314 二人の行く末
それは川瀬で遊ぶ、ウィンディーネと八人の少年少女の彫像だった。楽しげに子供たちがウィンディーネを囲み、活きいきとした表情で彼女を見上げていた。
ウィンディーネは左足に重心を置き、右足を空中に跳ね上げていた。ダンスを踊っているようにも見えるし、転ぶ一秒前のようにも見えた。子供のように無邪気に笑い、跳ねる水飛沫に頬を濡らしていた。それが石膏の肌に瑞々しさを与え、彼女の美しさを引き立てている。
実寸よりもやや縮小された作品だったが、そこには無限の奥行きが感じられた。俺は彼らと同じ空気を吸い、同じ匂いを嗅ぎ、同じ陽を浴びることができた。耳を澄ませば、彼らのはしゃぐ声や川のせせらぎを聴くこともできた。
近くに寄ってじっくり鑑賞していると、少年の一人がウィンディーネではなく、その奥を眺めていることに気がついた。ややあって、俺はその目が映し出しているものに思いあたった。彼はそこにはない、大きな滝を見ているのだ。つまりこの作品は、俺が視たウィンディーネの記憶の欠片そのものなのだ。
振り返り、俺はクラウディオさんに尋ねた。「これは……どういうことですか? なんでクラウディオさんがこの風景を知ってるんです?」
彼の隣に立つウィンディーネも、俺と同じ種類の視線をクラウディオさんの横顔に投げかけていた。彼は優しく微笑んだ。
「これは、僕の大切な思い出を作品にしたものなんです。二十三年前、僕はあの場所でよく友人と遊び、よく滝を眺めていました。滝の水は山のなかのいくつもの瀬を通り、やがて一つになって僕らの街の真ん中を流れる川になるんです。僕はその流れを想像するのがすごく好きでした」
クラウディオさんは自分の作品の前まで歩き、滝を見ている少年以外の子供の頭を、一つひとつ丁寧に撫でた。それからウィンディーネの彫像に目を向けた。
「僕の友人のなかには水の精霊がいました。彼女は言葉使いが丁寧なほうではありませんでしたが、それこそ澄んだ水のように心の綺麗な精霊でした。そして、心の優しい精霊でした。みんな彼女のことが大好きで、彼女もみんなのことが大好きでした。彼女は人がすごく好きなんです。それは精霊としては珍しいことだと祖母はよく言っていました。『精霊は人と自然の言わば調停者なんだよ、それなのに彼女ときたら……』。そんな祖母も、幼いころは毎日のように彼女と遊んでいました。彼女は歳をとらないんです。あの国の人々の小さいころの思い出には、必ず彼女が中心にいます。それはすごく素晴らしいことだと思うんです。とてもとても幸せな、国中のみんなで共有できる心の財産なんです」
ウィンディーネはクラウディオさんの後ろ姿を煌いた目で見ていた。何かを口にしようとしていたが、震える唇のあいだからは纏まりのない息が漏れるばかりだった。
クラウディオさんは背中を俺たちに向けたまま、また話し出した。
「けれど――彼女は突然いなくなってしまいました。死ビトの大群による尊い命の犠牲が、彼女をそうさせてしまったようです。彼女は長い国の歴史のなかで、あまりにも多くの悲劇に舞台の真ん中で遭遇してきました。あの最後の悲劇は、そんな彼女のヒビの入った心を砕くのに余りあるものだったのです。そして、あるいは僕がそのトンカチの振りに勢いを与えてしまったのです」
もう言葉は必要とされていなかった。俺は話の結末がわかっていたし、ウィンディーネにももちろんわかっていただろう。しかし、彼女の唇はまだ小刻みに震えているだけだった。クラウディオさんは振り向いた。
「ウィンディー……ずっと言い出せなくてすまなかったね。……あのとききみが胸に抱いた血まみれの少年は、奇跡的に生を繋ぎとめていたんだよ」
彼は真っ白いシャツをめくり、腹の脇にある大きな傷痕をこちらに向けた。俺はそれを見て、すぐに目を閉じた。そして口も閉ざしていようと決めた。もしアリスがいたらしゃしゃり出ていただろうが、人には黙って話のゆく末を見届けなければならないときがあるのだ。
目を開くと、俺の隣にはもうウィンディーネはいなかった。彼女はおぼつかない足取りでクラウディオさんのところまで歩いていた。
「クラウディー……?」とウィンディーネは恐るおそるカーテンを捲るみたいに声をかけた。「ああ、そんな……本当にクラウディーなの……?」
「その愛称で呼ぶのは友人と家族、それにガキ大将の水の精霊だけだったね、ウィンディーネ」
クラウディオさんも歩み寄り、すぐに彼女を抱きとめた。それからはしばらく、泣き虫な精霊のすすり泣く声だけがアトリエに響いていた。
『あの滝川のように、違えた流れもやがてひとつに。そして末まで』
このようなタイトルを与えられたウィンディーネや少年少女の彫像も、今ばかりはその声を押し殺して二人を見守っていた。ウィンディーネが少し離れたところにいる少年の横に座り、静かに視線を同じところに持っていった。
「あれはな、精霊の滝っていうんだぜ」とウィンディーネは言った。
「知ってるよ、そんなの」と少年は言った。
*
二人の家の門を抜けて庭に入ると、ウィンディーネは何かを思いついたようで、それを手を繋いでいるクラウディオさんに尋ねた。
「あら、でもクラウディオ、あの作品はこの国と帝国の繁栄を願うもので、王の密命で製作したのよね? 私的なもので納得してくれるのかしら?」
「ああ、作品のタイトルとともに、そんな噂も国中に流れていたようだね。でも違うよウィンディー、あれは僕の打ち明けを後押しする、きみへのプレゼントさ。僕は口下手だからそんなものが必要だったんだ」
俺は玄関のドアノブに触れながら振り返り、眉をひそめた。
「えっ……じゃあ王の密命はほかにあるってことですか?」
「ええ、もちろんです。『密命』ですから誰にもばれていないと思います。噂を否定しなかったのも、王からカモフラージュのために黙っとくよう言われたからなんです。……ああ、ちょうど受け取りにきたようですね」
今入ってきた門のすぐ向こう側にずらっと軍服の男たちが並んでおり、その真ん中に妙な髪型の小さな男がいた。この国の王だ。ウィンディーネの言っていたとおり、たしかに一目でヅラだとわかるバッハ的なものをかぶっている。
「お前らはここで待つでおじゃる」と王は言った。兵士らは仰々しく返事をし、それからは1ミリも体を動かさなかった。
ペンギンのように小刻みに歩を進め、王はクラウディオさんの前に立った。
「例のブツは完成したでおじゃるか?」
「ええ王様。試飲なさっていきますか?」
「するでおじゃる」
彼らは俺の開けた玄関の扉の奥に消えていき、残されたウィンディーネは顔を覆う女神的微笑を険しいものに変えた。
「なんだよ例のブツって……ウキキ、テメェ何か知ってるか?」
「いや、俺は何も……」
あとから居間まで行くと、テーブルを挟んでクラウディオさんと王が座っていた。粉末状のものが詰まった瓶がいくつかテーブルに置かれ、王は神妙な面持ちでそれを睨むように見ていた。
「あれは……」と俺は誰に言うともなく言った。「物置で調合されてたハーブか……?」
「物置? アタイはそんなところでハーブをいじらねぇぞ?」
「いや、たぶんクラウディオさんが隠れてやってたんだ。あそこの天秤の皿に少し残ってたよ」
クラウディオさんは少しだけ気まずそうに微笑み、瓶の一つをウィンディーネに手渡した。
「ウィンディー、わるいけどこれを淹れてくれないかな?」
「え、ええ……もちろん構わないわ」
ハーブティーの入った透明のポットがテーブルの中央に置かれるまでのあいだ、誰も何も口をきかなかった。王は相変わらず瓶の中の粉末を凝視し、クラウディオさんは広いおでこを数分おきに指で掻いていただけだった。
ポットからティーカップに注ぐと、ウィンディーネは丁寧にカップを回転させ、持ち手が右側になるようにそれぞれ二人の前に差し出した。
最初に手に取ったのは王のほうだった。「まずいでおじゃる」、ひと口含んでから、すぐに彼はそう言った。
俺はウィンディーネの顔が般若になったのを見逃さなかった。しかし、彼女はすぐさまはにかんだ笑顔をどこからか引っ張り出してきて、それをぴったりと顔面に貼りつけた。
「うちの旦那の調合したものがお気に召しませんかしら?」
その口調にはとげとげしいものがあったが、王はそんなことは気にせずにカップのなかのものを飲み干した。
「まずいでおじゃる。でも良薬は口に苦しと言うでおじゃる。……ふおおおぉぉ! 頭皮が温かくなってきたでおじゃる!」
クラウディオさんはハハハと笑い、自分もカップを口元で傾けた。ウィンディーネが俺の腕を乱暴に掴み、部屋の隅っこまで連れていった。
「おい……毛生え薬ってことか?」
「あ、ああ……それに似た効果のあるハーブティーみたいだな……」
腕を組んで首を捻り、彼女は記憶のなかを辿っていった。
「……そういや、結婚してからちょくちょくハーブを分けてくれと言ってきてたナ……。何かの拍子に効果を発見して、それからアタイの目を盗んでコソコソと改良を重ねてたってわけか……」、ウィンディーネは頬をぽっと赤らめた。「そういうひた向きなところも好きだぜ……」
ぽかんとその赤みを見ていると彼女はテーブルまで戻り、また張り切って給仕を始めた。
愛が深まったようで何よりだが、俺は辟易を感じないわけにはいかなかった。壁にもたれ、俺はどんどん消費されていくポットのなかの緑茶のような色合いの液体を眺めた。
あんなくだらないものが本来の『王の密命』だったのに、人々はそこに『彫刻家』と『三日後に迫る式典』という要素を重ね、クラウディオさんがウィンディーネのために製作する『あの滝川のように、違えた流れもやがてひとつに。そして末まで』というタイトルの作品を、『式典で除幕される、この国と帝国を賛美する彫像』だと思い込んでしまったのだ。
俺は早朝からの苦労を思い、今日一番大きなため息を吐き出した。やれやれ……、と俺は心のなかで声を大にして言った。そしてテーブルまで歩いてクラウディオさんの隣の席に腰を下ろし、自分の旦那のことをうっとりした目で見ているウィンディーネを見上げた。
「やれやれ……俺も一杯もらおうか」と俺はウィンディーネに言った。
*
王が風呂敷を担いで玄関から出ていくと、ウィンディーネは夕食の準備に取り掛かった。「余りものしかねぇけど食っていきナ」と彼女は俺に言った。それまでガルヴィンは寝かせておいてやれ、アタイのせいでかなり消耗してるからナ……。
それなら宿にいるリアも連れてこようと、俺は寒い夜道をひとり歩き出した。早朝から今までずっと放っておいてしまったので、きっとお腹をすかせていることだろう。ウィンディーネのように月の女神も食べなくても生きていけるが、お腹はぐーぐー鳴るものなのだ。
穏やかな坂道を下りていると、また耳たぶに違和感を覚えた。アリスの風の囁きだった。
(あなた、聞こえている!?)
(ああ、もちろん聞こえてるよ)
(こっちは上手くいったわよ! ステレイン家の家督のおじさんがザイル……なんて言ったかしら? その第一継承者と私たちの会談の席を用意すると約束してくれたわ!)
俺は寒さにコートの襟を立てながらアリスに返事をして、それからウィンディーネの協力は得られないと最初に告げた。そしていきさつを説明した。
(そう、でも仕方がないわ。嫌がるウィンディーネに無理にやらせるわけにはいかないもの)
(ああ……それに、もし縄かなんかで縛って強引に協力させたとしても、そんなんじゃこの星の意思に何も届かないと思う……。四大精霊がただ集まればいいってわけじゃないだろうしな)
アリスは少しだけ間を置いた。どういうわけか、俺の頭にはアリスが偉そうに両手を腰にあてて威張り散らす様が浮かんでいた。
(ところで、やっぱり私の言ったとおりだったわね!)
あたっていた。やかましいターンが始まろうとしている。
(私は作品のタイトルが恋歌だと見抜いていたのだから、もしそっちにいれば真相をいち早く掴んでいたはずよ! やっぱりどの場面にも私がいないと始まらないわね!)
俺はそれについては素直に認めておいた。いかすぞアリス、がんばれアリス、強いぞアリス……。ガメラの歌のようにそう口ずさむと、アリスはかなり満足してくれたようだった。そしてまた囁いた。
(それで、ハーブティーが王の密命だったということだけれど、あなたもそれを飲んだの?)
ああ、六杯な、と俺は言った。まだ頭皮がぽかぽかとしている。
(飲みながら、三人で頭皮ケアのあれこれについていろいろと話したよ。そのうちハーブティーにブランデーを垂らして呑んでみることになってな、これがまたなんとも言えない味なんだ。まずいけど、旨い? みたいな? ハハッ……そうそう聞いてくれよ、おじゃる王のことなんだけど、あいつなかなか面白い奴でさ――)
(おじゃる王?)
(ああ、このルザースの王様のことだ。語尾に因んで俺があだ名をつけてやったんだ。ハハッ……すっごい喜んでくれてさ。んで、俺のいた世界で一番ウケるギャグを教えるでおじゃる、って言うから、変なオジサンを教えてやったんだ。あいつそれが気にいちゃってさ、もうしつこいぐらい繰り返すんだ。俺もやられるたびに爆笑したよ。ハハッ……だって『だっふんだ』ってバッハのヅラしてすげえ真面目な顔して言うんだぜ? 腹がよじれるほど笑っちまったよ……ハハッ)
アリスはしばらく黙っていたが、やがてまた囁き声を送り届けてきた。
(何が面白いのか私にはさっぱりわからないけれど、かなり浮かれていたようね。楽しそうで何よりだわ)
(ああそうだ、お前の言ってた百人一首も教えてあげたんだぞ。『瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、われても末に、逢わんとぞ思う』……だったよな? クラウディオさんなんて歌に共感して涙を流してたよ……からの、おじゃる王のだっふんだと来たもんだ。ハハッ……クラウディオさん、鼻水まで吹き出して笑ってたな)
かなり長い深呼吸が聞えた。耳に息を吹き込まれたみたいで、なんだかくすぐったかった。
(本当に浮かれていたのね。あなたの話を聞いていたら、急に七十四首めが頭をよぎったわ)
アリスは和紙に墨で綴るように、一つひとつの言葉に心を込めてまた歌を詠った。
うかりける
人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを
(おお、なんか良い歌っぽいな……どういう意味なんだ?)
(それは割愛させていただくわ。今重要なのは、この歌の覚え方なのよ。私、五歳のころに初めてこれを聞いて、すごく気に入ってしまったの。だから最初に覚えた歌でもあるわ)
(覚え方?)
アリスはすうっと息を吸った。そして時間をかけてゆっくりと吐き出した。
(――浮かりけるハゲ)
俺は秒で煌銀石のリングネックレスを首から外し、アリスの風の囁きを遮断した。




