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283 溢れ出ていた涙をコートの袖で

 副兵団長はやはり優秀な男だった。

 彼は俺とアリスからガーゴイル起動の件と、それを防ぐためにガルヴィンに会う必要があると聞くと、グラスに注いだワインをひと口呑み、それからしばらく腕を組んで考え込んだ。『にわかには信じがたいが、我が国の英雄が言うのだ。せめて半分は信じてみるとしよう』、これが彼の出した結論だった。そして、その後の行動と部下への指示は素早く、またぬかりなかった。


「牢獄の場所はここから真っ直ぐ南に向かったところだ。衛兵にこれを渡せば、すぐにでも屍教の姫と面会できるだろう。それと、ほかにも我々にできることがあれば遠慮なく言ってくれ。我が兵団の多くは現在ボブ・ゴブリンの脅威にあたっているが、小隊程度の人員なら割けるだろう」


 俺は書簡を受け取って礼を言い、用意してくれたワインを一気に喉に流し込んでから眠っているリアをおぶって、アリスやアナとともに執務室を出た。時間差で体がぽわっと熱くなり、早くも頭が少し痛くなってきた。


「あなた、弱いんだからあんまりお酒を呑んじゃだめよ?」とアリスは保護者目線で俺に言った。「せっかくハニー・オレンジも用意してくれたのだから、私やアナみたいにそれを呑めばよかったのよ」

「いや、俺の帰還を祝おうって言われたら呑まないわけにはいかないだろ……」


 長い廊下といくつかの階段を下りてファングネイ王国兵団の宿舎を出ると、すぐにアナが申し訳なさそうに俺の目を見て口を開いた。


「すまないウキキ殿。わたしは少しレリアの家の様子を見に行っても構わぬか?」

「様子? パンプキンブレイブ家に何かあったのか?」


 なぜかアリスがため息をつき、俺の問いに答えた。


「何かあったか確認するために行くのよ。だっておかしいじゃない。お姉さまの結婚式はもうずっと前に終わっているのに、レリアはアナのところに戻ってこないのよ? 前に会ったときにも元気がなさそうだったでしょ?」

「まあたしかに俺も少し気になってはいたけど」

「ホントあなたはお気楽でいいわね……」と言って、またアリスはこれ見よがしに大袈裟なため息をついた。「ということだから、私もレリアのおうちに行ってみるわ! ガルヴィンには明日にでも会いに行くと伝えておいてちょうだい!」


 アリスとアナの決断と行動も、副兵団長に負けず劣らず素早かった。二人はすたすたと歩いていき、すぐに角を曲がって俺の視界から消えてしまった。


「ま、また俺だけで牢獄に行くのか……」


 俺はしゃくり虫のように上半身を曲げてからすぐに伸ばして背中のリアを安定させ、南に向かって路地を歩いた。そして、前に訪れた別の牢獄で起きた出来事を思い起こした。


 あれはレリアの従者だったジューシャに会いにいったときのことだ。精霊士が警備のために遣わした水のエレメントに襲われ、俺はかなりの苦境に立たされてしまった。


 『還るのであります! ウキキは敵ではないのであります!』


 チルフィーが俺の前で両手を広げながらそう命令すると、水のエレメントはすっと消えてなくなった。彼女は翡翠色のポニーテールを揺らして、俺以上に驚いていた。これから会いにいくガルヴィンに強襲されたときにも、似たようなことがあった。


 『だめであります!』『却下であります!』


 チルフィーはガルヴィンの強烈な精霊魔法をキャンセルして、俺たちを護ってくれた。やはり自分でも信じられないという顔をしていたが、今にして思えば、あれは風の精霊シルフのシルフィー様が彼女のなかに封印されていたからこそ可能だったのかもしれない。


「いや……違うな」と俺は呟いた。たしかにシルフィー様の助けがあったのだろうが、あれはチルフィーが俺たちを護りたいと必死になってくれたからこそ可能だったのだ。この二つのあいだには大きな隔たりが存在する。気がする。


 いずれにせよ、ことがうまく運べばシルフィー様が復活し、チルフィーは消滅してしまう。ガーゴイルの起動を阻止できたとしても、その後の世界のどこにもあの愛らしい笑顔は見当たらない。

 その事実は、ふいに俺の足を鈍化させる。やがて石化し、一歩も歩けなくなってしまう。


 俺たちを何度も救ってくれたチルフィーを、俺は消してしまおうとしてるのか……。


 体がこわばり、立ち尽くしてしまう。前を向くことすらできなかった。俺の足元で何かの影が蠢き、やがてゆっくりと移動して俺の視野からはずれていく。


「じゃあいっしょにしぬ」


 疑問符を置き忘れた短いセンテンスが背中から聞こえる。双子の月の女神の妹が目覚めたみたいだ。


「えらぶのはあなた。まえをむくのもあなた。あるきだすのもあなた。それができないならせかいをみちづれにしてしぬ」


 選ぶのはあなた。前を向くのもあなた。歩き出すのもあなた。それができないなら、世界を道連れにして死ぬ?


 俺はリアの言葉をひとつずつ時間をかけて復唱する。前を向くのも歩き出すのも、俺が今までの人生で認識していた以上に困難なことだった。


「すこしずつでもいい」とリアは言った。

「少しずつでもいい」と俺は言った。


 それから俺は少しずつ視線を前方に持っていき、ゆっくりと歩を進め、溢れ出ていた涙をコートの袖で拭った。視界は悪いしブーツの底に鉛でも仕込んであるみたいに足が重かったが、それでも歩き出すことができた。


「リア……お前いつから起きてたんだよ」


 返事が返ってくるまでにかなりの時間が必要だった。リアはあくびをしてから、やはり平坦な響きの小さな声を発した。


「ウキキがじゅうにさいのしょうじょのはだかをみたときから」

「いきなりなんの話だよ! もしでたらめ言ってるならアリスは十一歳だし、俺はそんなもん見たことねえよ!」


 副兵団長が言っていた牢獄を遠くに認め、俺は立ち止まっていた時間を取り戻そうと急いで物々しい鉄門まで向かった。そこにいる衛兵に書簡を渡すと、彼は急に姿勢を正してにこやかな笑顔になった。


「はいっ……! どうぞこちらです英雄殿!」


 歩き方まできびきびとしていた。いったい嫌味な顔の副兵団長殿は書簡になんて書いたのだろう?


 薄暗い牢獄に入ると、衛兵は小さな燭台に蝋燭を立て、それに火をつけてからかび臭い通路を歩いた。俺は足元に注意してついていきながら、また背中のリアに声をかけた。


「ってか、起きたならリアこそ自分の足で歩けよ……」

「それはことわる。ここはなかなかわるくない」


 しばらく進むと衛兵は突然立ち止まった。蝋燭の火は頑丈そうな扉を無言で照らし続けていた。まるで何度も大軍勢に攻め入られながらも頑なに侵入者を拒み、最後まで女性や子供を護り抜いてきたような扉だった。

 目当ての囚人はここにいると告げて、彼は俺に握手を求めてからまた来た道を戻っていった。『ガルヴィン』ではなく『ガルビン』という発音だったが、俺は気にせず取っ手を握って一気に押し込んだ。きっと巻き舌が苦手なのだろう。


 しかし、扉を開けた瞬間にそんなことは俺の頭からジェット噴射でどこかに飛んでいった。


「あれ、お兄ちゃんじゃない。なに、またボクとお風呂に入りにきたの?」


 ガルヴィンは恥ずかしげもなく裸体を俺に向けたままそう言い、純白のおパンツ様を剥ぎ取るように脱いで、檜の香りがする湯船にゆっくりと浸かった。


「おきたばかりでかことみらいがまぜまぜになっていた」と背中でリアが言った。


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