308 三本足の烏より
普段と一見変わらないように感じられたが、たしかにウィンディーネからは深い焦りや苛立ちの色が窺えた。一口に言うと、周りがまったく見えていないようだった。たとえば、女のペースを考えずにその手を引いて薄暗い地下水路をひた走ってしまっているし、俺たち人間の跳躍力を考慮せず、自分だけ幅のある水路を飛び越えてショートカットしようとすることもあった。
細長い通路を走るさなか、ついにレジスタンスの女はウィンディーネの手を振り払い、立ち止まって激しく肩を上下させた。ここまでほぼ走り続けてきたので無理もなかった。
「おいウィン――じゃなくて、ウィンディ……」と俺も一緒に息を整えながら、それでも早く案内しろと女に催促しているウィンディーネに言った。「クラウディオさんが心配なのは俺も同じだけど、ちょっとはペースを考えろって……。彼は将軍とレジスタンスの裏切り者に囚われてるんだ、もし戦いになったとき、こっちの体力が尽きてたらやばいだろ?」
隣で汗を額から滴らせているガルヴィンが、俺のコートの袖に軽く手を振れた。
「お兄ちゃん、それって逆効果だよ……」
ウィンディ-ネは俺の言葉に顔をこわばらせ、瞳に燃えるような炎を浮かべた。クラウディオさんの身の危険を連想させてしまったようだった。
「だからこんなところでダラダラしてる暇はねぇんだよ! さっさと案内しろヒトの女!」
「も、もうちょっと休ませて……」とレジスタンスの女は姿勢を変えずに言った。
「チッ……!」
イラつきを隠そうともせず、ウィンディーネは湿ったコンクリートの壁に立てかけられているスコップを蹴り上げた。ずっと先の薄闇のほうから、緩やかに流れる水路をボチャンと打った音が聞こえた。
突然、ガルヴィンが地面に膝をついて、苦しそうな呻き声を短くあげた。
「おい大丈夫か!? またウィンディーネの感情の流入か!?」
「う……うん。まあ、それはずっとなんだけど、ちょっとこれは大きな波だね……」
ウィンディーネが振り返り、涙と汗を滲ませるガルヴィンの顔を見た。
「ああっ? なんだそりゃ?」と口を尖らせて彼女は言った。その顔つきにも、そして言い方にも、ガルヴィンを労わろうという気持ちは少しも見て取ることができなかった。
「お前の激情がガルヴィンのなかに流れ込んでるんだよ!」と俺はどなった。「ガキじゃねえんだから少しは落ち着け! お前のせいでどれだけガルヴィンが苦しんでると思ってんだこのバカ女!」
ガルヴィンは震えていた。ウィンディーネはそんな彼女をじっと見つめて、そして吐き捨てるように言った。
「そんなのアタイの知ったこっちゃねぇ。ってか、どうせ中途半端な精霊士だからそんなことが起こるんじゃねぇの? 嫌なら今すぐ水路にでも飛び込みナ、死ビトにでもなりゃあそんなモン感じずに済むぜ!」
いくつもの火花が走ったみたいに、俺の目の前が一瞬赤く染まった。俺は咄嗟にウィンディーネの襟元を掴んでいた。
「何言ってんだよお前! 気が立ってても言っていいことと悪いことがあるだろ馬鹿野郎!」
「知るかって言ってんだよクソが! ヒトの分際でこのアタイに意見してんじゃねぇ!」
「俺もガルヴィンも、お前とクラウディオさんのためにこんな場所にいるんだぞ……もうちょっと考えてものを言えねえのかよ!」
「じゃあとっとと帰んナ、もうテメェらは必要ないね! おいヒトの女、そろそろいいだろ、出発すんぞ!」
それでもレジスタンスの女は動き出そうとしなかった。物事を自分のペースに引き寄せようとしているみたいに、顔をあげて発言のタイミングを窺っていた。しかし、そんな駆け引きに応じるウィンディーネではなかった。少なくとも、今の彼女にはそんな遊びの部分を許せる余裕がなかった。
手刀から、水で生成された刃がすっと伸びた。そして、躊躇なく女の喉元にあてがわれた。
「殺スぞヒトの女。さっさと案内しナ、二度は言わねぇ」
目に青白い光を帯び、水色の長い髪が無重力下にいるみたいにふわふわと浮遊しだした。その姿は精霊というより、メデューサのような妖の類にだいぶ近いように感じられた。ウィンディーネは自分でも知らないうちに、その分水嶺を越えようとしているのかもしれない。黒い憎しみの炎を燃やし、本当に人を殺害するのも厭わなくなっているようだった。
刃が少しだけ押し戻された。ガルヴィンが立ち上がり、そこに指をあてて力をこめていた。
「だめだよウィンディーネ、きみはこんなことをしちゃいけない。もしこの女を傷つけたら、きっときみはきみでいられなくなっちゃうよ」
ガルヴィンの指先からぽたぽたと赤い血が垂れ、その音が誇張されて空間全体に響き渡っていた。水の刃がすっとなくなり、水色の髪がまたウィンディーネの背中をマントのように覆い隠した。
「ふんっ……生意気な精霊士のガキだナ」とウィンディーネは言った。「ならヒトの女、アタイに殺される前にさっさとクラウディオのところに連れていきナ!」
女は僅かにあごを引いて頷いた。押しあてられた刃の感触を拭うように首元に触れ、それからまた水路の脇をゆっくりと走り出した。
俺はガルヴィンの指を取った。大蝦蟇を使役して噴水の水の包帯を吐き出してもらおうとしたが、彼女はすぐに首を振って、血の滴る指先をぱくっと咥えた。
「大丈夫、こんなの舐めてれば治るよ」
「な、舐めてればってお前、猫みたいなことを……」
「それよりさっきも言ったけど、ウィンディーネのことを悪く思わないであげてね。彼女は大丈夫、ボクにはわかるよ。本当は人のことが大好きで、きっとクラウディオおじさんを無事助け出せたら、不器用だけど優しいウィンディーネに戻ると思うんだ」
そして恩を感じて、ガーゴイル起動の阻止に協力してくれればいいんだけどな……、と口には出さないが俺は思う。結局のところ、俺がクラウディオさんを救出しようとするのには、そういった打算的な考えが包含されている。
しかし、ガルヴィンはただ純粋にウィンディーネのためを想って行動していた。博愛的といってもいいかもしれない。本人は意識していないかもしれないが、彼女にとって精霊とは、そういう無償の愛で接するべき存在なのだろう。
俺たちはそれから、また薄暗い地下水路を走って進んでいった。そしてフェンスに囲まれた広い空間が見えてくると、女は身を隠すように壁に背を密着させて動きを止めた。そして向こう側を慎重に覗き込んだ。
「やっぱり死ビトが溜まってるね……だいたい百五十はいそうな感じ……」
そこはどうやら死霊の澱みになっているらしかった。気流や風の動きの影響で、自然と死ビトの集まるスポットができてしまうことがあるのだ。どの個体も白く濁らせた目を虚空に向け、目的もなくゆっくりと歩きまわっている。
俺たちのすぐ脇手には数段の短い下り階段があり、その先に頑丈そうな鉄扉があった。どこか不思議な雰囲気を感じさせる扉で、見たところ取っ手のようなものはなかった。
女が階段を飛び降り、扉に手を触れる。
「リーダーが言ってたよ、封印を解かない限り開かないんだって……。レジスタンスの裏切り幹部はその権限みたいなものを持っていて、それでこっちの近道を通って根城を行き来してるみたい。つまり、そうでなければ、あの死ビトのバリケードを突破しないと奥には進めないってわけ」
じれったそうに顔を振り、ウィンディーネは死ビトの群れを見やった。
「だったらちゃっちゃと死ビトどもをぶっ殺して進めばいいだろ!」
しっかりとウィンディーネの目を見て、俺は尋ねる。
「本当に大丈夫か? ただの死ビトじゃない、強力な円卓の夜の死ビトなんだ。それに、わかってるのか? お前だけ無事に突破できればいいってわけじゃないんだぞ?」
彼女は唇を曲げて、俺の目を射抜くように見る。「あ? テメェまだいたのか? もうアタイとこいつだけで十分だっつったろ、テメェは帰ってママのオッパイでも吸ってナ!」、そしてレジスタンスの女を引っ掴み、高く飛翔してフェンスを越えていった。
「お、おい待てよ!」
女ごと綺麗に着地をすると、ウィンディーネは水の刃を手刀から伸ばして、まず前方の探知されていない死ビトの首を刎ねた。
それに周りの数体が反応し、一斉に白ずんだ顔が向けられたが、白濁した瞳がウィンディーネを映した頃にはもう首が刎ね飛ばされていた。少し遅れて、いくつもの頭部が砂のつまった麻袋のような現実的な重みをともなって、地面にボトッと落下した。
ウィンディーネはそうやって行く先の死ビトを次々に葬っていった。その動きの流麗さには目を見張るものがある。細い身体がダンスを踊るように死ビトの合間を縫っていき、長い手足がしなやかに暗闇のなかで舞って、おびただしい数の首が落とされていった。
だが、やはりウィンディーネは周りが見えていなかった。普通の人間に、いつまでも彼女のダンス・パートナーが務まるわけがないのだ。レジスタンスの女はウィンディーネの動きについていけず、空間のど真ん中で足をもつれさせて転んでしまった。ウィンディーネはそれに気づいた素振りを見せない。
向こう側のフェンスの辺りまで到達し、死ビトとの饗宴に終わりが見えてきたころ、やっと左肩にしがみついていたはずの女がいないことに彼女は思いあたる。怪訝な様子で振り返ると、視線の先で複数の死ビトが女に覆い被さっている。
「おいヒトの女……! なんでそんなところにいやがる……!」
届くはずのない腕を垂直に上げ、彼女はその場で凍りついたみたいに体を硬直させる。心の奥底に密閉されている太古の記憶が呼び覚まされてしまったかのように、顔が見るみるうちに青ざめていく。そしてウィンディーネは雷鳴のような悲鳴をあげる。目を伏せて膝をつき、夕凪の海のように静かに横に倒れ込む。
俺とガルヴィンは当然、レジスタンスの女を助けるために動き出していた。ガルヴィンの放った黒い炎がフェンスをぶち抜き、新たに女のところまで這い寄る四体の死ビトを纏めて焼き尽くした。
「出でよ鎌鼬・十六夜――並びに狛犬!」
俺はガルヴィンが空けてくれたスペースまで駆け込み、女の体に群がる死ビトの首を、八つに分身する鎌鼬の両手の鎌で瞬時に刎ねた。そして同時に狛犬を使役して、遠くで壁のように群れを成している死ビトの真ん中の辺りを曖昧に狙わせた。
「狛犬でフェンスまでの死ビトを一気に蹴散らすぞ!」と俺はガルヴィンに大声で言った。「発射したらすぐにダッシュしろ! 大丈夫、狛犬が道を作ってくれる!」
多くの死ビトが徐々に俺たちの存在を虚ろな意識下に認めていき、夢遊病のように曖昧だった瞳の動きを俺たちに向けて固定させた。
ガルヴィンは段々と狭まっていく死ビトとの距離に注意を払いながら、少しだけ口を開いて頷いた。それから何かを言ったようだったが、しかし俺はそれを聞くことができなかった。
「っ……!」
俺の意識は濃い霧のなかにあった。深い絶望が立ち込める、どんよりとした灰色の雲のような霧だった。
「これは……ウィンディーネの……?」
どういうわけか、俺はこれがウィンディーネの記憶の断片のようなものだとすぐに理解できた。ガルヴィンのなかにウィンディーネの激情が流入しているように、俺なりに彼女の何かを違う方法で視ているのだ。
そうだろ、八咫烏? と俺は言った。小さな光の玉が目の前に現れてふわふわと宙に浮かび、しばらくしてそれは三本足の烏へと移り変わっていった。
八咫烏は何も語りかけてこなかった。ただ俺の右肩に飛び移り、墨色の大きな翼をはばたかせ、ウィンディーネという一人の美しい精霊の物語を俺に垣間見せた。
その日は雨が降っていた。




