315 ありがとう
宿にリアの姿はなかった。窓が開け放たれ、カーテンが冷たい夜の風に揺られていた。紅い四の月が、まるで測ったかのように窓枠のちょうど真ん中に収まっている。すぐそばに残された椅子に座り、リアはちょっと前までルナのいる月を眺めていたのだろう。そしてそれに飽き、アリスたちのいる帝国に戻ったのだろう。
見慣れた坂の上の家に戻り、ウィンディーネやクラウディオさんと夕食をともにした。結局ガルヴィンは起きてこなかった。小さな寝息を立てて深く眠ったままだった。
俺はご馳走になった礼を二人に言い、それからまた寝室に戻った。そして椅子を引き、そこに座ってガルヴィンの寝顔を眺めた。真っ赤な前髪の一房が幼顔を縦断するみたいに走り、そのまま横に垂れ落ちている。小さな手が布団から飛び出していて、刻まれた手のひらの黒い薔薇が何かを警告するみたいに天井に向けられていた。
朝起きてウィンディーネの協力はやっぱり得られないと知ったら、ガルヴィンはがっかりするだろうか。お兄ちゃんの努力が足りなかったんじゃない? とでも言うのだろうか。それとも、ウィンディーネ抜きの解決策を俺に示してくれるだろうか。大丈夫だよお兄ちゃん、火と風と地の精霊だけでなんとかなると思うよ。
俺は綺麗な形のおでこに触れながら、静かに首を横に振った。いくら精霊士だからとはいえ、十二歳の少女にそこまで求めてはいけない。
居間に戻ると、クラウディオさんが物置から寝袋を二つ運んできたところだった。寝袋ですか? と俺は間抜けなことを聞いた。はい、とクラウディオさんは律義に答えた。
「ウキキさんは寝室のベッドを使ってください。今日はウィンディーと二人で寝袋にくるまれて眠るとします」、彼は廊下のほうに目を向けた。「夜空でさんざめく星を見ながらね」
すっかり忘れていたが、この家の屋根には穴があけられている箇所があるのだ。ウィンディーネの奥義によって。
後ろから頭をぴしゃりと引っぱたかれた。「ウキキ、テメェーのせいでできた穴だかんナ!」とウィンディーネは言った。
「どうしたら俺のせいになるんだよアホ! お前が考えもなしに物騒なもん飛ばして道案内したからだろ!」
「まさかテメェがうちのなかにいるなんて思うわけねぇだろ!」
もう一度手のひらで叩かれた。俺は無表情のまま首をくるりと回転させて、クラウディオさんを見た。
「どう思います? どう考えてもあなたの嫁の頭がおかしいんですよね? こいつバカですよね?」
クラウディオさんはハハハと笑った。「まあ、ケンカはほどほどに」、そして廊下に寝袋を敷きに行った。
俺は彼の後ろ姿を見ながら、その脇腹にある大きな傷痕のことを考えた。少年のころに死ビトにやられたものだ。ウィンディーネの記憶の欠片のなかで見たぐったりとした彼の姿は、今でもはっきりとした映像として頭に残っている。
俺はふと考えた。それからウィンディーネに言った。
「そういえばさ……お前あの傷痕を見て驚いてたけど、今までずっと一緒だったのに知らなかったのか?」
「ああっ……? 知るわけねぇだろ、裸なんてちゃんと見たことねぇからナ」
「えっ……なんで?」
ウィンディーネの顔がだんだん赤く染まっていった。彼女は口をすぼめてずっと黙っていた。
「えっ……だって風呂でも一緒に入れば、あんな大きな傷、一発で目につくだろ? それなのに気づかなかったのか?」
彼女はだらんと下げられた左腕の肘の辺りを右手でさすりながら、恥ずかしそうに口を開いた。
「い、一緒に風呂とか、そんなんもう少し時間が経ってからだろ……」
俺は言った。「その反応……もしかしてお前ヴァージンなのか!?」
様々な考えが湧水の如く溢れてきた。こいつたぶん二千歳ぐらいだよな? クラウディオさんとだって出会って二年で、結婚して半年だったよな? 毎日あの寝室の隣り合ったベッドで眠ってるんだよな? ってか、好き同士なら出会って二秒で合体があたり前なんじゃないのか!?
「ち、ちなみに、お前が思う『時間が経ったら』ってのはどれくらいなんだ?」と俺は尋ねた。
「二百年……くらい?」
「クラウディオさん完全に死んでるだろ! 不老不死基準でものを考えるんじゃねえ!」
なんだか急にクラウディオさんのことが憐れに思えてきた。こんな(外見だけは)死ぬほど美しい二十歳ちょっとの女を前にして、彼は一切手を出せずにいるのだ。そのストレスが頭皮に与えるダメージたるや、俺の想像を遥かに超えることだろう。一日二百本、いや三百本は抜け落ちていそうだ。
ウィンディーネはむきになって反論してきた。
「て、テメェみてえなエロ河童と違って、クラウディオはそんな邪なことは考えねぇんだよタコ! 心が綺麗なんだ! なんせこのアタイが男として愛した唯一のヒトだかんナ!」
俺は無表情のまま首をくるりと回転させて、クラウディオさんを見た。「こいつバカですよね?」
彼は二つの寝袋のなかにそれぞれ湯たんぽを仕込んでいた。星明かりがうっすらと真上から降り注いでいる。
「たまにそう思うことも、あります……」とクラウディオさんは背中を丸めたまま言った。
*
ベッドに入って眠るまでのあいだ、俺は色々なことに考えを巡らせようと努めた。そうしなければならないことが山ほどあった。しかし、どれも巡りの途中で輪郭が失われ、霧のように消えていってしまった。絶大な力を持つ睡魔が邪魔をしてくるのだ。仕方がないので、一つだけしっかりと明日の予定を打ち立ててから眠りに身を委ねることにした。それは柔らかく、大量の泥に沈み込んでいくような眠りだった。
朝になり、物音で目を覚ました。隣のベッドはもう無人だった。ガルヴィンは布団に覆われたままベッドから這い出ようとしたらしく、布団がだらしなく床にずれ落ち、毛布は寝室の扉の前に捨てられていた。まるでカタツムリが途中で殻を置いていってしまったみたいだ。
起き出して扉を開けると、ウィンディーネとクラウディオさんが荷造りをしていた。ガルヴィンはボサボサ頭でそれを手伝っているようだった。
「ようエロ河童、おはよう」とウィンディーネが言い、続けてクラウディオさんも朝の挨拶を口にした。俺はそれを返し、テーブルの椅子に腰を下ろして、頬杖をついてなんとなく彼らの作業を眺めた。
大きなトランクにどんどん衣服やら瓶に詰まった様々なハーブの粉末やら新聞紙に包まれたティーセットやらが収納されていった。円卓の夜の真っ最中だというのに、どこか旅行にでも行くのだろうか?
「そうだウキキ、わりぃけどアトリエの彫像を大蝦蟇に呑み込ませてきてくれ」とウィンディーネは手を止めずに振り向いて言った。
「えっ……なんで?」
「あれだけは置いてけねぇからナ。でも担いで持ってくわけにもいかねぇだろ?」
「いや……俺は旅行に同行できないぞ? すぐにでも帝国に戻って、そんでアリスたちと作戦会議しなきゃだからな……」
大袈裟なため息が漏れ出た。どうしてアリスといいウィンディーネといい、バカのため息はこうもスタイリッシュでないのだろう。
「お兄ちゃんが同行するんじゃないよ」とガルヴィンは行間に文字を継ぎ足すように言った。「ウィンディーネとクラウディオおじさんがボクらと一緒に来てくれるのさ」
まだ血液の行き届いていない脳が疑問符を浮かべる前に、クラウディオさんが姿勢よく立ち上がった。
「昨日、星々の下で事情を聞いて、ウィンディーと話し合ったんです。いえ……正確には既に彼女の内にあった決意を聞かせてもらったんです。『アタイにやり切れるかどうかわからねぇけど、もう一度前を向いて生きてみたい』……なので、僕も同行させてもらいます」
おそらくクラウディオさんのものだろう、ウィンディーネは大きな茶色のセーターを丁寧にたたみ、それをトランクの一番上にしまってから、座ったまま手をついて体の正面を俺に向けた。
「アタイのよわっちい心が少しだけ前を向いてくれそうなんだ。アタイは飢饉のときも疫病のときも何もできなかった。それに死ビトの大群のときも、大勢を護り切れずに死なせちまった。ほかにも話せてねえことがたくさんある。……でも、クラウディオは死なないでいてくれた。あのちびっこいクラウディーが大人になってアタイの前に現れてくれたんだ。そのおかげで、たぶん砕け散った心が少しだけ前の状態に戻ったんだと思う。
……けど確証はねえ。もしかしたら、いざというときに凍りついて動けなくなっちまうかもしれねぇ。それかまた違う悲劇に巡り合って、また心がパリンといっちまうかもしれねぇ」
すっと立ち上がった。そして手を俺の前に差し出した。
「それでもアタイに来いって言うなら、ついていかせてほしい。来るなって言うなら、今ここでテメェをぶっ飛ばす」
「なんでだよ……」と俺は言った。それから次に言葉を繋げるのに時間がかかってしまった。
俺の視た彼女の物語が、古い映画のフィルムのようになって瞬間的に視野を横切っていった。やせ細った男が木の根を食み、幼き王が兄と国民の死を心から悼み、少年少女が大きな滝を背に微笑みかけていた。
登場したすべての彼女の友達に向けて、俺はありがとうと口にした。ありがとう……最後の最後、ウィンディーネにこんな勇気のある決断をさせてくれて。
俺は彼女の手を強く握る。クラウディオさんが優しく笑い、ガルヴィンは直される気配のない宿命的な寝ぐせ頭のまま口許を緩ませる。
「俺もアリスもお前と同じように、確かなものなんて何も手にしてないよ……。けど、そんな手でも世界が滅びるのを阻止できるなら、それに全力を出したいと思ってる。……みんなでな」
俺の目から涙が溢れ出ようとしていた。数々の悲劇の果てに選ばれたウィンディーネの答えがそうさせているようだった。
俺は誰にも気づかれないうちに拭ってしまおうと、素早く後ろを向いた。すぐにガルヴィンが声をかけてきた。
「お兄ちゃん、朝起きたらちゃんと顔を洗ってくるのがエチケットってものだよ。ほら、タオルもあるから行ってきなよ」
こいつにエチケットについてどうこう言われるとは思ってもみなかったが、助手としては本当に優秀だったみたいだ。俺は言われたとおりタオルを受け取り、洗面所に向かった。
*
クラウディオさんのアトリエまで行き、渡された鍵を使って扉を開けた。そして手早くクラウディオさんの作品を大蝦蟇の胃袋にしまい込んだ。それからまた鍵を閉め、踵を返して街で一番大きい酒場に向かった。
酒場には夜通し呑んでいたと思われる数人の姿があった。そのなかの一人が俺の目的の人物であり、そいつと話をするのが俺の今日の予定の一つだった。
俺は丸いテーブルの前まで歩き、がたがたと揺れる椅子に腰を落ち着けて、半濁の目が俺のことを捉えるのを待った。
「おおっ? なんだ小僧、こんなところでどうした?」とグスターブ皇国の大男はしばらく後で言った。




