304 ≠イルカショー
まさか一日に二回、しかも違う人物を尾行することになるとは思ってもみなかったが、クラウディオさんのときと同様、体格のいい兵士の追跡もすぐに終わりを迎えることとなった。彼は緩やかな坂の上の民家に着くと、人目を気にしながら敷地に侵入し、庭のカエデの木の陰にさっと隠れて家の様子を窺いだした。
「あ、あの将軍の爺さん……やってくれるじゃねえか……」
それはウィンディーネとクラウディオさんのこじんまりとした家だった。つまり将軍はあんなふうに俺のことを諭しておきながら、部下に俺の殺害を命じたのだ。いや、俺だけではなく、当然あの場にいたガルヴィンとウィンディーネも含まれているだろう。
兵士はターゲットである俺に見られているとも知らずに、大きな体を折るようにして窓際まで寄っていった。そして鞘から剣を抜き、柄頭で窓ガラスの端を割って、悠々と鍵を開けて家のなかへと入り込んだ。
ここからの彼の行動は容易に想像がつく。神経を研ぎ澄まして忍び足で各部屋をまわり、いるはずのない殺害対象を探すのだろう。
やがて彼は不在という可能性に思いあたる。最後の部屋を調べ終えると、長く彼を縛っていた緊張感が音を立てて緩みだす。そして隙が生まれる。剣を鞘に納め、彼はまた窓から出ていこうと踵を返す。もう足音に気を使うようなことはしない。あるいは口笛を吹く余裕すら見せるかもしれない。
俺はそこを狙った。少し待ってから彼の侵入経路を借り、ウィンディーネたちの家に入った。さすがに口笛は吹いていなかった。しかし軍服とセットの帽子を脱いで、それで太もものあたりを叩いてヒップホップのようなリズムを刻んではいた。前方に俺の姿を認めると、さすが訓練を積んだ兵士だと認めるべき速さで剣柄に手をかけた。しかし、抜くのを待ってやる義理は俺にはなかった。
「出でよ雷獣!」
ビリビリビリッ!
紫電に膝のあたりを打たれ、兵士は前に倒れ込んだ。頑丈そうな体をしているので気絶まではしないかと思っていたが、予想は外れた。仕方がないので大蝦蟇を使役して縄を吐いてもらい、柱に縛りつけることにした。覚醒するのを待って、クラウディオさんの居場所を吐かせなくてはならない。
しかし、五分経っても兵士は目を覚まさなかった。気絶させてしまうとこういうとき面倒だなと考えていると、突然真上で爆音が響いた。何かが屋根を突き破り、俺の胸に飛び込んできた。それは強烈な打撃となり、その衝撃で背中を床に叩きつけられ、そのあとすぐに屋根の瓦礫が体全体に降り注いだ。
「いてて……」
おおかたが落下すると、俺は慎重に上半身を起こして屋根に突き刺さっているものを見上げた。巨木の根のように太い氷の塊が、そこで静かに先端をこちらに向けていた。ほとんど透明に近い氷塊で、もう溶け始めているらしく水滴を垂らしている。考えるまでもなく、これがウィンディーネの言っていた必殺の術とやらなのだろう。クラウディオさんの居所をつきとめ、それを俺に知らせてきたのだ。あれを辿れば、難なくその場所に行き着けるはずだ。
「あのヤンキー女……最小限の威力って言っておきながら、これかよ……」
直撃を受けた胸の真ん中が痛んだが、内出血をしているだけで骨に異常はないようだった。ふと兵士を見ると、瓦礫のシャワーからは難を逃れていたが、まだ気絶したままだった。もう口を割らせる必要もないので彼をそのまま放っておき、俺は部屋を横切って開け放った窓まで急いだ。その途中で、彫刻道具や1メートル程度の彫像がいくつか並んでいる部屋を目にした。クラウディオさんが倉庫代わりにしているのだと思われる。
その部屋の隅にぽつんと置いてある古めかしい天秤が、妙に俺の目を引きつけた。脳が自然と連想を試みていたが、どう線を伸ばしても彫刻と天秤を結び付けることができないでいた。あるいは俺が知らないだけで、何か必要な材料を計量するのに使うのかもしれない。だが、それでも近寄って間近で見てみないわけにはいかなかった。
それは夜空に星座として描かれるごく一般的な天秤で、左側の皿には粉末状のものがかすかに残されていた。テーブルの下で小さな木箱が密やかに眠っているのに気づいたのは、粉末の匂いを嗅いでみようか迷いながら目線を下げたときだった。
木箱を引っ張り出し、蓋を開けてみる。ハーブの香りが、一瞬にして部屋全体に広がった。中には粉末の詰まった小瓶がいくつかあり、レモンバームやローズマリーやペパーミントなどと記された紙が貼り付けられていた。
「クラウディオさん……ここでハーブの調合をしてたのか……?」
視野に収まる光景は、こそこそとウィンディーネに隠れてという印象を俺に与えていた。だとしたら、勝手に開けたのはまずかったかもしれない。俺は元あった位置に木箱をしっかりと戻し、今見たものを頭の隅に刻んで、また部屋を横断して窓まで向かった。
*
氷塊の根は虹のように空を突き抜け、海岸のあたりでその弧の端をなだらかに折り曲げていた。既に屋根を突き破ったときよりもほっそりとしており、融け出した水が水蒸気となって陽光を反射させ、キラキラとした輝きを空に振り撒いていた。まさか真冬の寒空の下でこんなに早く融解するとも思えないので、もともとそういう性質の術なのだろう。何組かの親子が外に出て、その煌びやかなアーチを見て喜んでいた。
ウィンディーネが俺に知らせていたのは、海岸沿いに立ち並ぶ倉庫の一つだった。見た目よりも重たい扉を押し込んで中に入ると、薄闇の真ん中で人が倒れているのが見えた。軍服姿の兵士で、遠間からでも将軍の部下だということがわかった。脈を取ってみたが、気絶しているだけで、もう一方の手はまるでダイイング・メッセージのように倉庫の右奥のほうを指差していた。
物陰になってわかりにくかったが、指の示す先には石床が正方形にくり抜かれた場所があり、鉄製の梯子が真っ暗な地下に向かって降ろされていた。あのダイイング・メッセージは、ガルヴィンとウィンディーネがこの梯子の存在を俺に教えるためのものだったみたいだ。
「お、おーいガルヴィーン……ウィンディーネ?」
小さな声で呼びかけてみたが、一向に返事はなかった。そもそもこの先は地下の一室というより、もっと大きな空間に続いているように感じられる。空気の流れが、壮大な地下世界を俺に想起させている。いずれにしろ、将軍を尾行していたガルヴィンとウィンディーネが潜っていったということは、クラウディオさんはこの闇の先のどこかにいるということだろう。
慎重に下まで降りてみると、やはりそこには複数の水路に囲まれた迷路のような地下の世界が存在していた。途方もなく高い天井や要所ようしょに頼りない明かりが灯っているが、闇を払拭するには到底及んでいなかった。足元のすぐ脇で、底の見えない緩慢な水の流れが眠たくなるような音色を奏でている。水路に沿って伸びる細い道はぬめぬめと湿っていて、まるで人を拒絶しているかのようだった。
俺はふと、この国まで乗せてきてくれた馬車の御者の言葉を思い出した。
『レジスタンスは古今東西、どんな連中でも地下に集まると相場が決まっている。そこで悪巧みをしているのさ』
すべてを鵜呑みにする気はないが、もし本当にここがレジスタンスのアジトだとしたら、将軍は彼らと繋がっていることになってしまう。帝国を受け入れた者たちと、帝国を排除しようとする者たち。彼らを隔てる壁はあまりにも高いはずだが、よく目を凝らせばどこかに出入り口みたいなものがあるのだろうか。金品を受け渡すための小さな窓があるのだろうか? 打算と裏切り。この国の本当の意味での良い未来。なんにしろ、俺にはあまり興味を持つことができなかった。俺は早くガルヴィンやウィンディーネと合流して、クラウディオさんを救出するだけだ。そして、なんとしてでもウィンディーネを説得するだけだ。
とりあえず俺は、八咫烏を使役して地下の気配を探ってみた。すると、かなりの数の気配が広範囲に散らばっていることがわかった。おおまかに腑分けすると、三十三と十一の気配が一か所ずつあり、あとはそれ以下の数が固まったり移動したりしていた。どう注意深く視ても、この俯瞰の映像からは個人を特定することはできない。
俺は八咫烏を還し、纏まった気配のある方向を避けて細道を歩き出した。うっかり足を滑らせれば、とたんに深い水路に落ちてしまいかねない。ゆっくりと歩を進めてもっとも幅の狭い通路を抜けると、かなり左右にゆとりが生まれた。しかし、それに併せて両側を流れる水路も広くなっていた。イメージ的には、小学校のプールの真ん中に浮かぶ長い体操マットの上を歩いているみたいな感じだった。もちろんキャッキャとはしゃぐ小学生の姿はなく、代わりに仄暗い水のなかに得体の知れない化物が棲みついているような漠然とした恐怖を加味すれば、イメージと現実の差はぐっと縮まるかもしれない。
しばらく進むと階段があり、それを少し上ったところで両側を壁に囲まれた。小さなトンネルのような場所だった。薄闇のなかを、また一段ずつ上っていく。向こう側で俺を待ち受けていたのは、ひらけた円形の空間にすっぽりと内包された、ダムのように巨大な貯水槽だった。
あまりに異次元的なその迫力に気圧され、階段を上りきったところで俺はしばらく立ちすくんだ。広漠とした貯水槽の真ん中を走る頼りない金網床の渡りがずっと先まで伸びており、その2メートルほど下まで水が迫っていた。貯水槽がどれくらい深いのかは、もう想像すらできない。たぶんマリアナ海溝よりは少し浅い程度だろう。喩えようのない恐怖から、俺はここを渡らない理由を二十ほど考え出し、引き返そうと背を向けた。ガルヴィンの呻きが聞こえたのは、階段を一つ下りた瞬間だった。
「っ……!」
急いで振り返り、俺は声の聞こえた方向の闇を睨むように注視した。やがて貯水槽の真ん中に小さな円系の足場が存在していることに気がついた。そこで天井からの薄明かりが、ガルヴィンの真っ赤な髪を暗闇に捧げるように照らしていた。少し離れたところには、複数の人影が確認できた。
「ガルヴィン!」
俺は無我夢中で駆け出し、足を必死で前に送り続けた。ガルヴィンは胸を押さえて苦しそうに膝をついていた。彼女の前に立ち、俺は二つの人影に視線を注いだ。左手を添えた右腕を真っ直ぐに構えた。
「お前らガルヴィンに何をした! 今すぐ答えないとただじゃおかないぞ!」
人影が慌てふためき、小刻みに手を動かして自分たちは何もしていないと訴えた。高い男の声と、低い女の声が入り混じっていた。暗闇に目が慣れてくると、そこには二人ではなく三人いることが視認できた。見えなかった一人は横たわり、どうやらぴくりとも動いていない様子だった。
「あれ……お兄ちゃん……?」と後ろでガルヴィンが言った。今にも消え入りそうな小さな声だった。
「ガルヴィン! どうしたんだ、お前大丈夫か!?」
「嫌だな……お兄ちゃんまで来ちゃったの……?」
ガルヴィンはそこに親の仇でも潜んでいるかのように、強く心臓の辺りを手で握り込んでいた。顔からは涙と汗が滝のように流れ落ちていた。
「胸が痛むのか!? 何があったんだ!?」と俺は屈み、彼女の肩に手を置いて尋ねた。
「ボ、ボクは少し落ち着けば大丈夫……だと思うよ。それより、そこの倒れてる男をよく見て……」
言われたとおりにすると、彼女の言おうとしていることがすぐに理解できた。
男には影がなかった。
「喰われたんだ……」とガルヴィンは言った。その瞬間、貯水槽の水面が爆発したような水飛沫を上げ、そこから巨大な輪郭が飛び出してきた。
「っ……!」
輪郭は影を全身に纏っていた。そしてそれは、水族館のイルカショーのように俺たちのいる小さな円形の真上を横切り、また逆側に着水した。
「あいつにね……」とガルヴィンは言った。少し遅れて、追随するように打ち上がった津波のように大量の地下水が、俺たちを完膚なきまでにずぶ濡れにした。




