294 瞳のなかのペアリング
小さな悲鳴に気づき、チルフィーを起こしてテントから飛び出る。視野のそこかしこに死ビトの姿と、そして逃げ惑うシルフ族の子供たちがいる。
「死ビトってこの隠れ家まで入ってこれたのか!?」
俺は駆け出すと同時に十数体の死ビトを目で捕捉し、洞窟の天井を目掛けて腕を突き上げる。
「出でよ朱雀!」
トリィィィィィッ!
炎を宿した朱雀の羽根が桜吹雪のように舞い散る。その一本いっぽんが明確な軌道を描き、死ビトの首を突き抜けて瞬時に刎ね飛ばす。
「こんなことは今までなかったであります!」とチルフィーが慌てた様子で俺に言う。そして羽ばたき、子供たちの元へと全速力で飛んでいく。
シルフ族の大人たちも騒ぎを聞き、それぞれの小さなテントから出てくる。そして事切れたいくつもの死ビトの骸を見ると、騒ぎがよりいっそう大きいものになる。
「何ごとですのじゃ?」
酒気を帯びた族長がまどろみに沈んだ声で呟き、彼らの上をひらひらと飛び越してやって来る。
「死ビトが入ってきたみたいです!」
俺の言葉に反応し、全員の目が隠れ家の入り口に向けられる。光苔の明かりの届かない向こう側は当然まっくらだった。その隔たりはまるで分水嶺のように、光と闇のあいだを明瞭な線で引き分けていた。
シルフ族の誰かが固いつばを呑んだ。その音はぽっかり空いた洞窟内のこの空洞に不思議と響き渡った。そして、闇のなかから死ビトが姿を現した。
シルフ族の子供が小さな悲鳴をあげた。死ビトは暗い穴から這い出てくる幾多の虫のように、何体も何体もこの隠れ家になだれ込んできた。
「チルフィー! 子供たちと早く飛んで逃げろ!」
死ビトの多くが入り口から一番近いチルフィーたちを狙っていた。だが、子供たちは恐怖に身をすくめ、羽をぷるぷると震わせるだけだった。俺はまた朱雀を使役して、そのすべての首を瞬く間に落とした。そして全力で走り、子供たちをひっ掴んで腕に抱えた。
「よし、ずらかるぞ!」
「了解であります! ウキキあっちであります!」
離れたところの小さな穴倉から、族長やノームたちが手招いていた。とりあえずみんなそこに避難したようだった。ガルヴィンはその付近で、接近する死ビトに精霊術を浴びせている。
俺はチルフィーと急いでそこまで駆け、子供たちを預けて、ガルヴィンと立ち並んだ。
「逃げ遅れた奴はいるか!?」
「ノームが一人いないみたいだよ!」とガルヴィンは言った。彼女の手のひらから撃ち出された氷のつぶてが、死ビトの顎を砕いた。だが、それだけでは足を止めることすらできない。
「精霊術じゃなくて、精霊魔法でぶわーっと纏めて倒せないのか!?」
「ある程度なら倒せるよ、だけどまだまだ増え続けてるじゃん! お兄ちゃんもできるだけ省エネで切り抜けないと、後々ピンチになりかねないよ!」
ガルヴィンの反論が終わると同時に、俺は隠れ家の隅の岩陰にノームの姿を捉えた。ぽっこりお腹を上にして、鼻ちょうちんを膨らませて豪快に眠っていた。酒宴のあとにベッドまで辿り着けず、そのままそこで横になったらしかった。
俺は辺りを見まわした。もう相当数の死ビトが侵入していた。二百か、それ以上というところだ。
四の月からこの地上に降りて来た彼らは、枯渇したマナを生者から奪おうと、隠れ家のなかを彷徨い歩いていた。あるいは、俺たちの存在と場所に気づいている者は、確固たる意志を持って距離を縮めていた。
「ガルヴィン、ここは頼んだぞ!」と俺は言った。「あのノームを助けてくる。俺の援護はいいから、みんなをしっかりと護れよ!」
氷のつぶてが先頭の死ビトの頭部を撃ち抜いた。俺は倒れ込む胴体から目を切り、ノームの元へと駆け出した。
*
ノームを連れて穴倉に戻ると、他のノームとシルフ族の族長によってこれからの方針が決定されていた。
「小僧、ここを捨てて脱出するのですじゃ」
族長は俺の顔と千鳥足のノームを交互に見てから、静かに穏やかな声でそう言った。
「わかりました……。じゃあみんなにはショッピングモールに移り住んでもらうとして……脱出経路はどうするんです?」
俺はまたシルフ族の隠れ家を注意深く眺めまわした。小さなテントも、木造のテーブルも、慎ましやかな多くの食器類も、既に打ち崩され、死ビトの群れの下敷きとなっていた。
群れはもう妥当な数字を挙げるのも難しいぐらいの数に膨れ上がっていた。三百から五百、だいたいそれぐらいに思える。朝礼で退屈な話をする校長先生が壇上から見下ろしている生徒の数と、まあだいたい同じぐらいかもしれない。
ノームの一人が、何歩か進んでから一方向を指し示した。
「あそこから出られるっぺ」
それは斜めに入った少し大きめの亀裂のような横穴だった。言われなければ、まずどこかに通じているなんて気づくことはできないだろう。幅は俺がぎりぎり通れるぐらいのものだった。しかし、そこに着くにはかなりの数の死ビトのあいだを抜けていかなくてはならなそうだ。朝礼時の校長先生目線で言えば、誰にもばれずに一年三組と一年四組のあいだを走り抜けなくてはならないぐらいの難易度だった。そんなことは絶対に不可能だ。
「わかりました……俺が囮になるんで、そのあいだに脱出してください」と俺は言った。チルフィーが短いセンテンスを口にしながら俺の頭に降り立った。
「じゃあ、あたしもウキキと一緒にみんなを逃がすであります!」
俺は即座に却下した。そして俺のことを想って感動的なことをいろいろと言っているチルフィーを無言で捕獲し、ガルヴィンのコートのポッケにしまい込んだ。
「なにするでありますか!」
「いいから、お前はおとなしくこの中にいろ! 心配しなくても無理はしねえよ!」と俺は言った。
お前との永遠の別れがこんな風でたまるか! こんな無様な一小節が喉から出かけたが、俺は咄嗟に言葉を呑み込んだ。そんなことを言ってしまったら、限りなく現実に近いところにあるチルフィーとの別れが、本当のものとなってしまいそうな気がした。たとえ七色の花が咲き乱れ、空に虹の架かる神秘的な高原の真ん中での美しい別れだとしても、俺はそんなものは受け入れたくなんかない。
俺はガルヴィンの目を見て言った。「青鷺火で死ビトの殺意を引くから、お前は先頭を走って漏れた奴を処理しろ。できるな?」
彼女は顔全体に垂れている燃えるように赤い前髪を掻き分け、俺の目を見つめながら頷いた。
「オッケー……じゃあ行くぞ! ポケットの中のドン・キホーテを頼んだぞ!」
うまくいけば誰一人欠けることなくこの危機を脱せられる。俺の役割はこの脱出作戦の多くの部分を占めている。
うまくやる自信はあった。そして実際に些細な失敗もなく、横穴までの道を塞ぐ死ビトの殺意を俺に向けることができた。ガルヴィンたちは真っ直ぐ駆け抜け、何体かを沈めながら目的の場所まで向かっていた。
だが――それでも犠牲者は出てしまった。俺はいくつもの青い攻撃軌道を交わしながら、その元に駆けつけた。
*
足がもつれて転んだ様子のノームに、八体の死ビトが群がっていた。まるでゾンビ映画のワンシーンみたいだった。死ビトは覆い被さるようにしてその体に貪りつき、血肉と同時にマナを喰らっていた。
子細に狙いをつけ、俺は腕を突き出す。「出でよ朱……!」
いや、駄目だ、と俺は思った。朱雀の鋭利すぎる羽根ではノームまで貫いてしまう。そうなっては、助かるものも助からなくなってしまう。どうするっ……? と俺は自分に素早く問いかけた。逡巡を消し飛ばすように、胸の奥で炎がほとばしった。
――我を使役せよ
鎌鼬の声だった。それはこの異世界での一番初め、ショッピングモールで旦那狼にやられているときに聞いたような、挑戦的な響きのするものだった。
――我を使役せよ 我らは主が思うよりも繋がっている
その瞬間、俺はさっき見た夢の出来事を思い起こした。点と点が線によって結ばれた。いや、その線分すら越えて、俺という使役者と鎌鼬という幻獣が繋がった。こいつは俺が初めてこの身に宿した幻獣なのだ。一番俺のことをわかってくれている相棒なのだ。
俺は挑戦状を送りつけるみたいに、腕をおもいきり振り払った。「できるな鎌鼬!? やってみろ!」
出でよ鎌鼬・十六夜!
俺の言の葉が鎌鼬に届き、そこに残像のような八体の鎌鼬が顕現した。
ザシュザシュッッッッ!!
両手の鎌が十六の閃光を闇のなかに浮かべる。少し遅れて旋風が舞い、ノームのマナを摂取している八体の死ビトの首がぼとっと落下する。鎌の軌跡は確実にノームの身体を通ったはずだが、夢のなかで十五人の少女の衣服のみを斬り刻んだときのように、彼には斬り傷ひとつついていなかった。鎌鼬が俺の想いを受け取ってくれたのだ。
とはいえ、ノームはかなり惨たらしい状態になっていた。腕やふくろはぎは噛み千切られ、腹もえぐられてチョッキが鮮血に染まっていた。
「まだ助かります、しっかりしてください!」
俺はノームを抱きかかえ、みんなが入っていった横穴へ急いだ。数体の死ビトが俺たちを目に捉えて走り込んで来たが、黒い炎がそれらを一網打尽にして焼き尽くした。ガルヴィンが横穴から飛び出し、精霊魔法を放ったようだった。
「お兄ちゃん、早くこっちに!」
「ああ!」
ガルヴィンの横を抜けて亀裂に入り込み、すぐに地面にノームを降ろして、俺はポケットから包帯を取り出した。小さな体に巻こうとすると、彼は元の形を留めていない右腕を遮るように振った。
「無駄だっぺ……」と彼は言った。ほのかに葡萄酒の香りが鼻をかすめた。
「そんなことありません、これはなんでも治る包帯なんです!」
腕が力なくしおれる花のように横に倒れた。もう命が絶たれ、新鮮なかぐわしい香りもなくなっていた。
「の……ノームさん!」と俺は叫び声をあげた。データ野球派の老人が頭をよぎったが、それはよぎっただけで着床することはなかった。基本的に、俺はNBA以外のプロスポーツには興味がないのだ。
「なんだっぺ?」とノームが言った。他のノームよりもだいぶ小さなノームが目の前に立っていた。
「ちょっと食っちまうから、お前さんそこをどくっぺ」
「えっ……」
咄嗟に俺はここにいるノームの数をかぞえてみた。ちゃんと六人いた。遺体を入れれば七人だが、それはすぐに小さなノームの口にゼリーのようにして吸い込まれてしまった。それは死ビトが人を喰らっている画よりも、かなりショッキングな光景だった。
「言ったっぺ? 減ったら分裂するって」と小さなノームはだんだん他と同程度に大きくなっていきながら言った。
「オラたちは六人でノームだっぺ」
「一人でも生きてれば問題ないっぺ」
「お前さん、オラたちのために涙まで流して……まぬけだっぺな」とまた別のノームが言った。他のノームが同時に深く頷いた。
*
「それで、みんな無事ショッピングモールに移住したってわけね?」とアリスは言った。
「ああ」と俺は言った。そして飛空艇の甲板のへりに肘をついて、雲の下の地上に目を移した。その風景は瞬間的な既視感を俺に覚えさせたが、すぐに前に実際見たものとほとんど同じなのだと気がついた。死ビトの群れと、エトセトラ。だいたいどこも似たようなものなのだろう。
「チルフィーもクリスもついてきて、だいぶ賑やかになったわね!」とアリスは続けて言った。「けれど、よくファングネイ王国まで三日で帰ってこれたわね。そのあいだに、主人であるこの私に報告しておくようなことはなかったの?」
俺はひとり、風を肌に感じながら思考を巡らせた。まあ、話すことがあるといえばあるが、それを語っているあいだに目的地に到着してしまうだろう。さすがに俺もそんなに長くは喋り続けられないし、アリスもおとなしく聞いていられるとは思えない。それに、ガーゴイルの発動だってもう四十日を切ってしまっているのだ。俺とアリスとチルフィーがここにいる。それでいいじゃないか、と俺は思った。言葉には出さないでおいた。
「お前こそ、この飛空艇ってイル家から借りたんだろ? 俺に聞かせておきたい話はないのか?」
「あるわ! けれど、それはまた別の機会にしておくわ! 寒いし下に降りるわよ!」
アリスは少し舌っ足らずにそう言い、薄いピンク色のコートのフードをかぶって俺の手を取った。俺はその小さな手を掴み取り、すっと薬指に指輪をはめてやった。
アリスは黙って指輪をじっと見た。それから顔を上げ、顔をしかめて俺の顔を覗き込んだ。
「プロポーズ? あなた、やっぱりロリコンだったのね……?」
「ヴァッ……ちげえよアホ!」
「ヴァ?」
俺は無理やりごほんと咳を一つした。それから首から紐に吊るして下げている同じものをアリスに見せた。煌銀石のペアリング。未来アリスがくれたものだが、もちろんそれは伏せておかなければならない。
「ノームが銀のトンカチで叩いてくれたんだ。エンチャント・リングって言ってたな。もちろん特殊な効果もあるけど、まあそれはあとのお楽しみってことで」
アリスは指輪を太陽のような恒星の光にかざし、目を輝かせてそれを見つめていた。太陽のような笑顔で笑った。とても嬉しそうに、また俺の手に触れた。
「ありがとう! 大切にするわ!」とアリスは言った。俺はフードの上から頭を撫で、一緒に下に降りる階段まで歩いていった。
こうして、俺たちの冒険の舞台はオパルツァー帝国へと移っていった。




