281 あいつの敵
朝食の席につくと、パンをかじりかけたところで隣のアリスに腕を掴まれた。そして無理やり起立をさせられた。
「ちょっとあなた! ユイリのお母様への挨拶が先でしょ! あんまり主人の私を辱めないでちょうだい!」
眠気まなこで気がつかなかったが、たしかにテーブルの向かいの席にハーフエルフの美しい女性が座っていた。ユイリの母親。そしてダスディー・トールマンの娘。艶やかにカールする髪が、肩から胸元にかけて垂らされていた。髪色はユイリと同じ薄紫色だが、やはり子供っぽいサイド・テールのユイリよりも、その色はずいぶんと大人の印象をたたえていた。アダルティーな薄紫色だ。
「おはようございます。えっと、この街の領主就任おめでとうごいます……」
ユイリの母(リュイさんという)は慌てて立ち上がり、恥ずかしそうに俺を見て顔を赤らめた。「あっ……ええ、どうもありがとうございます」
新鮮な朝の空気と窓からの柔らかい日差しを纏いながら、俺も彼女もどこか落ち着かない面持ちでそのまま立ち尽くした。俺たちにはそうなるだけの理由があった。着替えを覗いた者と、覗かれた者。俺のまぶたの裏には、しっかりとリュイさんの乱れた白いネグリジェ姿が焼き付いていた。子供を産んだなんて到底思えない美しい体のラインを明瞭に浮かばせている。
「なぜ二人とももじもじしているのだ?」と不思議そうな顔でアナが言った。
俺もリュイさんもその場しのぎに微笑み、また椅子に座って食事を続けた。
アリスは可もなく不可もなくといった評価の目で俺のことを見ていた。そしてどさくさに紛れて、ブルトルッツァをフォークで刺してせっせと俺の皿に運んだ。俺は仕方なくそれを食べ、ピーマンのようなアダルティーな苦みを味わいながら、何気なく正面に目を向けた。リュイさんとばっちり目があってしまった。俺たちは咄嗟に視線を逸らすために、二人同時に天井を見上げた。
*
食事が済むと、俺は部屋に戻ってファングネイ王国に旅立つ準備に取り掛かった。まあ、とはいってもやることは大蝦蟇を使役して、脱ぎ捨ててある洗濯物を呑み込んでもらうぐらいだ。
「出でよ大蝦蟇!」
ゲコゲコッ!
目つきの悪い巨大な蛙が顕現すると、同時にドアをノックする音が聞こえた。
「ウキキ殿、わたしとアリス殿の準備は済んだぞ。月の女神殿はまだ眠っているがな。ちょっと入ってもいいか?」
「ああ、アナか。鍵は開いてるよ」
彼女は部屋に入るなり、大蝦蟇を見てクール・ビューティーの教科書に載っていそうな顔で驚いた。こんなときでも表情は大きく崩さない。
しかし、それでもしおらしい乙女のような一面もある。アナは俺の手にある下着を見て、頬をほのかに赤くさせた。やれやれ、俺はいったい朝だけで何人の美しい女性の顔を赤らめてしまうんだ。俺は洗濯物を大蝦蟇に呑ませ、それから鬼姫・陰を吐き出させてアナに見せた。
「ほう、これが元の世界で金獅子のカイルから譲り受けたという、ヴァングレイト鋼の短刀か」
アナは鬼姫を手に取り、色々な角度から観察して、それから刃紋を指の腹でゆっくりとなぞった。そして満足げに微笑むと、何かを思いついたように俺の手に握らせ、ゴルフのレッスンプロのように俺の姿勢を操って鬼姫を水平に構えさせた。
「ちょっと打ち合わせてみてもいいか?」
「えっ?」
アナはおもむろに腰のヴァングレイト鋼の剣――オウス・キーパーを引き抜くと、目にも留まらぬ速さで鬼姫・陰に刃を叩きつけた。
「うわあああっ!」
金属音が鳴り響き、部屋のなかで行き所のない波のようにいつまでもこだました。思わず驚いてしまったが、手にはそれほどの衝撃は伝わってこなかった。
「ふむ、やはりどちらも刃こぼれ一つしていないな」
「ふむ、じゃねえよ! いきなりなにすんだよお前は!」
「強力な武器を手に入れたと同時に、ウキキ殿は何人もの作らなくても良い敵を作ってしまうことになったな」
「えっ?」
アナはオウス・キーパーを鞘に納め、俺のベッドに座って長い脚を組んだ。
「当然だろう? ヴァングレイト鋼の武器は世界に数本しか存在しないのだ。殺してでも奪い取ろうとする人間はどこにだって何人だっている」
「ガラハド的危険を伴うってわけか……。じゃあアナも今までにそんな目にあってきたのか?」
「まあな。しかし、わたしはそんな輩は力でねじ伏せてきた。それよりも、『女がそんなもん持ってどうする』『老いぼれ領主に媚びを売って手に入れた剣』、そのような中傷のほうがわたしには骨身にこたえたよ」
アナは何を見るでもなく、目線を上にもっていった。そして少女だった頃を思い出すようにしばらく黙ってそこを見つめていた。強くて美しい女性のそんな無防備な姿は、どこかしら心惹かれるものがあった。二十五歳の年上の女性。ありだな、と俺は思った。
「それで――」とふいにアナは呟くように言った。「ボルサはなぜ我々に何も告げずに出て行ってしまったのだ? 書置きがあったのだろう?」
「ああ……。まあ、それについてはファングネイ王国に向かいながら話すよ。ちょっと話辛いことなんだ。ここだってまさか聞き耳を立てる奴はいないだろうけど、それでも雲の上のほうが安心できるしな」
雲の上――そう、ボルサは俺とアリスとリアとアナにファングネイ王国の王都までの安全な空の旅を提供してくれると手紙に書いていた。このハンマーヒルの北にあるトールマン大橋を越えて西に行くと、ファングネイ王国星占師ギルドの観測所があり、そこの気球に乗せてもらえるよう先回りして手筈を整えておいてくれるらしい。
それなら一緒に行けばいいじゃないか、と俺は何度だって思う。しかし、ボルサには俺たちと行動をともにできない理由があった。少なくとも、あいつはあると思い込んでいるようだった。
俺は彼の手紙の内容を思い返した。
『突然、このような書置きを残して去ってしまうことを先に謝っておきます。すいません。しかし、僕はもうウキキやアリスさんと一緒にいるわけにはいかないのです。
罪の意識の欠落した、犯罪ではないちょっとした悪意……。僕は心にそんなものを芽生えさせ、暁の長城で屍教との一件が片付いた際に、死霊使いの杖を持ち去ってしまいました。その理由は書けません。何度もペンを走らせようと試みたのですが、どうしても僕にはそれを文章にしたためることができないのです。次にウキキと会うことができたときに、僕はなんとかそれを口にしてみます。
さて、繰り返しになってしまいますが、そんな姑息な真似をした僕はもうお二人の近くにはいられません。ウキキとアリスさんは僕にとって、太陽のように眩しいのです。とても同じ星から転移してきた人たちだとは思えないぐらいです。真っ直ぐで、人のために自らを犠牲にしてことを成すことができる。僕とは全然違います。本当は二人ともM78星雲から来たのではないでしょうか? そうあったほうが、僕にとっては些か納得ができるぐらいです。そんなヒーロー、ヒロインが禁忌を犯した僕と行動をともにしてはいけない。
ウキキとアリスさんなら、きっと僕がいなくてもガーゴイルの脅威をなんとかするでしょう。なので、僕はゴブリン大灯台に赴いて、そののちの最後の飛来種の襲来に備えて知見を広げておきます。僕は僕なりに、お二人のように人の役に立てるよう努力してみます。じゃないと、僕はいったいなんのためにこの惑星ALICEに転移されたというのでしょう?』
ボルサがこれをいつ書いたのかはわからない。俺が森爺のところに行っているあいだか、それとも朝起きてからか。しかし、あいつが思い悩んでいたのは、いくらだって気づいてあげることはできた。そのチャンスは何度だってあったはずだ。しかし、俺にはそれができなかった。俺は自分の不甲斐なさに思いきり奥歯を噛みしめる。
俺とアリスと全然違う? そんなことはない。ボルサは俺とアリスにこの星のことをいろいろ教えてくれたし、アラクネのときやソフィエさんを助け出すときにも身体を張ってくれた。それに、今にして思えば昨日俺たちが数百の死ビトに囲まれたときにだって、あいつが禁忌とされる死霊使いの杖を使って俺たちの逃げ道を確保してくれたのだ。黙って望楼から見ていることもできたというのに。
「どうしたウキキ殿? 表情がこわばっているぞ?」
「あ、ああわるい……。俺の準備は万全だ、すぐにファングネイ王国に向かおう」
ボルサが死霊使いの杖を盗んだ理由はわからない。しかし、それがこの世界に混乱を呼び寄せるためだとかでないことはわかる。あいつがそんなことをするはずがない。
俺は部屋の扉を開け、アナを先に出してからボルサが寝ていたベッドを振り返る。もしこれから先、あいつの敵になる奴がいるとしたら(俺と同じように、ボルサも作らなくても良い敵を作ってしまうことになるだろう)、俺がそいつら全員の敵になってやる。俺はそう胸に誓い、静かに扉を閉める。




