309 少年とウィンディーネ
重たい雨が降っていた。穏やかな流れの川を狂ったみたいに激しく打ち続け、世界に不協和音を響かせていた。
見たことのない風景だった。遠くのほうに霞がかった山があり、大きな滝があり、そして川があった。俺はウィンディーネの記憶の断片を八咫烏によって鳥瞰していた。しかし、肝心のウィンディーネの姿はどこにも見当たらなかった。
雨は激しさを増していた。俺の肩を止まり木のようにして三本足で立っている八咫烏が、その大きな翼をはばたかせた。すると場面が転換し、今度は雨降りの街の様子が映し出された。
先ほどの川だろうか? それが悠久の安らぎを浮かべるように街の真ん中を流れ、煉瓦造りのアーチがその上で罪も穢れもなく眠る子供のように架かっていた。美しい街並みだった。
俺は直感でここがサイウィン・ディーネという国だということがわかった。あるいは八咫烏が物言わず俺に教えてくれたのかもしれない。ここはウィンディーネがもともと居を構えていた国で、彼女は何かをきっかけにここを離れ、そしてルザースでクラウディオさんと出会ったのだ。
嫌な雨の匂いが俺の鼻先をかすめた。『その何かをこれから見せてあげるよ』とどんより垂れ込める雲が言っているように感じられた。しかし、この冷たい雨が何か悪いことの前触れだということは最初からわかっていた。間の抜けた比喩なんかではなく、雨はこの異世界に実際的な死の香りを死ビトとともに引き寄せてしまうものなのだ。吉兆であるはずがなかった。
また八咫烏の両翼が弧を描くと、その場面が始まった。街の至るところに大量の死ビトがおり、逃げ惑う人々がいた。なかには剣を手に戦う人の姿もあり、そしてもちろん無惨な最期を余儀なくされた人もいた。人か死ビトか、一見して区別がつかない屍もいくつかあった。
あるいはアリスなら、これがウィンディーネの記憶の断片だとわかっていても、バカみたいにこぶしを振り上げて救助に躍起になるのかもしれない。だが、俺の身体は動き出そうとはしなかったし、心も平静そのものだった。いくら凄惨な光景とはいえ、これはもう終わったことなのだ。時間という砂の奥深くに埋もれた一幕でしかないのだ。俺にどうこうできるはずがない。
場面が切り替わり、俺の意識が古めかしい民家の一室に移動する。そこには折り重なった夫婦の遺体があり、死ビトの首が近くに転がっている。
そしてウィンディーネがいる。彼女は床にぺたんと座り込み、泣き叫びながら、ぐったりとした小さな男の子を抱擁している。男の子の脇腹の肉が削げ落ち、そこから真っ赤な血液が噴出している。死ビトにやられたのだろうか? ウィンディーネは護ってあげることができなかったのだろうか? 男の子の目からだんだんと生気が失われていき、やがてまぶたが力なく閉じられる。ウィンディーネは雷鳴のような悲鳴をあげて泣き崩れ、いつまでもそこで枯れることのない涙を流し続ける。雨垂れの音が命の儚さをそれとなく物語っている。
こうしてウィンディーネは絶望に打ちひしがれ、この国をあとにしたのだろう。そして、たぶん彼女がガーゴイル起動の阻止に協力しようとしない理由もこの情景のなかにあるのだろう。
『アタイは子供一人助けられなかった。こんなアタイに世界を救うなんて真似ができるわけがない』
おそらく、彼女はこんなふうに考えているのだろう。アタイはもう四大精霊のウィンディーネではいられない。だったら、ただ一人のウィンディーとしてクラウディオのためだけに生きていく、と……。
八咫烏がカァ! と鳴くと、俺の意識は元いた場所にすっと戻された。
辺り一帯にはまだ霧が降りていた。ウィンディーネの記憶の結晶であり、彼女の感情が形となった濃い霧だった。それは次第に空気に吸い込まれるようにして消えてなくなっていった。あるいは俺の目には視えなくなってしまった。
八咫烏も俺の胸の奥に還っていた。導きの神はその二つ名のとおり、俺をウィンディーネの記憶のなかへといざない、そして重要なことを目撃させてくれたのだ。今はまだよくわからないが、きっとウィンディーネを説得するために必要なことなのだと思う。
墨色の羽根がひらひらと宙を舞い、音もなくコンクリートの地面に落ちると、俺の身体と精神がしっかりと結びついた。脳が視界を通じて、素早く周りの状況を拾い集めていく。
目の端のほうで、ガルヴィンが膝に手をつき、肩で大きく息をしていた。
*
俺たちは地下水路の一角にいて、百体ほどの死ビトに囲まれる寸前だったはずだが、驚いたことにそのほとんどは黒焦げに、あるいは首を切断されて、硬い地面に伏していた。既に黒瘴気に包まれている骸も数多くあった。
ガルヴィンの膝が重力に抗いきれなくなったみたいにカクッと落ちると、その機を狙っていたかのように、二体の死ビトが彼女の前方と後方から迫った。
「出でよ鎌鼬・十六夜!」
ザシュザシュッッッッ!!
俺は即座に二体の死ビトの首を刎ね飛ばし、周囲に蠢く残りの死ビトに注意を払いながら、ガルヴィンの背中に手のひらをあてた。
「大丈夫か!? わるい、俺ずっと気を失ってたよな!?」
「うん、立ったまま意識が飛んでたね……」とガルヴィンは力なく言った。「でもお兄ちゃんはずるいよ、こうやって美味しいところを持っていくんだから……」
そして彼女はベッドに横になるみたいに倒れ込んだ。俺はすぐに藍色のコートを脱いで丸め、頭の下に差し込んで枕替わりにしてやった。そして頭を思いきり撫でまわした。
ウィンディーネに続いて俺も意識を失い、しかもレジスタンスの女まで保護しなければならない状況下に突然置かれて、それでも逃げ出さずに極限まで精霊魔法を駆使して頑張ってくれたのだ。どんなに嫌がられても、頭を撫でずにいられるわけがなかった。
子供じゃないんだから、と抵抗してみせる幼顔は憔悴していた。そして目尻には玉のような涙が溜められていた。やはりまだウィンディーネの激情が大きな波となって、彼女のなかに流れ込んでいるみたいだった。
俺は指先で涙を拭ってやってから立ち上がった。そして残された十数体の死ビトに意識を集中させ、朱雀を使役してその首を一気に薙ぎ払った。
*
死ビトのバリケードは強引に取り除けたが、すぐに出発というわけにもいかなかった。ウィンディーネはまだ目を覚まさないし、ガルヴィンにだって無理をさせたくない。それに、レジスタンスの女も手足に酷い怪我を負っている。あのとき死ビトに覆い被され、血肉を貪られていたのだ。
俺は歯を噛んで痛みに耐えている女の脚に、手早く噴水の水の包帯を巻いてやった。そして衣服を脱がして腕にも巻きつけていると、後ろから声が響いた。
「あとはこっちで引き受けよう」
レジスタンスのリーダーの声だった。
「ずっとつけてたのか? それで、今頃になって登場か?」
「イエスと、ノーだ」と顔が薄らと見えるところまで近づき、男は言った。右目は新しい眼帯に覆い隠されていた。「途中で見失って、今しがた追いついたんだよ。そうか、鮫の化物だけでなく、ここの死ビトまで打ち破ったのか……」
彼は左目を細めて俺とガルヴィンを、そして次にウィンディーネを見やった。口の端に一瞬の笑みを落とし込み、「たいしたものだな」と彼は言った。
気づけば眼帯の男のほかにも、レジスタンスのメンバーが三人ほど後ろに並び立っていた。そのなかにはツンツンヘアーの若者もいた。クラウディオさんに謝りたいからと、俺に同行を申し出てきたあいつだ。
彼らは影鰐を退治したことに対して礼のようなものを口にしていたが、俺は適当に相槌を打ってガルヴィンを抱き上げ、ウィンディーネの隣に寝かせた。もう大丈夫だよ、とガルヴィンは言ったが、俺はもうちょっと寝てろとすぐに言い返して、無理やり丸まったコートに後頭部を押しつけた。
それから、眠り込むように気を失っているウィンディーネの肩を揺すった。しかし、なんの反応も示さない。
「彼女……まだ起きないの?」
治療を終えたレジスタンスの女が、背の低い男の肩を借りながら俺の隣にやって来た。
「ああ……。あんたが死ビトに襲われるのを見てから、ずっとこんな状態みたいだ」
あれを目にして、記憶のなかのあの凄惨な光景がフラッシュ・バックのように甦ってしまったのだろう。ウィンディーネにとってあの少年の死は、熾烈なトラウマのようなものになってしまっているのかもしれない。
女は悲しそうな表情でうつむいた。本当にウィンディーネのことを心配しているみたいだった。
「ワタシ、この子とは友達になれる気がするの。彼女はなんて言うと思う?」
痛みに顔を歪めながら彼女は屈み、そしてウィンディーネの頬に触れた。どうだろう、と俺は言った。目覚めたら、本人に直接訊いてもらうしかない。
しかし、レジスタンスの女はウィンディーネが目を覚ますのを待てないようだった。眼帯の男の指示で、彼女は負傷のためにアジトに戻されることになった。俺もそのほうがいいよと言った。いくら噴水の水の包帯で治療したとはいえ、死ビトに手足の肉を噛み千切られたばかりなのだ。
俺は血が滲みだしている彼女の腕の包帯を見ながら言った。「でもあんたは運がいい――もし俺の世界だったら、そろそろ俺のことが美味しそうに見えてる頃だ」
気の利いた冗談を言ったつもりだったが、とても重大な意味が含まれていると思われてしまったようだった。
「えっ? ごめんちょっとわからない、どういうこと?」
「いや、なんでもない。……お大事にな。ここまで案内してくれてありがとう」
包帯を巻いていないほうの手がすっと差し出された。「お礼を言うのはこっちよ。影鰐――だった? あれを退治してくれて本当にありがとう」
俺は少しのあいだその手を眺めてから、力をこめてしっかりと握った。そして名前も知らないレジスタンスの女は、背の低い男とともに来た路を戻っていった。
残った眼帯の男は彼女らを見送ると、ツンツンヘアーの若者をその場に残して、俺の近くまで寄ってきた。
「我々レジスタンスとは握手しないと思っていたが、勘違いだったか?」
俺は中腰になって、ガルヴィンのおでこに手をあてながら言った。「肘の角度が素晴らしかったからな」、そして相手の覆われていない左目を見た。「で、あんたとツンツンヘアーはなんで残ったんだ?」
彼はふっと口角を上げて笑う。
「ここから先も道案内が必要でしょうが。それに、我々が裏切り者の幹部を放っておけるとでも?」
俺は何も言わなかった。ラウドゥルたちにさらわれたときのように、内輪揉めに関わるのなんてごめんだ。クラウディオさんさえ無事救出できればなんでもいい。
若者の靴底が、コンクリートの地面を何度も叩いて小さな音を立てていた。誰も口をきかず、それだけがずっと昔の夢の続きみたいに俺の耳に入り込んでいた。
ウィンディーネはそれからすぐに目を覚ました。顔が青白く、目は夜の闇にさらされたサファイアのように色褪せていた。




