298 海辺の二人
夜の街を歩く俺の左隣にはガルヴィンがいた。彼女は俺がフォーマルなスーツに身を包んでいるのと同様、子供用の濃いブルーのワンピース・ドレスを着ていた。これからどんな格式の高いオーケストラ・コンサートを聴きにいったとしても、少しも恥ずかしくない格好だ。
真夏の茂みのように伸びている真っ赤な髪も、俺がワックスで無理やり整えてやった。長い前髪を横に流したので右目が隠れてしまっているが、まあこれはこれで可愛いので問題ないだろう。
右手には冬の海に浮かぶ黄色い二の月が、とても大きく見えている。凍える海に淡い明かりを差し、そして元の世界のアマルフィのような傾斜に建つ家々を優しく照らしていた。
緩い坂道をのぼっていくと、住宅地をちょっと過ぎた辺りの一角に人が何人か集まっているのが見えた。闇のなかに佇む輪郭はおそらくすべて男のものだったが、顔は見えないし、もちろん何を話しているのかも聞こえてこなかった。
「きっとレジスタンスの連中だよ」とガルヴィンは彼らを横目に小さな声で俺に言った。「お兄ちゃんとアリスが昼間ウィンディーネの家に行っているあいだに、ボク少し街の様子を見てきたんだ。あんな感じでヒソヒソ話をしてるのが結構いたよ」
あまり多くの集団だと、停戦中とはいえ正規軍や帝国軍に解散を命じられ、そして目をつけられてしまう。それは彼らにとって不利益をこうむる。それがガルヴィンの述べた推論だった。彼女自身、屍教という日のあたらない場所に生まれてから十二年間ずっといたので、そういったことに鼻が利くのかもしれない。
ガルヴィンはレース状になっている胸元を指で引っ張り、また続けて口を開いた。
「それで、なんでボクたち、こんなかしこまった格好をしてるの?」
「堂々とウィンディーネの家に入り込むためだ。俺たちはあいつの旦那さんから夕食に招待されて、マナー良くそれに与からせてもらう。社交的に何も間違っちゃいないんだから、ウィンディーネに……あのヤンキー女精霊に追い出されるいわれはないだろ?」
「ふーん……それはまあいいけどさ。でも話を聞く限り、いくら説得してもウィンディーネがガーゴイル発動の阻止に協力してくれるとは思えないんだけど」
「それでもそれしか道はないだろ……。まずはあいつが何を考えてるのか探って、それでなんとか協力する気にさせるんだ。あらゆる手段を尽くしてな。……ってか食事の話に戻るけど、お前は一応熟睡中のアリスの代わりなんだから、ちゃんとマナー良く食事しろよ? できるか?」
いかにも鬱陶しそうに、ガルヴィンはワンピース・ドレスの長い裾をつまんでふとももの辺りまでたくしあげた。
「まあ、アリスはあれで作法とかはちゃんとしてるしね……。いいよ、このスカートってやつがどうも慣れないけど、ボクだってそれなりに屍教で学んできたんだ。任せてよ、お兄ちゃん」
彼女はすごく自信ありげだった。まあ大丈夫だろうとは思うが、一応尋ねてみる。
「ちなみにだけど……お前ナイフとフォークの使い方わかってるか?」
眉根を寄せ、ガルヴィンは金色の瞳で俺の顔をじっと見つめた。「あたり前じゃないか、バカにしないでよお兄ちゃん」と彼女は言った。「尖ってるほうで刺す。できれば相手の口を塞ぎながらね」
大丈夫じゃないかもしれない。
*
玄関のドアを何度かノックすると、感じのいい声とともにドアが開けられた。エプロン姿のウィンディーネがまだ見ぬ来訪者に対して暫定的な笑みを浮かばせていたが、当然その女神のように美しい微笑みは、俺を見た瞬間に般若のように変貌した。
「テ、テメェ……! 何しに来やがった!」
「何しにって……そりゃ夕食をご馳走になりに来たに決まってるだろ?」
彼女は手にしているオタマを振り上げながら何か口走ろうとしたが、背後からクラウディオさんの声を聞き、咄嗟にオタマの丸まった部分で自分の肩を叩いて体裁を保った。表情は瞬時に穏やかなものに戻している。
「ウィンディ、誰かお客さんかい?」とクラウディオさんは言い、リビングから顔を覗かせてこちらの様子に目を向けた。「おや、ウキキさんでしたか! 急に用事ができて来られないのだとウィンディから聞きましたが、こうして来てくれたということは夕食をご一緒できるのですね?」
やれやれ、ここは口裏を合わせてあげる必要がある。俺は口元がにやけるのを必死にこらえた。
「ええ、急遽依頼が舞い込んできたんですが、それは速攻で片付けました。ですから寄らせてもらったんです。でもすいません、一度断っておきながら、迷惑じゃなかったですか?」
「とんでもない!」と彼は言って握手の手を伸ばしながら歩み寄ってきた。「ウィンディの友人であればいつでも歓迎しますよ! さあ入ってください、そちらのお嬢さんは初めましてですね? どうも、ウィンディの夫のクラウディオです!」
俺とガルヴィンは彼と固い握手を交わし、家の中に足を踏み入れた。クラウディオさんは先導して廊下を歩き、そしてすぐに振り返った。
「ところで、ウキキさんはどんなお仕事を? 依頼というのはどんなことだったのです?」
「ああ、えっと……探偵です!」と俺は言った。探偵? どうしてこともあろうに探偵なんて答えてしまったんだ?「……それで、こいつは助手のワトソンです。あの……ガルヴィン・ワトソンという名前なんです」
クラウディオさんは神妙な面持ちで俺とガルヴィンを交互に見つめた。
「いやあ、お若いのにご立派ですね……」
どうやら納得してくれたらしい。彼がまた前を向いた隙を見て、ガルヴィンは歩きながら俺の脇腹を指で突いた。
「探偵ってなんだよお兄ちゃん、しかもボクのことを助手って」
「バ、バーロ……。口を衝いて出ちまったんだから仕方ないだろ……。それに、あなたの妻は水の精霊ウィンディーネで、ここには彼女を説得しに来たんです。なんて、本当のことを言えると思うか?」
「それはまあ、言えないよね。きっとあの旦那さん白目を剥いて倒れちゃうよ」
良いのか悪いのか、この職業設定によって夕食会は大いに盛り上がることとなった。クラウディオさんは尽きることのない興味を俺に浴びせ続け、俺はちょいちょいテーブルの下からウィンディーネに足を蹴られたり踏んづけられたりしながら質問に答えた。おかげで俺の探偵人生はかなり色の濃いものになってしまった。モリアーティ教授と対決したり、八つ墓村で殺人事件を解決したり、黒の組織に変な薬を飲まされたり。クラウディオさんはどの話も身を乗り出して熱心に聞いてくれていた。自分が夕食に招いた人物が探偵だったとき、人はこうも夢中になれるものなのだ。
だいたい話がひと段落すると、ウィンディーネはパエリアやパスタの皿を下げ、食後のハーブティーを淹れてくれた。アリスの一件があるので少しだけためらったが、状況的にまったく手をつけないわけにもいかないので、ひとくち口に含んでから一気に飲み込んだ。
「素晴らしく美味しい料理だったよウィンディ」と俺は彼女の目を見ながらできるだけ上品に言った。「このハーブティーもすごく飲みやすいし、リラックスもできそうだ。感情が安らかになったり、真っ昼間からベッドで熟睡しちまったりする効果もあったりしてな」
ウィンディーネは瞬間的に俺を睨みつけ、口許に一山いくらの薄い笑みを浮かばせた。
「それは良かったわウキキ。そうだ、それで探偵の話に戻るけれど、私たちが初めて会ったときも街で大きな事件があって、ウキキが犯人を推理して捕まえたのよね。あれの犯人は誰だったかしら?」
やめろ、戻すな。俺のしどろもどろを愉しもうとするな。俺はにやにやしているウィンディーネから目を切り、再びクラウディオさんに向けた。
「俺の話より、二人の馴れ初めが聞きたいですね。なっ……聞きたいだろ、ガルヴィン?」
「うん、すごく聞きたいな。どんな出会いがあって、どんな恋が生まれたのか」とガルヴィンは即答した。食事のマナーは壊滅的だったが、助手としてはなかなか優秀かもしれない。
隣り合うテーブルの席で彼らは目を見交わし、ほとんど同時に顔を赤らめた。語り出したのはクラウディオさんだった。
「言ってませんでしたが、僕は彫刻家なんです」
彼は昔を懐かしむように、目を細めてどこか遠くを見つめた。そしてテーブルの下でウィンディーネと手を繋ぎ、ヤンキー女精霊の顔をよりいっそう赤くさせた。
*
それは二年前の夏だった。ふらりとこの国にやってきたウィンディーネを見て、彼はなんだか懐かしい思いと同時に、雷に撃たれたように創作意欲を駆り立てられた。
「どうか、僕の彫刻のモデルになっていただけませんか?」
考えるより先に、彼はそう懇願していた。しかしウィンディーネは無視をして、海岸まで歩いていってしまった。
彼は急いであとを追いかける。白い砂浜が彼の足を必要以上にもたつかせる。波打ち際にウィンディーネが立っている。つがいのカモメが、青い空を仲睦まじく飛んでいる。
思いつく限りの言葉を尽くす。しかしウィンディーネは後ろを振り返りもしない。あるいは彼女は幻か何かなんじゃないかとクラウディオさんは思う。そうでもなければ、この美しすぎる後ろ姿を説明することができない。彼は思い切って、その水色の長い後ろ髪に手を伸ばす。
しかし、触れることができなかった。手がすり抜けたとかそういうことではない。ウィンディーネはまるで彼の手を躱すように、膝から崩れ落ちて倒れ込んでしまったのだ。
「大丈夫ですか!?」
意識が朦朧としているみたいだった。紅潮した顔は熱があることを彼に告げていた。彼は彼女を抱き寄せ、軽く頬を叩いてみる。彼女はうわ言のように何かを呟いている。最初の雨がその唇にぽつりと落ちる。急な夕立は砂浜を灰色に染め、そしてエメラルドグリーンの海に落ちて溶け込んでいく。
クラウディオさんは雨に濡れながら、自分の家まで彼女をおぶって連れていく。誰もいないボロアパートの一室。「僕は両親も兄弟もずっと昔に亡くし、天涯孤独の身だったのです」と彼は説明を加える。
目を覚ましたのは真夜中だった。それまで彼はずっと布団に横たわる彼女の看病をしていた。といっても、水差しで水を飲まし、額に浮かぶ汗を拭いてあげることぐらいしかできなかった。それでもウィンディーネは目を覚ました。
「ここは……? あなたは誰……?」
彼は何も答えられなかった。あれだけ起きたら何を話そうか考えていたのに、まるで永久に閉ざされた貝のように、口を開くことすらできなかった。そもそも出がらしの言葉なんかになんの意味があるだろう? だから彼は捨てるつもりだった彫刻用のノミを手に取り、ティッシュ箱程度の大きさの石材にハンマーで打ちつけていった。ウィンディーネは少し離れたところからそれをずっと見ていた。
朝になり、また夜が世界を覆いつくした。月明かりが部屋のなかを少しずつ移動し、やがて膝を抱えて座るウィンディーネの全身を照らした。「できた……」と彼は初めて口にした。
「できたって、何が?」
ウィンディーネは彼の隣まで歩き、それを目にした。それは優しく微笑む彼女の彫像だった。
「一心不乱に、こんなものを造っていたの? 何も飲まずに、何も食べずに、何も喋らずに?」
「でも、きみもずっとここにいてくれた」と彼は言った。「やあ、初めまして、僕はクラウディオ。ところで、ぜひきみに僕の彫像のモデルになってほしいんだ。頼めるかな?」
ウィンディーネはほのかな笑顔を顔にたたえた。
「変な人。もう造っちゃったじゃない」
やっぱり……とクラウディオさんは呟くように言った。彫像を持ち、彼女の顔の横に持っていった。
「きっとそう微笑んでくれるって、僕にはちゃんとわかっていたよ」
*
俺とガルヴィンは挨拶をして彼らの家を出た。頭が少しぼーっとしていた。ハーブティーになんらかの効果がある水を盛られたかと思ったが、どうやらそれは俺の身体に住まう八咫烏によって、クラウディオさんの話を鳥瞰の映像として見ていたせいだった。俺は雨の匂いを嗅ぐことさえできていた。
夜道を少し歩いたところで、うしろから呼び止められた。ウィンディーネがコートを羽織り、足にサンダルを突っかけて走ってきた。
「待てよテメェら!」
彼女は俺たちの前で膝に手を突き、長い髪を地面まで垂らして息を喘がせた。
「マジであのパエリアは絶品だったぞ、ダイアエビとゲッコウアサリだっけ? 今度レシピ教えてくれよ」
「絶品だったよじゃねーよ!」とウィンディーネは顔を上げて言った。「今度家に来たら殺すって言ったろ! アタイは脅しなんかしねぇ、あれはマジだかんナ!」
わかってるよ、と俺は言う。あの殺意の赤い目を見れば、それが本気だということは嫌でもわかってしまう。
「だけど、だからといって諦めるわけにはいかねえんだよ。この異世界がなくなっちゃうんだ。どうあれ、お前には協力してもらうしかない」
「だからアタイは世界なんてどーでもいいって言ったろ! 何度来たって無駄だからナ! いや、ってか次来たらクラウディオがいたとしても殺す!」
「なんでどーでもいいんだよ、お前はクラウディオさんを愛してるんだろ!? あの人も一緒に綺麗さっぱり消えてなくなるんだぞ!?」
彼女は言いあぐねるみたいに、口を開いたまましばらく白い息を吐きつづけていた。俺はガルヴィンの手を引っ張り、また闇のなかを歩き出した。
「おいウキキ! さてはテメェ私の弱みでも握って無理やり手伝わせようとしていやがるな!」とまた後ろから聞こえてきた。「根性の腐った野郎だナ! っておい、聞いてんのか、もう絶対に来るんじゃねーぞバーカ!」
追いかけてくることはなかった。ちらっと後ろを見たが、もうウィンディーネの姿は緩い坂道の上にはなかった。
「で、どうするのお兄ちゃん」とガルヴィンは言った。「たぶん、本当にウィンディーネは自発的に協力してくれることはないと思うよ?」
「別に自ら望んでじゃなくても、もうこの際構わねえよ……」
俺としては少しばかし疑わしかったが、ウィンディーネはどうやら本当にクラウディオさんのことを愛しているみたいだ。彼とともに朽ち果てられるなら――というあの言葉も、今では本気のように思える。
冷たい空気が頬を横切る。無数の星が夜空にまたたき、そしてやっぱり3つの月はそんななかでも我が物顔で浮かんでいる。
「ウィンディーネの弱みはクラウディオさんだ」と俺は言う。「街中にアトリエを借りてるって言ってたよな? 明日の朝、彼をつけてそこでさらうぞ」
カモメがどこかで鳴いている。二羽ではなかった。それは、一羽の年老いたカモメだった。




