯渇したマナをどこかに求めて彷徨い歩いている。
俺はそんな光景を前に、構えていた腕をゆっくりと下ろす。そして首をうなだれて、足元をぼんやりと眺める。
無事でいられるはずがない……。これじゃたとえ目が見えていたとしても、三分ともたないだろう……。
帰ろう、と俺は思う。俺がこの国でやるべきことはもう何も残っていない。帰ろう、ウィンディーネとクラウディオさんのあの家に。そしてアリスのいる場所に……。
空気の読めない死ビトの群れが、目をいっせいに赤く光らせる。俺は右腕を大きく横に振りかぶり、動作を一瞬停止する。そして拳にやるせない思いをまとめて乗せてしまう。
「――出でよMAX鬼熊!」
ガルウウウウウウッ!!
巨大な剛腕が大雑把に群れを薙ぎ払っていく。何体かは残ったようだが、俺は構わずに木霊の階段を上って、壁の内側に戻っていく。
*
道すがらアリスに風の囁きを送ってみると、すぐに元気な声が返ってきた。くすんだ色の視界が明るくなったような気がした。
(もしもし!? ちょっとあなた、私朝から何十回も囁いていたのよ! どうして届かなかったのよ!)
(わるいわるい、ずっと煌銀石のリングネックレスを外してたんだ)
(肌身離さずつけてなくちゃ駄目じゃない! もし何か大事な連絡があったらどうするのよ!)
(そうだな、ごめんごめん……)
アリスは俺の声から暗い響きを感じ取ったようだった。
(あなたどうしたの? 何かあった?)
(いや……まあな)
(話してちょうだい。私が全部聞いてあげるわ!)
つま先が緩い傾斜に乗りかけたが、坂を上らずに迂回することにした。潮風の吹く知らない街を歩きながら、ついさっき起こった出来事をアリスに話した。
(――だからさ、俺思ったよ。ウィンディーネはこんな無力感を何度も何度も味わってきたんだなって……。いや、いま俺が感じてるものより、何十倍も強い絶望感だったんだろうな……。そりゃ心がすさんで、あんなバカヤンキーになっちゃうのも仕方ないと思うよ……。って、それは元からか?)
矢継ぎ早に囁いてしまったので、俺はそこでアリスの声が届くのを一度待った。しかし、いつまでも返事がなかった。
(おい、アリス? どうした?)
(えっ!? なにっ!? ゴオォォゥゥゴオォォゥゥとこっちの音がうるさくて全然聞こえないわ!)
(えっ……聞こえてなかったのか? どのへんからだ?)
少し間があった。
(朗報よ! 今やっと音がやんだわ! さあ、私になんでも話してちょうだい!)
(最初っから聞こえてなかったのか……)
もう一度同じ話をする気にもなれなかった。それに、アリスが聞いてると思いながら喋れたおかげで、靴底の鉛のようなものが取り除かれた気がする。
(ま、まあこの話はまた今度するとして……。そうそう、ウィンディーネのことだけど、協力してくれることになったぞ。これであとはサラマンダーだな、たしかバササラ火山で代替わり後の冬眠中だったはずなのに、もぬけの殻だったんだよな……。ノームが探索するって話だったけど、どうなったかな?)
少し待ったが、またしても反応がなかった。聞こえていないのだろうか?
(おい、七年後もムネナシ……また音がうるさいのか?)
(誰が七年後もムネナシよ! 絶対たわわに実っているわ!)
(聞こえてたのかよ……。だったら返事か相槌ぐらいしろよ)
(今やっと静かになったのよ! シュヴォォォォォシュゥヴォォォォォ……キュキュッ……クルックゥッ! ってすごくうるさかったの!)
(擬音にそんな全力じゃなくていいんだぞ……。ってか、なんだその音? お前いまどこにいるんだ?)
(ちょっと待ってちょうだい! 機械室に誰か入ってきたわ!)
(機械室?……お前マジで何やってんだ? 危ないことじゃないだろうな?)
俺は小道の脇で足を止め、アリスの声を辛抱強く待った。立ち並ぶ枯木のあいだからエメラルドグリーンの海が眺望できたが、不安な気持ちを和らげてくれそうにはなかった。
(おいアリス! どうしたんだよ、返事しろよ!)
しばらくすると、やっとアリスの囁く声が頭に響いた。
(大丈夫よ、うまく隠れきれたわ!)
(隠れきれたってなんだよ! お前どこで何してんだよ、一人なのか!? アナやレリアは近くにいないのか!?)
(私はいま帝国の飛空挺のなかよ! ブラッド・バンクに着いたらこのままザイルを尾行するわ!)
(ブラッド・バンク……? どこだよそれ、ってかザイルを尾行ってなんだよ!)
(ブラッド・バンク――吸血鬼の住む城よ!)
突然、頭のなかに耳障りな雑音が入り込んできた。それは俺とアリスを結ぶ風の通り道に侵入し、だんだんと這い寄って来るおぞましい蟲の姿をイメージさせた。
(おいアリス、聞こえるか!? 注意しろ、なんかおかしいぞ!)
雑音が急激に膨らんでいき、すぐに俺の頭のなかを支配するまでになった。それは数十秒のあいだ鳴り響き、やがて潮が引いていくみたいに鳴りやんだ。また静けさが粉雪のように舞い落ち、俺の足元に積もっていった。
(おいアリス!……アリス!)
何度も何度も叫んだが、もうアリスの囁きが届くことはなかった。
俺はその場で立ち尽くし、首から提がる煌銀石のペア・リングをいつまでも握りしめていた。
『五部第二章 おしまい』




