279 海の底の静けさを愛する
ハンマーヒルの門を抜けると、アナがこちらに駆け寄って来るのが見えた。白いロングスカートと青いミスリルの鎧を部分的に装着する、馴染み深い格好をしていた。全力で走ってきたのだろうか? 彼女は俺の目の前で膝に手をつき、しばらく息を喘がせていた。セミロングの茶色い髪が細い滝のように美しくしだれ、おくゆかしいうなじを覗かせていた。
「ウキキ殿も人が悪い」とアナは下を向いたまま言った。そして顔を上げ、少し不器用な微笑みを浮かべた。「アリス殿の元に帰って来たのなら、文烏ぐらい飛ばしてくれればいいものを」
俺は差し出された握手に答え、気が回らなかったことを謝った。アナはもう一度はにかむように頬を持ち上げ、ふっと笑った。
少し遅れて、望楼からボルサミノが下りてきた。彼は俺とアリスに会釈をし、それから微笑んだ。
「打ち上げ花火は多少効果があったみたいですね。明日の出発の準備をしていたら上からお二人の姿が見えたので、急遽アナさんに打ち上げてもらったんです」
俺は礼を言い、いくつか質問をした。花火についてや、俺とアリスを囲む寸前だった数百の死ビトの輪が、急に海を割るみたいに道を開けたことだった。
「僕も上から見ていて不思議でした」とボルサはいかにも不思議そうに言った。「あの花火はただの花火です。死ビトの注意を引きつけるだけのものです。あんな効果はありませんよ」
俺の背中で眠っているリアが、突然クチュンとくしゃみをした。アナとボルサの視線がすぐにそこに注がれた。今度は俺が質問に答える番だと思われたが、彼らはそれをしばらく保留し、俺たちを領主の館まで連れていった。
「出発の準備と言っていたけれど、ショッピングモールに来てくれようとしていたの?」
道すがら、アリスはワンピースだけという寒そうな格好のリアに自分のコートをかけてやりながら、そうアナに尋ねた。
アナは頷いた。「しかし、ウキキ殿が帰って来たのならもう大丈夫だな」と明るく彼女は言った。
「ああ、心配かけたな、もう大丈夫だ」と俺は言った。「でも……もっと大丈夫じゃない案件を持ってきたんだ」
門衛のおじさんが俺たちに気づき、フランクな挨拶を口にしながら領主の館の大袈裟な扉まで導いてくれた。よく冷える夜ですね、と彼は言った。本当によく冷える冬の夜だった。リアがもう一度かわいいクシャミをすると、おじさんは愛くるしいものを見るような目でリアの顔を覗き込み、優しく笑った。
*
広々としたロビーはたくさんの人で溢れかえっていた。そのほとんどが筒状になった書状を手にしていた。嘆願書です、とボルサが先取りするように教えてくれた。
「円卓の夜が始まると、毎回こうして多くの人々が不安や要望を抱えて領主のもとにやってくるんです。それを一人ひとりから直接聞き、判断を下す。行政にとっては、死ビトの増加よりも、嘆願書が増えることのほうが頭を悩ます種と言えるかもしれません」
俺はロビーを横目に長い通路を歩き、アナが扉を開けた部屋に入り込んだ。そしてコの字になったソファーの端にリアを寝かせ、またボルサの顔を見て尋ねた。
「じゃあ、領主代理の婆さんがあの人数を捌いてるのか? かなりの歳なのに、大変だな……」
ボルサは何も答えなかった。メガネの縁に手をやり、気まずそうに黙っていた。
「誰が歳だい? それに、あたしゃもう引退した身だよ。あんなしんどいことは二度とごめんだね」
コの字の右側に座る人物が煙をくゆらせながら、ドスを利かせた声で俺の発言を咎めた。なんかごつごつとした趣味の悪いアクセサリーをあしらった新鮮なミイラが置いてあるなと思っていたら、領主代理の婆さんだった。
俺は何も言わなかった。たぶんこの場合、弁解をするよりは黙っているほうが得策なはずだ。
アナが堪え切れない様子でぷっと笑い、それから取りつくろうように口を開いた。
「民の相手をしているのはリュイ様だ。亡き領主様の――ダスディー・トールマン様と呼ぶべきだが、どうにも癖が抜けなくてな――娘が正式な後継者になるよう、領主代理が影で動いていたのだ」
領主代理はキセルを打って小粋に火皿の灰を落とし、さも面白くなさそうに言った。
「別にあたしゃ好きでそうしたわけじゃないよ。ただ、夫の馬鹿兄弟にこの街を明け渡すぐらいなら、落とし子のハーフエルフを領主にすげるほうが幾分ましというだけさ」
丁寧なノックのあとに扉が開き、外套を纏った老齢の男が申し訳なさそうに領主代理の横に立った。彼女は終始機嫌が悪そうに彼の言伝を聞き、「まったく、いつになったらあたしを隠居させてくれるっていうんだい!」と口にして部屋を出て行った。新しい領主が助けを呼んだみたいだった。
閉まった扉を見ながら、アナがまた笑いながら言った。「ああ言うが、代理はリュイ様のことを高く買っている。それに亡き夫の落とし子とはいえ、ある程度の親しみは感じているみたいだ。代理は子を持てなかったが、それでも愛し尊敬した領主様の娘がこの地上にいるというだけで、喜びを見いだせるのだろう」
ハニー・オレンジをひと口飲んでから、アリスがきょろきょろとまわりを見ながら尋ねた。
「娘のユイリはいないの? まだファングネイ王国でソフィエの看病をしているのかしら?」
アナは頷いた。
「ああ、もう少しソフィエ様の様子を見ると文には書いてあった。突然、母がこんな馬鹿デカい街の領主になってすごく驚いていたよ」
急にソフィエさんの名前が出てきたので、俺の心臓がわかりやすい心音を立てた。彼女の送り人の巫女装束姿と、屍教に囚われていたときの白装束姿が、背反する物語のヒロインみたいに俺の脳裏に浮かんだ。どちらもすごく美しかった。この世の誰も触れることすらできないぐらい儚く、そして透明性を帯びていた。
話はリアについてのことに移っていた。アリスは勿体ぶらずに、ソファの端っこですやすやと眠っているのは双子の月の女神の妹だと明かしたようだった。アナもボルサも特に驚いているようには見受けられなかった。そして、それは俺が持ち込んだこの異世界の終わりを予感させる話を最後まで聞いても変わらなかった。
一息つき、俺はハニー・オレンジの注がれた陶器製のコップを口元で傾けた。静かにテーブルに置くと、アナが真剣な眼差しで俺の目を見ながら口を開いた。
「それで――」と彼女は言った。「ウキキ殿とアリス殿が我々に話す以上、そのガーゴイルの起動を阻止する手立てがあるのだろう? どうすればいいのだ?」
アリスがソファーから跳ね起き、偉そうに両手を腰にあてて宣言するように言った。
「四大精霊を精霊王のもとに集結させるわ! ふたりとも、私に力を貸してちょうだい!」
*
領主の館でそのまま夕食をご馳走になり、風呂を済ませてから用意された客室のベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。隣のベッドにはボルサがいた。彼は大きな革の鞄を几帳面に棚にしまい、メガネを枕元の台に置いて既に布団に入っていた。
「残された時間は四十五日ですか……」と彼はしみじみと物思いに耽るように言った。「いえ、もうすぐ四十四日間になってしまいますね」
俺は相槌を返し、天井を眺めるともなく眺めた。まぶたが自然と閉じようとしていた。しかし寝るわけにはいかなかった。俺にはこのハンマーヒルで早めに済ましておかなくてはならないことがある。
俺はボルサに一つ質問をした。彼はきょとんとした様子で、しかし抜かりなく答えてくれた。やっぱりなと呟き、俺はベッドから起きてコートを着込んだ。どこに行くんです? と彼は訊いてきた。
「俺たち転移者の大先輩――森爺のところだよ。はっきりさせておきたいことがあるんだ」
どんなことです? とボルサはまたメガネをかけて興味ありげに尋ねた。自分が紹介した人物をこんな夜更けに訪ねようとしているので、そりゃ憂いにも似た興味があって当然かもしれない。
しかし、俺は明言を避けた。「はっきりしたら、あとでボルサにも言うよ。ただ――真実はどうしたってあばかれるものなんだ。『罪の意識の欠落した、犯罪ではないちょっとした悪意。それがなくなれば、この世界はもう少しだけマシなものになるとは思わないか?』」
ボルサは目を一瞬伏せてから優しく微笑みかけた。「誰の言葉です?」
「俺の尊敬する先輩の言葉さ。昇進試験に七回落ちてるな」
*
スマホのホーム画面は十一時十二分を示していた。俺はコートのポケットに手を突っ込んで、夜の街を北に進んでいった。
『ええ、最初に森爺を訪ねたときに、彼は僕の今後を占ってコインを投げました。残念ながら裏が出てしまいましたが』
先ほどボルサから得た質問の答えを、俺は何度も頭のなかで繰り返した。それからふと、このハンマーヒルの領主になった女性の娘のことを考えた。落とし子の娘。一部から疎まれる裏姫と呼称されるユイリ。海の底の静けさを愛する美少女。十七歳のハーフエルフで、大いに将来を嘱望される送り人見習い。
裏姫で何が悪いのだろう? 俺は偶然目にしたユイリの裸を思い出した。恥ずかしそうに背中を向けて座り込む華奢な身体と、その感情に反駁するようにそそり立つ誘惑的な長い耳。
裏姫で何が悪いのだろう? 双子の月の女神を『悪しき者』と決めつける連中もそうだが、本当にこういう奴らの考えることはわけがわからない。おでこをペチンと叩いてやりたい。
だけど、と俺は呟いた。街灯の下でイチャイチャしているカップルが、俺の言葉に驚いて体ごと視線を向けてきた。もしかしたら男か女のどちらかが『ダケド』さんなのかもしれない。いずれにせよ、こいつらのおでこもペチンと勢いよく叩いてやりたい。
森爺の住む家に着き、俺はその木製の扉をノックした。意外とすぐに扉は開かれた。隙間から疑念に満ちた表情で森爺が顔を出してきた。
だけど――裏は裏でも、この異世界での生き方を占ったコインがこう立て続けに裏になるのは気に入らない。
挨拶をすると、やはり疑わしい目で彼はそっけなく返事をした。紅い四の月が、彼のしわと染みだらけの顔面を不気味に照らし続けていた。




