302 亀がひっくり返り、王はヅラを被る
クラウディオさんがアトリエ用に借りている建物のまわりには人だかりができていた。みんな開けっ放しのドアや窓から身を乗り出すようにして、待合室のような部屋の中を好奇の目で覗いていた。
そんな人混みを掻き分けて中に入り込むと、そこで目にした光景に唖然としないわけにはいかなかった。ひどく荒らされている。簡素な造りのテーブルはその足を二本ほどへし折られて床に傾き、午前中に俺とガルヴィンが座っていた椅子は、どちらも浦島太郎に出てくる亀のように宿命的にひっくり返っていた。唯一、グスターブ皇国の大男からこの国の将軍へと着座主が入れ替わった椅子のみが、壁の傍らでその機能を保っていた。しかし、当然誰も座ってなんかいなかった。
「確認するぞ」と俺は隣で息を整えているウィンディーネに言った。真冬だというのに額に汗を浮かべているのは、ここまで全速力で走ってきたからという理由だけではなさそうだった。
「ウィンディーネ、お前は昼食を食べに戻ってこなかったクラウディオさんの様子を確認しに、一度ここを見に来たんだよな?」
「ああ……!」とウィンディーネは肯定した。「テメェにドロップキックをかます少し前にナ。そのときから部屋の状況は変わってねえみてぇだ」
彼女は顔を振って、玄関先や窓に張り付く人々を見やった。「あの好奇心旺盛な観客どもはまだいなかったけどナ!」
ガルヴィンはとことこと冷静に部屋を歩きまわっていた。倒された棚のまわりに散らばる本や束になった書類をぱらぱらとめくったり、粉々になった食器類などを感触を確かめるみたいに指でつついていた。それから視線を一点に持っていった。クラウディオさんの仕事場である、アトリエの青い扉だった。
「ちょっと変じゃない?」とガルヴィンは言った。
「ああ、変だな」と俺は彼女の思考を継いだ。「こんだけ荒らされてるのに、そのドアは閉じたままだ」
近寄って確認してみたが、扉は開かなかった。鍵がかかったままだった。真鍮のドアノブは古びて色褪せてはいるが、仔細に点検しても強引に鍵を開けようとした形跡は認められなかった。つまり、ここをこんな風にした犯人は、この扉の奥にある一番重要なものに興味を注がなかったということになる。
「クラウディオさんは王から密命を受けて、明後日開かれる式典用の彫像を製作してたんだ」と俺はウィンディーネに言った。「お前はそれをどこまで知ってるんだ? 『あの滝川のように、違えた流れもやがてひとつに。そして末まで』……。これが作品のタイトルみたいだけど、お前は彫像そのものを見たことがあるのか?」
ウィンディーネは首を何度か振った。
「クラウディオは魂を込めるほどの大事な作品は、完成するまでアタイにすら見せねぇ……。家でその話をすることもねぇ。アタイも街の噂で耳にしたぐらいだ、『北の大地から下ってきた勇敢な開拓者を祖とするルザースと帝国の人々が、長い歴史を経て今一つとなる』。タイトルはこれを意味してるらしいぜ、アタイはこの国のことはよくわかんねぇけどナ」
今度は両国のルーツか……と俺は思った。口にする人によって、タイトルの解釈具合がどんどん変わっていく。まるでノストラダムスの大予言みたいだ。あまたの人々に俎上に載せられ、その意味性が押し延べられてしまっている。思想的に、あるいは耳心地がいいように、好きにこねくり回されているように思える。
「それで、お前はこの扉の鍵を持ってないのか?」
「持ってねえナ」とウィンディーネは言った。「そもそも、アタイはここにあまり来ねえしナ」
「じゃあ呼びかけてみたのか? もしかしたらまだクラウディオさんは中にいるかもしれないだろ?」
彼女はきょとんとした顔になり、それから早歩きで青い扉の前まで移動した。咳払いをひとつ挟み、彼女は愛する夫の名を扉を叩きながら連呼した。
しかし、反応はなかった。「ほら見ろ! いねえじゃねーか!」
「威張るなよ……ってか、最初に確認しとけよ……」
「この部屋を見てパニクっちまったんだから仕方ねぇだろ!」
念のために八咫烏を使役してみたが、中に気配は一切見あたらなかった。僅かながらに灯った希望の光が、ウィンディーネの顔からさっと引いていった。
「一応、扉を破壊してクラウディオさんの彫像を見ておくか?」と俺は右腕を構え、彼女に尋ねた。彫像を目にすれば、彼の行方についてヒントを得られるかもしれない。
「いや――それは今はやめろ……」と逡巡の末に彼女は言った。「アタイはクラウディオの無事を何があっても信じる……。だから、できるだけ仕事のポリシーを崩したくねぇ……」
そっか、と俺は呟いた。しかし、それは群衆の一人が発した言葉によって、ウィンディーネの耳に届く前にかき消されてしまった。
「ヘッ……いい気味だぜっ! 帝国を賛美するようなモン造ってるから罰が下ったんだ!」
玄関先からこちらを覗き込んでいる男の発言だった。今朝、クラウディオさんを殴り飛ばしたツンツンヘアーのあいつだ。
目の端が、残り香のように宙を漂うウィンディーネの長い後ろ髪を捉えた。侮蔑に対して反射的に飛びかかったのだ。
「やめろバカ! あんな奴ほっとけ!」
俺は後ろからウィンディーネに抱きつくような恰好で取り押さえた。
「放せウキキ! あの野郎ぶん殴ってやる!」
ガルヴィンに指示しようと視線を送ったが、彼女は既に行動に移っていた。ところどころ切り裂かれているカーテンを引き、それから玄関のドアに手を伸ばした。
しかし、ドアはすぐには閉められなかった。ガルヴィンはツンツンヘアーの若者を前にして、そこで長い時間佇んでいた。後ろからなので、その表情まではわからない。
やがてガルヴィンは静かな声で囁いた。「ねえ、どうせあんたたちレジスタンスがオジサンを拉致ったんでしょ?」
若者はどうやら否定らしい言葉を咄嗟に口にし、そしてウィンディーネは激昂して手刀から水の刃を伸ばした。
「落ち着けバカ、お前正体がみんなにバレるぞ!……ガルヴィンも余計なこと言わないでいい! 早くドアを閉めろ!」
ようやくドアが閉ざされると、それでいくらか部屋のなかが静かになった。ウィンディーネを解放すると、彼女は手刀を下げてからすぐにガルヴィンに詰問した。
「レジスタンスがクラウディオをさらったのか!? テメェはそれを知ってたのか!?」
口を開きかけたガルヴィンに目配せし、俺は代わりにレジスタンスが一番疑わしい立場にあることを説明した。連中はこの国が帝国の属国になっているのを憂いていること。それで両国の和平を祝う彫像を製作するクラウディオさんを逆恨みしていること。そして、クラウディオさんがさっきのツンツンヘアーに殴られるところを目撃したこと……。
「たぶん、今までも暴力を振るわれたり、嫌がらせを受けたりしてたんじゃないかな……」と俺は結んだ。
ウィンディーネは何も言わずに立ち尽くし、やはり流れ落ちた大きな涙粒で床のコーヒーカップの破片を濡らした。
「そんなのちっともわからなかった……」と彼女は絞り出すように言った。「アタイは……嫁失格だナ」
「まあ、クラウディオさんも必死に悟られないようにしてたんだろ。お前を心配させないためにさ」
比較的清潔なハンカチが落ちていたので、俺はそれを拾ってウィンディーネの手に握らせた。それから難を逃れた椅子を彼女の前まで持っていき、肩に手を添えて座るよう促した。
「どうしたよ……テメェにしては優しいじゃねぇか」とウィンディーネは挑むように俺に言った。
「馬鹿言え、俺はいつだって優しいよ」と俺は言った。「それより――お前がレジスタンスのアジトを探して特攻しようとする前に言っておくぞ。たぶんだけど、今回の件はレジスタンスは関与してない」
すぐにガルヴィンが反応した。
「どういうこと? お兄ちゃんも今、レジスタンスが一番疑わしい立場だって言ったじゃない」
「一番疑わしい立場ってだけで、犯人ではないと思う。だって考えてもみろよ、レジスタンスが一番憎んでるのはクラウディオさんだとしても、その次に憎悪の対象になるべき和平のモニュメントがスルーされてるんだぞ? 普通なら壊そうとするんじゃないか?」
ガルヴィンとウィンディーネは同時に青い扉に目を向けた。扉を打ち破ろうとせず、鍵を壊そうとさえしていない状況証拠を目に留めると、彼女らはまた揃ってこちらに向き直った。
「じゃあどこのどいつがクラウディオをさらったんだよ!」
「焦るなって、俺にもまだはっきりしたことは言えねえよ」
扉におもいきり拳を叩きつけ、ウィンディーネは唇を噛んだ。
「王の野郎がうちを訪ねて来たとき、アタイとクラウディオはリビングでハーブティーを飲んでたんだ……。夕食のすぐあとだったナ。奴は多くの兵士をはべらせてたが、家には一人で入ってきた。そして唐突にあのヅラ野郎は言いやがったんだ――」
「ちょっと待て」、俺は堪らずに口を挟んだ。「王は……ヅラなのか?」
ウィンディーネは無慈悲に頷いた。音楽家みたいにカールした、ばればれのものを御着用しているらしい。舌打ちをしてから、彼女はまた話を続けた。
「あのヅラ野郎はアタイに言いやがったんだ。『奥方は一時間ばかり外に出ているでおじゃる』ってな。それでアタイは海岸を散歩――」
「ちょっと待て……おじゃる?」
「あんだよテメェ! いちいち話の腰を折るんじゃねえよ!」
「いや、おじゃるなんて本当に言う奴がいるのか? 作ってないか?」
「いたんだよ!」と彼女はどなった。いたらしい。
今度こそ最後まで話を聞こうと思い、黙って待っていると、ウィンディーネは突然また細腕で青い扉を殴りつけた。
「ようするに、アタイがあのとき強引にでも王の密命なんて受けさせなきゃ、こんなことにはならなかったんだ! レジスタンスから絡まれることも、誘拐されることもっ……!」
前屈みのまま扉にもたれてずるずると沈み、両膝をついてウィンディーネはしくしくと泣きはじめた。彼女をまた椅子に座らせて落ち着かせていると、ずっと黙っていたガルヴィンが声をあげた。
「それで、お兄ちゃんは犯人の目星がついてるの?」
「まあ、直感的にはな……。もし俺の考えが正しければ、そろそろ犯人はここに戻って来て行動を起こすんじゃないかな」
ちょうどそのとき、タイミングを計っていたかのように玄関のドアが軋んだ音を立てて内側に開いた。俺たち全員の目が一斉にそちらを向いた。先に重たい冬の冷気が入り込み、部屋のなかの空気と混じり合って、少し遅れて老齢の男が足を踏み入れた。
「これはなんの騒ぎだね?」と将軍は言った。




