288 少女は微笑み、カイルとの思い出話を楽しそうに話した
レリアは自分が誘拐されるという計画を知らされていなかった。
それがパンプキンブレイブ家が爵位剝奪から逃れ、そしてバビルゲイツ家との脅迫的縁談を無効にするために父親が講じた策だと知ると、彼女は唇を曲げて淡い微笑みを浮かべた。
「わたくしがバビルゲイツ様と婚姻すれば済む話でしたのに、お父様らしくないことを考えたものですわね」
薄暗い廊下の窓からは、蒼い三の月がくっきりと見えていた。レリアは月明かりを全身に浴び、どこか神秘的な色合いをベールのようにして纏っていた。ウェーブがかったピンク色の長い髪が、歩調にあわせてゆらゆらと揺れている。水色の艶々としたネグリジェは丈が長く、彼女の白い肌を足首まで隠していた。
「そりゃ、親なら十三歳の我が子を嫁になんかやりたくないだろ。しかも二女の身代わりとしてなんて」と闇が覆い被さる階段を慎重に下りながら、俺は言った。
「けれどウキキ様、それならわたくしが夜中にこっそり屋敷を抜け出して、あとでお父様が誘拐だと証言すればよろしいのではなくて?」
「いや、それじゃ駄目だ。必要なのはリアリティだからな。じゃないと、今この屋敷で酔っぱらって寝てるバビルゲイツ家の連中が信じないだろ? たぶん、だからお前の父親は説明しなかったんじゃないか?」
レリアは釈然としない様子で、『リアリティ』と一音ずつ唇をしっかりと動かして繰り返した。しかし、それでもしっくりとこないみたいだった。
ラウドゥルにやられた右肩が痛み、俺が階段の途中で立ち止ると、彼女は自分を屋敷の外に連れ出すよりも先に治療するべきだと、やや高圧的に訴えた。
「いや、大丈夫だ……それより楽しみにしとけ、リアリティを強調するためのプレゼントも用意してるんだ」
一階まで下り、レリアの先導で大広間まで向かうと、また肩が激しく痛みだした。全身の細かい傷や火傷も、まるで覚醒したかのように痛覚を脳に送り始めた。アドレナリン的な物質が切れたのかもしれない。
苦痛に顔を歪めて壁に手をついていると、レリアは心配そうに俺の背中に小さな手をあて、顔を覗き込んできた。
「ウキキ様、やっぱり先に包帯を巻いて差し上げますわ! あのなんでも治る包帯はどこにありますの!?」
「わ、わるいな……じゃあ大広間で頼むわ……」
レリアは両開きの重たそうな扉を押し込んで開け、細長いテーブルの椅子を急いで引き、介護士のように丁寧に俺をそこに座らせた。俺は大蝦蟇を使役してショッピングモールの噴水に浸した包帯と紙袋を吐き出させ、それをレリアに渡した。
「この紙袋はなんですの?」
「着替えだよ、アリスの服が一通り入ってる。まさか、これから誘拐されるって奴が自分の服を着ていくわけにもいかないだろ?」
レリアは上品に少しだけあごを引いて頷き、それから俺の藍色のコートとシャツを慎重に脱がせた。そして右肩に包帯を巻き始めてくれたわけだが、その包帯法はお世辞にも上手いとは言えなかった。むしろ明確に下手くそだった。彼女は巻けば良いという主眼のもと、同じ個所に何度も何度もぐるぐると包帯を走らせていた。まあ六大名家の一つに数えられるほどの家のお嬢様なので、こんな経験はしたことがないのだろう。
それでも一生懸命さは伝わってきた。アリスのような綺麗なちょうちょ結びではなかったが、レリアは不器用な止め結びで一応の体裁を整えた。そして今度は俺を立たせ、胸囲を測るように胸に包帯を巻きつけていった。
「お前、本当にバビルゲイツ家に嫁入りするつもりだったのか?」
何気ない質問だったが、レリアはしばらく黙っていた。やがて胸の包帯を巻き終えると、結ぶついでのように小さな声で答えた。
「ええ、そのつもりでしたわ」
「この家を護るために、仕方なくか?」と俺はまた尋ねた。
「ええ、仕方なくですわ」
レリアは俺の前にまわり、へその横の火傷に優しく触れた。痛みはなかったが、なんだかくすぐったかった。
「ここにも巻きますわね」
レリアはそう言い、包帯の束をするすると伸ばして、俺の腰に両腕をまわした。ネグリジェの胸のあたりが俺の腹に密着すると、シルクの心地良い肌触りと、その奥にある彼女のぬくもりが少しだけ誇張されて伝わってきた。
なんとなく照れくさくなり、俺は鼻の脇を指で掻いてからまたレリアに尋ねた。彼女は体をくっつけたり離したりしながら、丁寧に包帯を巻いてくれていた。
「でもお前、金獅子のカイルはもういいのか? 同じ幻獣使いの騎士を目指すほど憧れてるんだろ?」
言い終えてから、俺はなんて馬鹿なことを訊いてしまったんだと後悔した。レリアは知る由もないが、カイルは地球に転移しており、しかも俺の姉貴と夫婦になっているのだ。少女の恋が実ることは、もう永久にない。
しかしレリアは何も言わなかった。静かに慣れない作業を(下手なりに)こなしていた。そうして何分かが過ぎ、治療が終わった。礼を言って服を着ていると、レリアは斥力に導かれるかのように、逆に水色のネグリジェを脱ぎ始めた。
「ヴァッ……お前着替えるなら出ててやるからそう言えよ!」
「あら、ウキキ様はわたくしの誘拐犯でしょ? それならひとときも離れては駄目。あっちを向いてくださればいいわ」
言われるまでもなく、俺はレリアに背を向けて大広間の暖炉に目をやった。その少し上に、細長い鞘に収められた剣が横になって掛けられていた。あれがレリアの父の手紙にあったものだろうか? 柄の先端にパンプキンヘッドがあしらわれた、どうやらレイピアのような細剣だった。
「なあレリア、あれがパンプキンブレイブ家の家宝の剣か?」と俺は細剣を指差して尋ねた。
「わたくし、本当はわかっていましたの」とレリアは言った。
「え?」
噛み合っていない会話は、俺の目を自然と後方に向かわせた。床には体から落とされたばかりのネグリジェとカボチャパンツがあり、レリアはその上で花開いたつぼみから現れた妖精のようにじっと佇んでいた。
「わたくし、本当はわかっていましたの」ともう一度言って、レリアは今にも消え入りそうな淡い微笑みを浮かべた。
「カイル様がわたくしを選んでくださることはない。あの方はわたくしを調査で訪れたパンプキンブレイブ家の子供としか見ていない。まあ、当然ですわね。もう五年も前の話――わたくしが八つのころのことなのだから」
柔らかい月の光がレリアを照らし続けていた。ピンク色の長い髪の少女は月明かりを浴びていると(それがどの色の月であれ)、本当に身震いするほど美しかった。
少女の視線がゆっくりと上がり、俺の視線と交わった。俺ははっとなり、また暖炉のほうに慌てて向き直った。
「そのときに幻獣使いの手ほどきを受けたんだよな?」
観測気球を飛ばすように、俺はおそるおそる訊いてみた。しかし、レリアは裸を見られたことを気にしている様子はなかった。
「ええ、カイル様は色々と教えてくださいましたわ。と言っても、屋敷に滞在していた一週間だけ。修行というには短すぎるわね。けれど、少女が真剣に恋をするには十分すぎるほどの時間でしたわ。
カイル様が屋敷を去る日、わたくしはベッドから出ずにずっと泣いていましたの。そしたらカイル様はわたくしの部屋に来て、無理やり外に連れ出しましたわ。そして真面目な顔つきで手をぎゅっと握りましたの。『これをきみにあげよう。いつの日か使いこなせるときを楽しみに待っているよ』、それは幻魂の儀だった。ウキキ様には言ったからしら? わたくしのユニコーンはカイル様がくださったものだって?」
「いや、聞いてないと思う」と俺は言った。たぶん聞いていないと思う。
「そうしてカイル様はいなくなってしまった。それからのことは、ウキキ様もご存じですわね?」
俺は頷いた。レリアはそれからカイルの目撃情報を世界中から集め、ずっと行方を追い、また逢える日を心待ちにしている。屋敷の庭でカイルに切ってもらった髪を、もう誰にも触らせずに伸ばし続けて(まあ、それは俺が誤って鎌鼬で切ってしまったわけだが)。
「でも――もういいの」とレリアは少ししてから言った。「わたくし本当は見てしまいましたのよ。半年ほど前かしら? この街の市場で、カイル様が意地の悪そうな黒髪の女と手を繋いで歩いているところを。
不思議よね、あれほど逢いたくて逢いたくてたまらなかったのに、いざ目にしたら思わず物陰に隠れてしまうんですもの。そして動けなくなってしまいましたわ。あの女は誰? カイル様のフィアンセ? そうして見ていると、二人はなんの脈略もなく突然唇を重ね合わせましたの。ウキキ様、信じられる? 往来で何をしくさってくれているんですの?
そうね……わたくしはあのとき、今のこの気持ちをぶつけてやれば良かったんだわ。けれどそんなことはできなかった。目の前が真っ暗になり、気づけばカイル様の姿はなくなっていましたわ。そして愚かなことに、わたくしは今見た光景を幻だと思うことにした。きっとカイル様はどこか違うところにいて、いつかわたくしのことを迎いに来てくださる。そう思い込み、心に厚い蓋をしましたわ」
おい馬鹿夫婦、と俺は思った。お前らおもいっきり見られてるぞ。人前でイチャイチャするのはマジでやめろ。
「けれどこの数日間、ひとりで部屋にこもっていて、蓋が自然と外れましたわ。あれは紛れもない現実。カイル様はきっともうわたくしのことなんか覚えてもいない。そしてわたくしの知らないどこかで、あの泥棒猫と幸せに暮らしているのよ……」
レリアはそれからしばらくのあいだ、声を押し殺してすすり泣いていた。たぶん、だからバビルゲイツ家の長男と結婚してもいいと考えたのだろう。それで大切な家を護れるなら――と。
彼女に本当のことを言うべきだろうか? 泥棒猫は俺の姉貴で、カイルの子供をお腹に宿しているんだ、と? とてもじゃないが言える雰囲気ではない。それに、レリアはいま自暴自棄になっている。精神の未熟な十三歳の少女にそんな酷なことは告げられない。
「だ、大丈夫だよ」と俺は言った。何が大丈夫なのだろう? 続く言葉が見つけられない。
俺は視野の左端から暖炉の少し前までずっと伸びていく長いテーブルをなんとなく眺めた。レリアはここで何度も食事をし、多くの時間を家族とともに過ごしたのだろう。金獅子のカイルとの思い出もきっとあるはずだ。小さな少女がカイルを席に案内し、その隣にちょこんと座る。そして運ばれてくる料理を一つひとつ得意げに説明する。それに夢中になって、自分の唇にソースがついていることには気づかない。カイルは親密的な笑顔で少女の口許をハンカチで拭いてあげる。小さなレリアは口をすぼめ、つんとあっちを向いて何か貴族のお嬢様的なことを口にする。それからカイルがその頭を撫でる。少女は顔を赤らめている。
そんな光景を目に浮かべながら、俺は現実的なことを後ろで泣き続けているレリアに告げる。「えっと……と、とりあえず服を着ろ。そんでこの屋敷を抜け出して、アリスたちがいる宿に向かう――」
その瞬間、背中からレリアが抱き着いてくる。本当に花の妖精なんじゃないかと思うぐらい、柔らかくて軽い衝撃だった。
「ウキキ様は女を慰めることができないのね……」とかすれた声でレリアは言った。「ねえウキキ様。バビルゲイツ様との婚姻を覚悟したわたくしを誘拐なさるなら、ちゃんと責任も持ってウキキ様がわたくしを貰ってくださるということよね? わたくし、あなたのこと好きよ。ウキキ様となら仕方なくなんて思わないわ。ウキキ様ならわたくしのすっぽり空いてしまった心を埋めてくれると思うの。そうね、本当にそうしましょう。カイル様なんか忘れて、わたくしウキキ様と結ばれたいですわ……」
レリアは後ろから回した手に力をこめ、そのまままたしばらく泣いていた。小さな少女がカイルと楽しそうに手を繋ぎ、大広間から出ていった。
「いいよ、じゃあそうしよう」と俺は言った。レリアの手が微かに震える。俺は俺のへそのあたりで結ばれているその手を、二回り大きい俺の手で覆った。
「俺だってお前のことは好きだ。むかし高峰って先輩と話したことがあるよ、俺の夢はピンク色の髪のかわいい女の子を嫁に貰うことだってな。だから俺にとっては願ってもない申し出さ、お前が十八になったその日に結婚しよう。もし――それがお前の本当の気持ちならな。あたり前だろ? 俺が断るわけがない」
俺はレリアの手をほどき、藍色のコートを脱いで彼女に頭から被せた。顔も見えないし、もちろん裸の体も見えない。そして彼女をそっと抱き寄せる。
「でも、違うだろ? 俺のことが好きなのはマジだろうけど、その遥か上にはまだカイルがいるんだろ? だったら、空いた心を別の何かで無理に埋めようとしなくていいんだ。きっと、カイルよりもさらに上になる奴がそのうち現れるよ。心のスペースはそのときまでそのままにしとけばいい。辛くて苦しいだろうけど、その大きさだけお前はそいつのことを愛せるようになるはずだ」
レリアは何も言わなかった。ただ声も上げずに泣いていた。俺はコートの上から彼女の頭を撫でてやった。カイルよりもうまく頭を撫でられているだろうか?
やがてレリアはコートから顔を出し、腫れて赤くなった目で俺のことを見つめた。発言の撤回が必要だった。こいつは月明かりなんかなくても、魂を揺さぶられるほど美しい。
「ウキキ様は女を慰めるのが下手ですわね」と呆れた顔でレリアは言った。「でも、そうね。カイル様も下手でしたわ。そう、あれはあの方がこの屋敷に来てから三日めの夜――」
少女は微笑み、カイルとの思い出話を楽しそうに話した。




